第29話 バレンタインと黒い塊
文字数 3,438文字
桜子の進学する中学校は近所の公立校に決まった。
両親はすっかり私立の女子中学へ進学させるつもりでいたが、ある日突然に桜子が、みんなと同じ中学へ進みたいと言い出したのだ。
おずおずと遠慮がちに口を開く娘を見て、両親は初めこそ心配したものの、事件前の状態に戻りつつある最近の様子から大丈夫だろうと判断した。なにより、これまで桜子が築いてきた友情を大切にしてあげたいと思ったのだ。
たとえ誰も知る者のいない学校へ進学したとしても、新聞やニュースであれだけ報道されたのだから、すぐに桜子が誘拐事件の被害者であることは知られてしまうだろう。
その結果、以前教室内で孤立した経験を再び繰り返すことになりかねない。それを考慮した両親は、現在の友人関係を維持しながらの進学が最善だと判断した。今の桜子にとって、最も大切なのは「人とのつながり」なのだから。
そして健斗がいる。健斗は常に桜子を見守ってくれる。本音を言えば、12歳の子供に頼ることに大人として複雑な思いもあるが、家族以外で桜子を最も理解しているのは彼であり、学校でも大きな支えとなっている。
桜子の男性恐怖症は依然として続いていた。周囲に人がいたり、相手との距離があれば問題ないが、部屋の中のような閉鎖された空間では、距離にかかわらず発作が起きることがある。
特に効果的な治療法はなく、時間をかけて徐々に克服していくしかないと医者は言う。そのため、現在はそういった状況を避けるように注意するしかなかった。
桜子が健斗に同じ中学への進学を告げた時、彼は頬を掻きながら「そうか。これからもよろしくな」と短く返答するに留めた。健斗は普段から目が細いが、その時はさらに目を細めて、明らかに喜んでいる様子だった。
◆◆◆◆
2月14日。バレンタインデー。
老いも若いも、世の男女の一大イベントの日である。
バレンタインデーを前にして、当然ながら桜子の周囲では数日前から慌ただしくなっていた。特に男子生徒たちは「今年こそは」と期待に胸をそわそわさせる。
けれど、桜子に期待を抱く者は誰一人いなかった。それは彼女が、バレンタインデーに誰にもチョコレートを渡さないことで有名だったからだ。
実際、桜子はこれまで家族以外の誰にもチョコレートを渡したことがなかった。いや、正確には、以前に一度だけ渡そうとして未遂に終わっていた。
それは桜子が小学2年生の時の話である。
当時、バレンタインデーの意味をよく理解していなかった桜子は、母親の楓子に「好きな人にチョコレートをあげる日」だと聞いた。その言葉を信じて好きな人を数えたところ、なんと30人にもなってしまった。
誰に優先して渡すべきか決めかねてしまい、泣きそうになりながら楓子に相談したところ、「それは男の子だけに渡すものだ」と教えられた。
それで次に男の子だけに絞り込んだのだが、それでもまだ10人以上がリストに残ってしまい、全員にチョコレートを買うお金がないという問題に直面してしまう。
すると最終的に、楓子がその解決策を提案してくれたのだった。
「大きな板チョコを買ってあげる。ママも手伝うから、溶かして型枠に入れて手作りしましょう」
というわけで、桜子は人数分のチョコレートを手作りすることにしたのだが、いざ完成してみると、二人の前には真っ黒い歪な塊 が並んでいたのだった。
ただチョコレートを溶かして型に入れただけなのに、なぜこのような結果になったのかは全くの謎である。しかし、味見をしたところ味は普通だったため、せっかく作ったのだからということで、それらを袋に小分けして学校へ持っていくことにした。
チョコレートを渡すべく、最初に選んだのは健斗だった。しかしその時、横から別の女の子が現れて、目の前で健斗にチョコレートを渡してしまった。それは透明なビニール袋に包まれて、中身がはっきりと見えた。
そのチョコレートは手作りらしく、可愛らしいハートの形をした掌ほどの大きさで、カラフルなトッピングがキラキラと輝いていた。健斗はそれを笑顔で受け取り、女の子は帰り際に桜子へ鋭い視線を送っていった。
桜子は怖気づいてしまう。あの美しく飾られたチョコレートの後に、自分の作った真っ黒い歪な塊 を渡すなど考えられない。もしかすると、自分はとんでもないものを持ってきてしまったのかもしれないと不安に思った。
その瞬間、桜子は女の子が男の子にチョコレートを渡す意味を正しく理解する。
他の女の子たちが持ってきたチョコレートは、皆可愛らしい袋に入れられて、美しく飾り付けられていたのだから。
一方で、桜子のチョコレートは装飾のないただの茶色い紙袋に入れられて、さらに中からは件の真っ黒い歪な塊 が現れるのだから目も当てられない。
もはや彼女にとって、これ以上に恐ろしいことはなかった。
恐怖を感じた桜子が、誰にも見られないようにチョコレートの袋をこっそりと鞄に隠していると、背後から友里が声をかけてきた。
「桜子ちゃんは、誰かにチョコあげないの?」
その言葉に桜子は固る。まさかこの真っ黒い歪な塊 をみんなに見られるわけにはいかない。
彼女は冷や汗を流しながら咄嗟に、
「あ、あたしはそういうイベントは好きじゃないから。そ、それに、誰からも貰えない男子が可哀そうだし。だから、あたしは誰にもあげないんだよ」
などと、よくわからないことを言ってみた。
「ふぅーん、桜子ちゃんってこういうことに興味ないんだね」
「そ、そう。興味ない……かも……ね」
「でも桜子ちゃんが参加しないと、喜ぶ女の子が多いと思うよ。なんたって、ライバルが減るからね」
「ど、どういう意味かな、それ……?」
家に帰ると鞄の中から大量の真っ黒い歪な塊 が出て来たので、始末に困った桜子は、顔に満面の笑みを張り付けて浩司に手渡してみた。
意外にも浩司はその真っ黒い歪な塊 に大喜びし、感動のあまり目に涙を浮かべながら口いっぱいに頬張り、咽び泣いた。
バレンタインイベントは好きではない、興味がない。
話の流れと勢いからそういうことになってしまった桜子は、翌年以降もバレンタインには参加しなかった。いや、正確に言うと、できなくなったのだ。
彼女のこの決断は、女子生徒たちからはむしろ歓迎された。なぜなら、桜子は多くの女子たちから強力なライバル視されていたからだった。
桜子は誰にもチョコレートを渡さない。
それはその時から周知の事実になった。
そして話は現在に戻る。
健斗が放課後に下駄箱で靴を履き替えていると、不意にそこへ桜子が現れた。通常ならば、彼女と一緒にいるはずの陽菜と友里が今日はどういうわけかいなかった。
「健斗、今帰るとこ? それじゃあ、一緒に帰ろ」
「あぁ。でも、帰りにスーパーに寄って帰るから、そこまでな。それより、陽菜と友里はどうした?」
「……えぇと、今日はちょっと一緒じゃないんだ」
「ふぅん」
最近の桜子の振る舞いは、事件前とそう変わりがないように見える。それは彼女が努めて平静を装っているからなのだが、少なくとも友人たちには、その姿が事件の影響からほぼ抜け出しているように映った。
しかし、健斗には桜子の中に未だ事件の影を感じさせる箇所が垣間見える。だから彼は、焦らず、急がず、桜子がゆっくりと元の状態に戻ればいいと考えていた。
「じゃあ、また明日な」
母親から頼まれた用事があったため、健斗がスーパーの前で桜子と別れようとしたその時、突如として目の前に何かが差し出された。
「はい、どうぞ。受け取って」
健斗が手元を見ると、桜子が青い紙袋を差し出していることに気づく。それは可愛らしい赤いリボンで飾られていた。
「一生懸命作ったんだから、味わって食べてね」
健斗が顔を上げると、桜子が「えへへ」と少し顔を赤らめながら恥ずかしそうに笑っていた。
「これは……?」
思わず健斗が口ごもる。桜子が唇を尖らせた。
「ねぇ健斗。そんなことを女の子に言わせたらダメじゃない。だから健斗は今年も誰からもチョコを貰えなかったんだよ」
言いながら桜子は、半ば強引に健斗に紙袋を押し付けて、くるりと振り向いて走り出した。
「じゃーねー! また明日!」
赤く染まった顔を隠すように勢いよくスカートの裾を翻し、桜子が公園から駆け出していく。
それは桜子が家族以外にあげた初めてのチョコレートだった。
それを健斗は手に持ったまま、細い目をさらに細めて立ち尽くしていた。
両親はすっかり私立の女子中学へ進学させるつもりでいたが、ある日突然に桜子が、みんなと同じ中学へ進みたいと言い出したのだ。
おずおずと遠慮がちに口を開く娘を見て、両親は初めこそ心配したものの、事件前の状態に戻りつつある最近の様子から大丈夫だろうと判断した。なにより、これまで桜子が築いてきた友情を大切にしてあげたいと思ったのだ。
たとえ誰も知る者のいない学校へ進学したとしても、新聞やニュースであれだけ報道されたのだから、すぐに桜子が誘拐事件の被害者であることは知られてしまうだろう。
その結果、以前教室内で孤立した経験を再び繰り返すことになりかねない。それを考慮した両親は、現在の友人関係を維持しながらの進学が最善だと判断した。今の桜子にとって、最も大切なのは「人とのつながり」なのだから。
そして健斗がいる。健斗は常に桜子を見守ってくれる。本音を言えば、12歳の子供に頼ることに大人として複雑な思いもあるが、家族以外で桜子を最も理解しているのは彼であり、学校でも大きな支えとなっている。
桜子の男性恐怖症は依然として続いていた。周囲に人がいたり、相手との距離があれば問題ないが、部屋の中のような閉鎖された空間では、距離にかかわらず発作が起きることがある。
特に効果的な治療法はなく、時間をかけて徐々に克服していくしかないと医者は言う。そのため、現在はそういった状況を避けるように注意するしかなかった。
桜子が健斗に同じ中学への進学を告げた時、彼は頬を掻きながら「そうか。これからもよろしくな」と短く返答するに留めた。健斗は普段から目が細いが、その時はさらに目を細めて、明らかに喜んでいる様子だった。
◆◆◆◆
2月14日。バレンタインデー。
老いも若いも、世の男女の一大イベントの日である。
バレンタインデーを前にして、当然ながら桜子の周囲では数日前から慌ただしくなっていた。特に男子生徒たちは「今年こそは」と期待に胸をそわそわさせる。
けれど、桜子に期待を抱く者は誰一人いなかった。それは彼女が、バレンタインデーに誰にもチョコレートを渡さないことで有名だったからだ。
実際、桜子はこれまで家族以外の誰にもチョコレートを渡したことがなかった。いや、正確には、以前に一度だけ渡そうとして未遂に終わっていた。
それは桜子が小学2年生の時の話である。
当時、バレンタインデーの意味をよく理解していなかった桜子は、母親の楓子に「好きな人にチョコレートをあげる日」だと聞いた。その言葉を信じて好きな人を数えたところ、なんと30人にもなってしまった。
誰に優先して渡すべきか決めかねてしまい、泣きそうになりながら楓子に相談したところ、「それは男の子だけに渡すものだ」と教えられた。
それで次に男の子だけに絞り込んだのだが、それでもまだ10人以上がリストに残ってしまい、全員にチョコレートを買うお金がないという問題に直面してしまう。
すると最終的に、楓子がその解決策を提案してくれたのだった。
「大きな板チョコを買ってあげる。ママも手伝うから、溶かして型枠に入れて手作りしましょう」
というわけで、桜子は人数分のチョコレートを手作りすることにしたのだが、いざ完成してみると、二人の前には
ただチョコレートを溶かして型に入れただけなのに、なぜこのような結果になったのかは全くの謎である。しかし、味見をしたところ味は普通だったため、せっかく作ったのだからということで、それらを袋に小分けして学校へ持っていくことにした。
チョコレートを渡すべく、最初に選んだのは健斗だった。しかしその時、横から別の女の子が現れて、目の前で健斗にチョコレートを渡してしまった。それは透明なビニール袋に包まれて、中身がはっきりと見えた。
そのチョコレートは手作りらしく、可愛らしいハートの形をした掌ほどの大きさで、カラフルなトッピングがキラキラと輝いていた。健斗はそれを笑顔で受け取り、女の子は帰り際に桜子へ鋭い視線を送っていった。
桜子は怖気づいてしまう。あの美しく飾られたチョコレートの後に、自分の作った
その瞬間、桜子は女の子が男の子にチョコレートを渡す意味を正しく理解する。
他の女の子たちが持ってきたチョコレートは、皆可愛らしい袋に入れられて、美しく飾り付けられていたのだから。
一方で、桜子のチョコレートは装飾のないただの茶色い紙袋に入れられて、さらに中からは件の
もはや彼女にとって、これ以上に恐ろしいことはなかった。
恐怖を感じた桜子が、誰にも見られないようにチョコレートの袋をこっそりと鞄に隠していると、背後から友里が声をかけてきた。
「桜子ちゃんは、誰かにチョコあげないの?」
その言葉に桜子は固る。まさかこの
彼女は冷や汗を流しながら咄嗟に、
「あ、あたしはそういうイベントは好きじゃないから。そ、それに、誰からも貰えない男子が可哀そうだし。だから、あたしは誰にもあげないんだよ」
などと、よくわからないことを言ってみた。
「ふぅーん、桜子ちゃんってこういうことに興味ないんだね」
「そ、そう。興味ない……かも……ね」
「でも桜子ちゃんが参加しないと、喜ぶ女の子が多いと思うよ。なんたって、ライバルが減るからね」
「ど、どういう意味かな、それ……?」
家に帰ると鞄の中から大量の
意外にも浩司はその
バレンタインイベントは好きではない、興味がない。
話の流れと勢いからそういうことになってしまった桜子は、翌年以降もバレンタインには参加しなかった。いや、正確に言うと、できなくなったのだ。
彼女のこの決断は、女子生徒たちからはむしろ歓迎された。なぜなら、桜子は多くの女子たちから強力なライバル視されていたからだった。
桜子は誰にもチョコレートを渡さない。
それはその時から周知の事実になった。
そして話は現在に戻る。
健斗が放課後に下駄箱で靴を履き替えていると、不意にそこへ桜子が現れた。通常ならば、彼女と一緒にいるはずの陽菜と友里が今日はどういうわけかいなかった。
「健斗、今帰るとこ? それじゃあ、一緒に帰ろ」
「あぁ。でも、帰りにスーパーに寄って帰るから、そこまでな。それより、陽菜と友里はどうした?」
「……えぇと、今日はちょっと一緒じゃないんだ」
「ふぅん」
最近の桜子の振る舞いは、事件前とそう変わりがないように見える。それは彼女が努めて平静を装っているからなのだが、少なくとも友人たちには、その姿が事件の影響からほぼ抜け出しているように映った。
しかし、健斗には桜子の中に未だ事件の影を感じさせる箇所が垣間見える。だから彼は、焦らず、急がず、桜子がゆっくりと元の状態に戻ればいいと考えていた。
「じゃあ、また明日な」
母親から頼まれた用事があったため、健斗がスーパーの前で桜子と別れようとしたその時、突如として目の前に何かが差し出された。
「はい、どうぞ。受け取って」
健斗が手元を見ると、桜子が青い紙袋を差し出していることに気づく。それは可愛らしい赤いリボンで飾られていた。
「一生懸命作ったんだから、味わって食べてね」
健斗が顔を上げると、桜子が「えへへ」と少し顔を赤らめながら恥ずかしそうに笑っていた。
「これは……?」
思わず健斗が口ごもる。桜子が唇を尖らせた。
「ねぇ健斗。そんなことを女の子に言わせたらダメじゃない。だから健斗は今年も誰からもチョコを貰えなかったんだよ」
言いながら桜子は、半ば強引に健斗に紙袋を押し付けて、くるりと振り向いて走り出した。
「じゃーねー! また明日!」
赤く染まった顔を隠すように勢いよくスカートの裾を翻し、桜子が公園から駆け出していく。
それは桜子が家族以外にあげた初めてのチョコレートだった。
それを健斗は手に持ったまま、細い目をさらに細めて立ち尽くしていた。