第7話 天使の降臨

文字数 2,830文字

 浩司はS町で酒屋を営んでいる。この酒屋は祖父の代から続く個人商店で、商店街の一角に店を構えて約八十年になる。商店街の歴史は古く、戦前から続く古い商店が集まる所謂(いわゆる)「アーケード街」だ。
 また、商店街の商店と近隣の会社が集まって商工会も組織しており、浩司はそこの役員も兼任していた。

 小林家には浩司のほかに妻の楓子と浩司の母親の絹江(きぬえ)がおり、建物は一階の半分が店舗で残りの半分が倉庫と車庫。居住スペースは二階にある。

 そんな酒屋の店内で、今日は朝から浩司がそわそわと落ち着きがなかった。

 今日は家に赤ん坊を迎える日である。
 ベビーベッドは用意したし沐浴用のベビーバス、新生児用のチャイルドシート、ベビーカーに紙おむつなど思いつく限り必要なものは用意した。
 
 午前十一時に児童相談所の担当者が赤ん坊を連れて来る約束になっているが、いまはまだ午前十時過ぎ。約束の時間には早すぎる。
 しかし落ち着かない浩司は、開けたばかりの酒屋の店内をうろうろと歩き回る。その様子を見た楓子が事務室の奥で笑っていた。

 ろくに仕事もせずにいつまでもうろうろしている息子の姿。見かねた絹江が大きな声をかけた。

「これ浩司!! 少しは落ち着かんか。今からそんなんでどうするかね、まったく。少しは楓子さんを見習わんといかんよ!!」 

 いい歳をした大人だというのに、久しぶりに母親に叱られた浩司。彼は苦笑いを浮かべながら再び仕事を始めたのだった。



 そうこうするうちに店へ来客があった。いや、正確には客ではなく、三件隣の高橋和菓子店の主人、高橋喜美治(たかはしきみはる)である。最近とみに薄くなってきた髪を丁寧に撫でつけながら店へ入ってきた。

「おう浩司、どうした? なにをうろうろしてるんだ? なんだか落ち着きがないな」

 見れば喜美治は作ったばかりの饅頭を手に持っていた。
 彼は浩司の若い頃からの知り合いで、年齢は二歳上の四十六歳。他の商店街の主人たちとつるんで近所のスナックに行く「飲み仲間」の一人で、歳が近いこともあり昔から浩司とは仲が良かった。

「いや、実はその……」

 養子縁組の話は誰にもしていなかった。そもそもこちらから言い触らすような話でもなかったし、いずれ赤ん坊がいるようになれば嫌でも訊かれることになるからだ。
 それでもやはり、彼だけには話しておこうと浩司は思った。

「実はこれからうちに赤ん坊が来るんだ。だからなんだか落ち着かなくてさ」
 
 喜美治は怪訝な表情を隠さなかった。以前から楓子が妊娠している様子は見られなかったし、浩司の口から赤ん坊の話など聞いた事がなかったからだ。
 それにここ数年はその話題は意図的に避けていたので、彼の口からまさかそんな話が出て来るとは思っていなかった。

「どうせすぐにわかる事だから話しておくけど、俺たちは養子を貰うことにしたんだ。それでこれから家に来るんだけど、今まで赤ん坊の世話なんてしたことがないからさ。なんだか落ち着かなくて」 

 咄嗟の出来事に喜美治が言葉を失う。どう答えればいいのか、頭の中は混乱しているが、何も言わないわけにはいかない。一瞬の沈黙の後にようやく彼は口を開いた。

「そ、そうか……養子か。ついに決心したんだな。それで性別は?」

「女の子だ。生後二ヵ月弱かな」

「おぉそうか、女の子か。――そうだ、うちの和泉(いずみ)が妹が欲しいって煩くてよ。ぜひうちの娘と仲良くしてくれないか」


 和泉とは喜美治の小学二年の二女である。常から妹が欲しいと言っていたのを思い出す。和泉には姉がいるのだが、歳が離れているので普段からあまりかまってくれないと愚痴を零していた。年の近い妹がいれば、一緒に遊んだりできると和泉は思っているらしい。

「あぁ、こちらこそ。和泉ちゃんにも仲良くしてくれって言っといてくれよ」

「おう、言っとくよ。それじゃあ悪いが、俺はもう帰るな」

「あぁ、来たばかりなのにすまないな。夕方に来てくれれば、我が家の長女を紹介するよ」

「わかった。それじゃあまたあとで顔を出すよ。和泉を連れてな。あぁそうだ、これ饅頭な。食べてくれ」

「いつも悪いな」

 喜美治はそういい残すと、そのままそそくさと帰って行った。 



 ◆◆◆◆



 午前十時五十分。予定よりも早く到着した車を家族総出で迎えた。
 赤ん坊を乗せた大きなワゴン車の助手席から、少し丸みを帯びた体型の中年の女が降りてくる。その優しい微笑みを浮かべる表情からは子供好きであることが伺えて、見る者に安心感を与えていた。

「小林さんですね。児童相談所の高倉と申します。この度のご縁で赤ちゃんをお連れしました」  

「小林です。お世話になります」

 浩司を先頭に楓子と絹江が並ぶ。これでは店の中が無人になると思うのだが、今はそんな事にかまっている場合ではない。

 彼らにとって今日という日はずっと待ちわびていた特別な日である。場合によっては店を閉めることも(やぶさ)かではなかった。
 それは自営業の個人商店だからこそ成せる業とも言えよう。

「いえ、こちらこそお世話になります。それで赤ちゃんなのですが、今はぐっすり眠っています。こちらへどうぞ」

 言いながら高倉がワゴン車のスライドドアを開ける。その光景に全員が凍り付いた。
 

 そこには天使がいた。

 染み一つ無い真っ白な肌。
 薄く赤みを差した柔らかそうな頬。
 緩くウェーブする白に近い金色の髪。
 少々垂れ目がちな目元を覆う金色の長い睫毛。
 紅を引いたように紅い可愛らしい小さな唇。 

 まるで絵本に出て来る天使のようだ。その姿に思わず全員が息を飲む。
 乳児用のチャイルドシートに固定された天使は窮屈そうにしていたが、それでもすやすやと気持ち良さそうに寝息を立てていた。

 初めて見る赤ん坊の姿。あまりに大きな衝撃に夫婦は言葉も出なかった。
 確かに天使のような赤ん坊だと聞いてはいたが、実際に見てみるとその愛らしさは想像の何倍も上をいっていたのだ。
 
 とはいえ、未だ本当の家族になったわけではない。これから六ヶ月の観護期間を経て、最後に家庭裁判所が養子縁組の決定をするからだ。それまでは決して気が抜けない。


「小林さん? どうしましたか?」 

 動きを止めた小林夫妻へ高倉が声をかける。彼女はこれまで多くの子供を里親と引き合わせてきたが、これほど極端な反応を示す夫婦は珍しい。彼女は二人の様子をじっと観察した。

 もっともそれは十分に理解できるものだった。高倉自身もこの赤ん坊の愛らしさには特別なものを感じていたし、初めて見た瞬間に笑顔になってしまったのだから。

「まあまあまあ! この子が今日から私たちの家族になるのね。本当に天使みたいに可愛いわ」

 突然の絹江の声にハッと夫婦は我に返ると、改めて眠る天使の姿を見つめ直した。その姿はいつまで見ていても飽きることがないほどに愛らしく、この子がこれから自分たちの娘になるのだと思うと感無量になる。

 子供との生活は小林夫妻にとって長年の夢だった。今、その夢が現実となったのだった。
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