第45話 退院祝い
文字数 3,183文字
8月上旬。
季節はすっかり夏である。そして中学校は夏休みの真っ最中だった。
手術後の経過が順調な桜子は、予定通りに病院を退院することになった。額の傷は今はまだ目立っているが、時間の経過とともに注視しなければわからない程度にはなるらしい。
もっとも、この先も傷跡が完全に消えることはないそうだ。
前髪を下ろしていれば見えないし、化粧などで誤魔化せるからと、気丈に振舞う桜子は傍から見ても痛ましく、その姿を見る度に両親は居たたまれなさに胸を痛めるのだった。
医師からは意識的に右眉を動かすように言われている。手術は成功したものの、すべての神経を完全に繋ぎ合わせられたわけではないので、今後もしばらくはリハビリを続けなければいけないそうだ。
もっとも、普段からよく笑う表情豊かな桜子であれば、取り立てて意識せずともよいだろうと医師は笑っていた。とはいえ、その言葉が最近沈みがちである桜子の心境を多分に慮ってのもののように思えたのは気のせいではないだろう。
見舞いにはたくさんの人が来てくれた。同級生はもとより、部活の顧問に部員たち、小学生の時の同級生から商店街の知り合い等々、その顔ぶれを見ていると、桜子が本当に好かれていることがよくわかる。
それは病院内でも同じだった。手術をした額以外はピンピンしていたので、入院中にすっかり暇を持て余した彼女は、運動も兼ねて病院内を積極的に動き回っていた。そのため他の入院患者や看護師などと知り合う機会も多く、結果、皆に可愛がられるようになったのだ。
いつも一緒に散歩をしていた小学2年の男の子が、桜子と離れたくないと泣いて退院を拒否したり、他の病棟の男の子に告白されたりと、幾つかの小さなハプニングはあったものの、桜子の入院生活は概ね順調に推移していたのだった。
8月中旬。桜子は退院した。
退院の時には、担当医や看護師以外にも多数の入院患者とその家族が見送ってくれた。それは彼女が、約1ヵ月半に及ぶ入院生活においてそれだけ多くの人々に愛された証拠である。
その光景を見た両親は、この子はきっとこの先も行く先々で周囲から愛されのだろうと、我が子の将来に希望を見出すのだった。
退院当日は、桜子たっての希望により回らない寿司を出前してもらい、自宅のリビングで家族だけの退院祝いを催した。
嬉しさのあまりつい飲み過ぎてしまった浩司が、翌日に二日酔いで店の営業を楓子と絹江に任せてしまったのはご愛敬である。
痛む頭を押さえつつ浩司がソファでグッタリとしていると、桜子にがみがみと小言を言われる。しかし、それさえも彼は幸せに感じるのだった。
水泳部の練習は2学期から再開することにしたので、9月の新人戦は諦めざるを得なかった。顧問の根竜川はとても残念そうだったが、桜子の身体のこともあるので決して無理を言おうとしない。
結局、以前から楽しみにしていたイベントは何一つ参加出来なかった。
学校祭、夏祭り、盆踊り、海水浴、花火大会、レジャープール、キャンプ等々、すべて流れてしまったことを柔らかく微笑みながら、「しょうがないよね」の一言で片付けた桜子だったが、その心の内を察した両親はとても切ない気持ちになるのだった。
友人が届けてくれた夏休みの宿題は入院中にすべて終わらせていたので、自宅に戻っても店の手伝い以外にすることもなく、桜子の夏休みはあくびが出るほど退屈に過ぎていったのだった。
◆◆◆◆
「こんにちはー」
「あら、こんにちは。いらっしゃい。ちょっと待ってね」
桜子が退院してから数日後の昼過ぎ。友里が小林家を訪れていた。
友里の家は小林家から自転車で5分ほどの距離にあるので、幼稚園からの幼馴染である彼女は昔から何度も遊びに来ている。
今日は夏休みの最終日。桜子も明日から登校する予定だった。
楓子の呼びかけに桜子が2階のリビングから降りて来る。
今日の彼女の装いは、涼し気な薄水色のワンピースに日焼け防止用の大きな麦わら帽子を合わせ、前髪を額ごと茶色のヘアバンドで押さえていた。
額の傷はすでに塞がっているので普段は傷跡を覆うようなことはしていないが、やはり外出時には人目が気になるらしく、意図的に隠すようなヘアスタイルを心掛けている。
もちろん友人たちはそれには触れずに、以前同様の会話をするよう努めていた。
「いやぁ、今日も暑いね」
「いや、ほんと暑いね。ここまで歩いてきただけでもう汗だくだよ。――それより、退院おめでとう。身体はどうなの?」
「うん。おでこの傷以外はピンピンしているからね。ぜんぜん元気だよ。明日から学校に行けるし」
「よかったー。桜子がいない学校って、なんか味気なかったんだよね。――それじゃあ行こうか。みんなも外で待ってるよ」
「うん、行こう行こう! すっごく楽しみ!」
今日は友人たちが退院祝いをしてくれるということで、近所のショッピングセンターに新しく出来たクレープ屋へ行く予定である。そこは桜子が入院している間に新規開店したので、まだ一度も行ったことがなかった。
友里の後をついて桜子が自宅から出る。するとそこに東海林舞、田村光、富樫翔、そして木村健斗が待っていた。
「うふふ。桜子、元気そうで何よりね。それにしても相変わらず可憐ねぇ」と、舞。
「桜子ちゃん、元気になってよかったね」と、光。
「……よぅ」と、健斗。
「きょ、今日も、かわいいな……」と、翔。
直後に「スパーン!」っと翔の後頭部を友里が引っ叩いたのを合図にして、うだるような暑さの中をショッピングセンターへ向けて皆で歩き出した。
・
・
・
「いやぁ、美味しかったねぇ。ほんと最高だったよ。みんな、今日はどうもありがとう。心配かけてごめんね。もうすっかり元気になったから大丈夫、明日からもよろしくね」
お腹いっぱいクレープを食べた桜子は、ややぽっこり膨らんだお腹を擦りながら満足そうに笑っている。それを見た友人たちは、彼女がそれほど事件を引きずっていないように思えて安心した。
帰り道。
桜子と健斗は家が同じ方向なので、皆と別れてから二人で歩き始めた。
こうして歩くのは何時 振りだろうか。健斗が感慨深く考えていると、桜子がおもむろに口を開いた。
「いつも心配ばかりかけてごめんね。でも健斗は、いつもあたしを助けてくれる。どうもありがとう」
桜子は少し照れたように唇を尖らせ、次いで健斗の顔を覗き込んで笑う。夕日に染まった青い瞳が淡く光を反射して、健斗にはとても眩しく見えた。
「い、いや、俺はべつに……」
「健斗には本当に感謝してもしきれないんだ。だから、この気持ちを上手く表現したいんだけど……うーん……」
桜子が顎に人差し指を当てて考え始める。すると急に立ち止まって、健斗の正面に立った。
「うん。この感謝の気持ちを表現するには、やっぱりこれだね」
そう言うと桜子は、健斗を軽くハグした。
それはとても軽く触れ合う程度のものでしかなかったが、未だかつてこれほどまでに彼女と接近したことのなかった健斗は、驚きのあまり声を漏らしてしまう。
「あっ……」
思いもよらぬ出来事に硬直する健斗。けれど桜子は、気にせずハグをしたまま耳元で囁 いた。
「本当にありがとう。健斗がいつも近くにいてくれるから、あたしはどんなことがあっても大丈夫でいられるんだよ」
言い終わると同時に、桜子が身体を離して距離を取る。見ればその顔は、ほんのりと赤みを帯びていた。
「それじゃあ、またね! 明日は二学期の初日だよ。寝坊しないでね。バイバーイ!」
まるで顔を隠すようにその場でくるりと振り向くと、桜子は健斗の返事も待たずに自宅の方角へ走っていった。
茫然とその背を見つめる健斗の脳裏に、幾つもの言葉が浮かんでは消える。
桜子はとても温かかった。
そして、とてもいい匂いがした。
季節はすっかり夏である。そして中学校は夏休みの真っ最中だった。
手術後の経過が順調な桜子は、予定通りに病院を退院することになった。額の傷は今はまだ目立っているが、時間の経過とともに注視しなければわからない程度にはなるらしい。
もっとも、この先も傷跡が完全に消えることはないそうだ。
前髪を下ろしていれば見えないし、化粧などで誤魔化せるからと、気丈に振舞う桜子は傍から見ても痛ましく、その姿を見る度に両親は居たたまれなさに胸を痛めるのだった。
医師からは意識的に右眉を動かすように言われている。手術は成功したものの、すべての神経を完全に繋ぎ合わせられたわけではないので、今後もしばらくはリハビリを続けなければいけないそうだ。
もっとも、普段からよく笑う表情豊かな桜子であれば、取り立てて意識せずともよいだろうと医師は笑っていた。とはいえ、その言葉が最近沈みがちである桜子の心境を多分に慮ってのもののように思えたのは気のせいではないだろう。
見舞いにはたくさんの人が来てくれた。同級生はもとより、部活の顧問に部員たち、小学生の時の同級生から商店街の知り合い等々、その顔ぶれを見ていると、桜子が本当に好かれていることがよくわかる。
それは病院内でも同じだった。手術をした額以外はピンピンしていたので、入院中にすっかり暇を持て余した彼女は、運動も兼ねて病院内を積極的に動き回っていた。そのため他の入院患者や看護師などと知り合う機会も多く、結果、皆に可愛がられるようになったのだ。
いつも一緒に散歩をしていた小学2年の男の子が、桜子と離れたくないと泣いて退院を拒否したり、他の病棟の男の子に告白されたりと、幾つかの小さなハプニングはあったものの、桜子の入院生活は概ね順調に推移していたのだった。
8月中旬。桜子は退院した。
退院の時には、担当医や看護師以外にも多数の入院患者とその家族が見送ってくれた。それは彼女が、約1ヵ月半に及ぶ入院生活においてそれだけ多くの人々に愛された証拠である。
その光景を見た両親は、この子はきっとこの先も行く先々で周囲から愛されのだろうと、我が子の将来に希望を見出すのだった。
退院当日は、桜子たっての希望により回らない寿司を出前してもらい、自宅のリビングで家族だけの退院祝いを催した。
嬉しさのあまりつい飲み過ぎてしまった浩司が、翌日に二日酔いで店の営業を楓子と絹江に任せてしまったのはご愛敬である。
痛む頭を押さえつつ浩司がソファでグッタリとしていると、桜子にがみがみと小言を言われる。しかし、それさえも彼は幸せに感じるのだった。
水泳部の練習は2学期から再開することにしたので、9月の新人戦は諦めざるを得なかった。顧問の根竜川はとても残念そうだったが、桜子の身体のこともあるので決して無理を言おうとしない。
結局、以前から楽しみにしていたイベントは何一つ参加出来なかった。
学校祭、夏祭り、盆踊り、海水浴、花火大会、レジャープール、キャンプ等々、すべて流れてしまったことを柔らかく微笑みながら、「しょうがないよね」の一言で片付けた桜子だったが、その心の内を察した両親はとても切ない気持ちになるのだった。
友人が届けてくれた夏休みの宿題は入院中にすべて終わらせていたので、自宅に戻っても店の手伝い以外にすることもなく、桜子の夏休みはあくびが出るほど退屈に過ぎていったのだった。
◆◆◆◆
「こんにちはー」
「あら、こんにちは。いらっしゃい。ちょっと待ってね」
桜子が退院してから数日後の昼過ぎ。友里が小林家を訪れていた。
友里の家は小林家から自転車で5分ほどの距離にあるので、幼稚園からの幼馴染である彼女は昔から何度も遊びに来ている。
今日は夏休みの最終日。桜子も明日から登校する予定だった。
楓子の呼びかけに桜子が2階のリビングから降りて来る。
今日の彼女の装いは、涼し気な薄水色のワンピースに日焼け防止用の大きな麦わら帽子を合わせ、前髪を額ごと茶色のヘアバンドで押さえていた。
額の傷はすでに塞がっているので普段は傷跡を覆うようなことはしていないが、やはり外出時には人目が気になるらしく、意図的に隠すようなヘアスタイルを心掛けている。
もちろん友人たちはそれには触れずに、以前同様の会話をするよう努めていた。
「いやぁ、今日も暑いね」
「いや、ほんと暑いね。ここまで歩いてきただけでもう汗だくだよ。――それより、退院おめでとう。身体はどうなの?」
「うん。おでこの傷以外はピンピンしているからね。ぜんぜん元気だよ。明日から学校に行けるし」
「よかったー。桜子がいない学校って、なんか味気なかったんだよね。――それじゃあ行こうか。みんなも外で待ってるよ」
「うん、行こう行こう! すっごく楽しみ!」
今日は友人たちが退院祝いをしてくれるということで、近所のショッピングセンターに新しく出来たクレープ屋へ行く予定である。そこは桜子が入院している間に新規開店したので、まだ一度も行ったことがなかった。
友里の後をついて桜子が自宅から出る。するとそこに東海林舞、田村光、富樫翔、そして木村健斗が待っていた。
「うふふ。桜子、元気そうで何よりね。それにしても相変わらず可憐ねぇ」と、舞。
「桜子ちゃん、元気になってよかったね」と、光。
「……よぅ」と、健斗。
「きょ、今日も、かわいいな……」と、翔。
直後に「スパーン!」っと翔の後頭部を友里が引っ叩いたのを合図にして、うだるような暑さの中をショッピングセンターへ向けて皆で歩き出した。
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「いやぁ、美味しかったねぇ。ほんと最高だったよ。みんな、今日はどうもありがとう。心配かけてごめんね。もうすっかり元気になったから大丈夫、明日からもよろしくね」
お腹いっぱいクレープを食べた桜子は、ややぽっこり膨らんだお腹を擦りながら満足そうに笑っている。それを見た友人たちは、彼女がそれほど事件を引きずっていないように思えて安心した。
帰り道。
桜子と健斗は家が同じ方向なので、皆と別れてから二人で歩き始めた。
こうして歩くのは
「いつも心配ばかりかけてごめんね。でも健斗は、いつもあたしを助けてくれる。どうもありがとう」
桜子は少し照れたように唇を尖らせ、次いで健斗の顔を覗き込んで笑う。夕日に染まった青い瞳が淡く光を反射して、健斗にはとても眩しく見えた。
「い、いや、俺はべつに……」
「健斗には本当に感謝してもしきれないんだ。だから、この気持ちを上手く表現したいんだけど……うーん……」
桜子が顎に人差し指を当てて考え始める。すると急に立ち止まって、健斗の正面に立った。
「うん。この感謝の気持ちを表現するには、やっぱりこれだね」
そう言うと桜子は、健斗を軽くハグした。
それはとても軽く触れ合う程度のものでしかなかったが、未だかつてこれほどまでに彼女と接近したことのなかった健斗は、驚きのあまり声を漏らしてしまう。
「あっ……」
思いもよらぬ出来事に硬直する健斗。けれど桜子は、気にせずハグをしたまま耳元で
「本当にありがとう。健斗がいつも近くにいてくれるから、あたしはどんなことがあっても大丈夫でいられるんだよ」
言い終わると同時に、桜子が身体を離して距離を取る。見ればその顔は、ほんのりと赤みを帯びていた。
「それじゃあ、またね! 明日は二学期の初日だよ。寝坊しないでね。バイバーイ!」
まるで顔を隠すようにその場でくるりと振り向くと、桜子は健斗の返事も待たずに自宅の方角へ走っていった。
茫然とその背を見つめる健斗の脳裏に、幾つもの言葉が浮かんでは消える。
桜子はとても温かかった。
そして、とてもいい匂いがした。