第72話 幼馴染の叔父

文字数 3,854文字

 健斗の母、(みゆき)が帰宅した。
 勤め先の病院は水曜日の午後が休診なので、いつもこの時間に帰って来ると溜まった家事の片付けや母親の病院への付き添いなどの雑事を行う。
 健斗もゴミ出しや洗濯物の片付け、家の掃除など、できる範囲で家事を手伝っている。以前はそれらを昌枝が担っていたが、昨年に認知症が悪化してからはほとんど手を出さなくなっていた。

「ごめんねぇ、桜子ちゃん。遅くなっちゃって。少し残業したものだから」

「いえ。こちらこそすいません。留守中にお邪魔して」

「ぜんぜんいいわよぉ。――それで健斗、あんた、もちろんお茶は出しているのよね?」

「あ……ごめん」

「ごめんじゃないわよ! だめじゃないの、まったく。桜子ちゃんだってお客様なんだから! もぉ、気の利かない子ねぇ!」

 幸の突っ込みに健斗がバツの悪そうな顔をする。どうやら彼は茶を出すのをナチュラルに忘れていたらしい。見ていた桜子が両手をひらひらさせて健斗を擁護した。

「あ、いえ、お構いなく。来たばかりだし」

「ごめんねぇ。健斗ったら気が利かなくて。これだから男の子は……」
 
 ぶつぶつと文句を言いながら幸が茶を入れ始める。
 幸には聞かせられない話もあるので、本音を言えば桜子は健斗の部屋で二人きりになりたかった。しかしそれは絶対にダメだと事前に幸から釘を刺されていたので諦めることにした。

 いくら健斗を信用していても、未だ未熟な中学生を個室で二人きりにするなど親としては絶対に認められない。もしも何かあれば、桜子の両親に申し訳が立たないではないか。
 茶で唇を湿らせ、ほっと一息ついたところで再び幸が口を開いた。

「それで今日はどうしたの? 桜子ちゃんがうちへ来るなんて珍しいよね」

「すいません、おばさん。今日は健斗の準優勝のメダルを見せてもらおうと思って」
   
「あらあら。そうねぇ、よくよく考えたら、この子ったら準優勝だったのよねぇ。怪我だけ見ると、まるで初戦で負けた人みたいだけどね。あはははは」
 
 笑いながら幸が健斗のギプスを指で突く。思わず健斗が声を上げた。

「やめろよ、痛いだろ! ったく……。でもさ、確かに母さんの言いたいこともわかるよ。俺はあいつに完敗だった。本当にまったく歯が立たなかったんだ……」

 今さらながらに試合の顛末を思い出した健斗は、どこか悔しそうな顔をした。


 その後30分ほど幸も一緒に会話を楽しんでいると、そこへ奥の部屋から昌枝が出てくる。幸が二言三言会話をすると、おもむろに振り返って首を横に振った。それを見た健斗が桜子へ告げた。

「ごめん。ばあちゃんの調子が良くないみたいなんだ。これから病院に連れていかないといけないから、悪いけど今日はここまでにしていいかな」

「もちろんだよ。あたしなんかより、お婆ちゃんを優先して。こっちこそごめんね。無理に時間を割いてもらって」

「あ、いや、こっちこそすまない。とりあえず家まで送っていくよ」

 一人で帰れるからと申し出を断ったが、どうしても送って行くと健斗が聞かないので、やむなく桜子は受け入れた。
 二人が揃ってリビングから出ようとしたその時、不意に昌枝が声をかけてくる。見れば健斗に追い縋ろうとしていた。

「あぁ秀人や、どこへいくんだい? 私を置いて行かないでおくれよ……」

「お母さん。あの子は健斗でしょう? 秀人じゃないの、わかる?」

「あぁ、すまなかった……お前は何も悪くない。悪いのは母さんだったんだよ……だから置いて行かないでくれ……」

「ちょっとお母さん。ほら、病院へ行くんでしょう? ね? ほら、こっちよ」

 
 自宅への帰り道。隣を見れば健斗がいる。しかしその存在すら忘れたかのように桜子は思考の海を泳ぎ続けていた。
 実のところ健斗は少しでも桜子と一緒にいたかったので家まで送ると申し出ていたが、当の桜子がずっと無言なので会話の糸口がつかめずにいた。

「なぁ、どうしたんだ? 何か考え事でもしてるのか?」
  
 痺れを切らした健斗が口を開いてみても、桜子は一向に言葉を発しようとしない。もしかして聞こえていないのだろうか。どさくさに紛れて桜子の手を握ってみても、やはり反応が返ってくることはなかった。
 そんな健斗を尻目に、桜子はひたすら物思いに耽る。

 健斗の祖母、昌枝の苗字は鈴木である。
 そして彼女は間違いなく秀人の名を呼んだ。

 鈴木秀人。まさにあの人の名だ。果たしてそれは偶然なのだろうか。
 秀人が顕在化してからというもの、しばしば幼い頃に見ていた古い記憶らしきものを見なくなっていた。特に今年に入ってからはまったく見た記憶がない。

 改めて思い出してみる。するとそこには間違いなく若い頃の幸や昌枝らしき人物がいた。
 あれは見間違いなどではない。今ならばはっきりと断言できる。
 今夜にでも秀人を問い詰めてやろう。そう心に誓う桜子だった。

 ふと意識が現実に戻った桜子は、自身の右手が握られていることに気付く。横を見れば正面を向いたままの健斗が頬を紅く染めていた。
 常ならば桜子の方から手を繋いでいたが、初めて今日は健斗の方から手を取った。その事実に嬉しくなった桜子は、そのまま指と指を絡めてギュッと力を籠めるのだった。

 
 その日の夜。桜子は就寝前に心の中で秀人に会いたいと祈っていた。
 柔道の試合の日。久しぶりに秀人が出てきたものの、彼と会話はしていない。意識せずに生活していると次第にその存在を感じなくなり、ここ最近は彼の存在を現実のものとして理解できなくなりつつあった。
 けれどふとしたタイミングで現れるのを見ていると、やはり自分は守られているのだなと、改めて思う。
 はっきり言うと、そのくらい普段の秀人は存在感が希薄だった。


 桜子は夢を見ていた。
 見渡せば、真っ暗な世界の中で自分だけが薄明かりを帯びていた。
 ここで待てば必ず秀人が現れる。それを知っている桜子がそのままふよふよと漂っていると、前方から人の形をした光が近づいてきた。

「よう、元気そうだな」

 相変わらず片方の口角だけを上げた皮肉そうな笑み。やはり秀人だ。安堵とともに桜子が口を開いた。

「こんばんは。鈴木さん、お久しぶりです。まずはお礼を言わせてください。先日はあたしだけでなく、健斗まで助けてくれてありがとうございました」

「ふふん。べつに礼を言われるほどのことはしてねぇよ。それより健斗は災難だったな」

「本当にね。運が悪かったというか、相手が悪かったというか……」

「まぁ、どっちもだな。あの野郎、もっと自分の実力を(わきま)えろってんだ。ったくよぉ」

「……」

 それから暫く、二人は他愛のない会話をしていたが、その最中に桜子は秀人に対して違和感を覚え始めた。話をしつつその原因を探っていると、ある事に気付いた。
 意図しているのだろうか。今日の秀人は妙に紳士的に感じる。もっとも普段に比べれば多少は……という程度ではあるが、それでも何かしらの意識的なものを明確に感じた。なので桜子は尋ねてみた。
 
「あのね、鈴木さん。少し訊きたいことがあるんだけど」

 その言葉に秀人の眉がピクリと動く。それは心の内に何か(やま)しいことを隠している者のそれだった。

「な、なんだ? 俺はもうそろそろ帰ろうと思っていたところなんだが。最近は色々と忙しくてな」

「帰るって、どこへ? それに忙しいってなに? ねぇ鈴木さん、誤魔化さないで答えてくれる? 昼間の出来事は見ていたんでしょう?」

「……まぁな。で、何を訊きたいんだ?」

 そこまで言われてしまえば否やはない。もはや誤魔化すことを断念し、秀人は覚悟を決めたように姿勢を正した。 
 その彼へ桜子が言う。

「健斗のおばあちゃんが健斗を『秀人』って呼んでたんだけど……あれはなに? 単なる偶然なの? それと、おばあちゃんの名字も『鈴木さん』なんだけど……これはどういうこと?」

「……偶然なんかじゃない。健斗の祖母――鈴木昌枝は俺の母親だ」

 その名を口にするのも、母親と呼ぶのも虫唾が走る。吐き捨てるようにそう言った秀人の顔は苦渋に満ちていた。
 一方で桜子の顔は驚きに満ち、その目は大きく見開かれ、次に何を言えば良いのか分からなくなった。
 
「えぇぇっ! じゃ、じゃあ……健斗の家って鈴木さんの家だったの!?」 

「そうだ、俺が生まれ育った家だ。18まではそこで暮らしていた」

「じゃ、じゃあ、幸さんは?」

「話の流れから言って姉に決まってんだろ。言わせんな」

 そう告げるのも憚られるのか、秀人の眉間の皺がさらに深くなる。

「……ということは、鈴木さんは健斗の……叔父さん?」

「あぁ。言われてみれば、俺と奴はそういう関係になるな」

 秀人が桜子の顔をチラリと見た。眉間には変わらず深い皺が刻まれていたが、その顔にはやや桜子を窺うような表情が混じり始めた。
 どうやら彼には何か思うところがあるらしい。しかし桜子はそれには気付かず、白く細い腕を組んでうんうんと唸り始めた。

「ふぅーむ……」

 今さらではあるが、秀人は桜子の前世の人物であるらしい。本来であれば生まれ変わりの際に桜子の人格に取り込まれるはずだった。しかしそれを意地悪な神が阻止したために、今では別の人格として同居している。

 それはつまり――秀人は桜子であり、桜子は秀人でもあるということを意味する。

 ん? ちょっと待って。
 ということは……

 そこである結論に達した桜子は、信じられないと言わんばかりに大きな声を上げた。

「えぇぇぇぇ!? そ、それじゃあたしって、健斗の叔父さんなの!?」
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