第59話 二重人格

文字数 4,287文字

 5月下旬。
 桜子の中間テストの結果は学年5位だった。
 桜子は特に苦手科目のない万能タイプで、日々の予習と復習をするだけで特にテスト勉強らしきものはしていない。対して健斗は一夜漬けするタイプなので、案の定、今回も盛大に爆死した。

 1年次からちっとも変わらないその様子に、桜子から「このままだと一緒の高校に行けないよ」と脅される。けれど健斗はどうしても勉強を疎かにしがちだった。
 このままでは脅しが現実になりかねない。見かねた桜子は健斗に期末テストでは一緒にテスト勉強することを約束させたのだった。
 
 ある日の朝。健斗がいつも通りに桜子を迎えに行くと、玄関の前で浩司が待ち構えていた。無言のまま肩に腕を回す浩司に思わず健斗が恐れおののく。すると浩司が突然ニヤリと笑ったのだが、その目は決して笑っていなかった。

「おぉ健斗、待ってたぜぇ。ちょっとお前に尋ねたいことがあってなぁ」

「た、尋ねたいこと……?」

「おぉよ。健斗、お前まさか……桜子と付き合ってるとか言わねぇよなぁ?」 

 枕詞もなにもない、あまりにストレートすぎる質問。意図せず健斗は、誤魔化す間もなく素直に頷いてしまう。

「あ……いや……その……は、はい。で、でも俺は、真面目にあいつのことを……」

「いや、わかった。皆まで言うな。俺はお前のことをわかっているつもりだ。ほんの小さな頃から見てきたからな。――桜子も年頃だ。そういう話があってもおかしくはない。ともかく、知らん奴が相手なのに比べれば、お前なら少しは安心だ」

「すいません……」

 打って変わって落ち着いた浩司の口調。つまりそれは二人の関係を認めてくれたということなのだろうか。などと健斗が安堵していると、実は話に続きがあった。
  
「だがしかし! すべてを認めたわけじゃない! 健斗、少しでも桜子を泣かせやがったら――」

「はいはい、お父さんはこっちねぇ。健斗くんおはよう。桜子は玄関よぉ。今日も元気に学校へ行ってらっしゃい!」

 抗いがたい迫力に健斗が後退っていると、そこへ横から楓子が現れる。そのまま両手で浩司の背中を押した。

「おい、何しやがる! 俺はまだ話が終わってねぇんだ!」

 健斗を振り返りながら浩司が喚く。けれど決して妻に勝てない彼は、そのまま家の裏手へと強制連行されていったのだった。

 
 ある日の夜。部活の練習で疲れていた桜子は午後11時にベッドへ入った。彼女の寝つきはとても良く、その日も横になって5分後には寝息を立て始める。
 
 現在時刻は午前2時。暗く静まり返った部屋の中に、のっそりと起き上がる影がある。それは桜子だった。いや、正確には、桜子の身体を乗っ取った秀人だ。
 よほど疲れていたらしく、桜子の眠りはとても深い。だから秀人は難なく身体を自由にすることが出来た。その彼が桜子の声で呟く。
 
「ふぅ……だいぶ慣れてきたな。さて、今日はどの程度長い時間このままでいられるかだな」

 そう呟くと桜子――秀人は、ベッドに腰掛けたまま周囲をきょろきょろと見渡した。これまでも何度か身体を乗っ取ったことはあるが、この状態をいつまで維持できるかわからなかったので、いつもベッドから起き上がるのは避けていた。

 最初は10分程度だった。それが回を重ねるごとに伸びていき、前回などは30分ほど乗っ取ることが出来た。それで今日は30分を目途に、色々と試してみることにしたのだ。

 初めて乗っ取った時は、少女の身体のあまりの非力さに驚いた。もちろんそれは箱根に誘拐された時である。成人男性だった生前の秀人の感覚で腕を振り回してもまったく威力がなく、とても箱根に抵抗できなかった。
 もっとも小学6年生の、しかも少女の身体なのだから非力で当然である。しかし不良仲間と喧嘩に明け暮れるような生活をしていた秀人にとって、桜子の身体のあまりに非力すぎたのだ。

「にしても、随分とまた軟弱な身体してんな、こいつ……」
 
 ぺたぺたと桜子の身体を触りながら秀人が呟く。彼がこの身体を乗っ取らなければならない時は、ほぼ身を守る必要があるような状況である。だから秀人はこの非力な身体が気になった。

「もっとも、これだけはいいもん持ってんだけどなぁ……」
 
 パジャマの胸元を引っ張って中を覗き込むと、たわわに実った双丘が見える。
 秀人は男だ。しかし今や彼の意識は桜子と同化しているので、女性が同性の身体に興味を示さないのと同じように桜子の胸に性的な興奮を覚えることもない。それどころか、その大きな胸は秀人にとってむしろ邪魔でしかなかった。

 ぼんやりと考え事をしているうちに10分経っていた。この調子なら記録を更新できるかもしれない。そう考えていると、この身体が空腹であることにふと気付く。
 すらりと細い体型のためにそうは見えないが、地味に桜子は大食いである。特に水泳を始めて以来はそれが顕著だ。そのためいつも空腹を抱えているのだが、太るのが嫌なので夕食後は何も食べないようにしている。なので、この時間が空腹感のピークだった。

 前世で死んでからというもの秀人は久しく空腹感というものを忘れていたが、実際にそれを思い出すとどうしても何かを食べたくなる。約14年ぶりに食べ物を味わいたくなった。

 どうしても我慢ができなくなり、部屋から出てキッチンの冷蔵庫を開ける。そこで夕食の残りのポテトサラダを摘み始めると途中で止められなくなった。
 久しぶりに味わう食べ物の味と満たされていく食欲に夢中になり、さらに横にあったチーズを咥えていると突然周りが明るくなる。
 突然の眩しさに秀人が目を顰めていると、背後から声が聞こえて来た。

「なっ、なんだ桜子か……驚かせるなよ、まったく。泥棒でもいるのかと思ったぞ」

 振り向くと、リビングの入り口で照明のスイッチを押して固まる浩司がいた。片手に野球のバットを握ったまま、桜子の姿を見てホッと安堵の息を吐く。
 それを認めた秀人がチーズを咥えた姿勢でしばらく固まっていたが、慌てて桜子の振りをした。

「い、いやぁ、急にお腹が空いちゃって」

「腹が減ったって……こんな夜中にか?」

「え、えへへ……驚かせちゃってごめんなさい」

 二言三言と浩司と話をしているうちに、楓子と絹江も起きてくる。そこで二人も加えて話をしていると、三人が三人とも桜子に違和感を覚えた。
 浩司が訝し気に尋ねてくる。

「お前……本当に桜子なんだよな?」
 
「や、やだなぁ。わたしはわたしに決まってるでしょ。もちろん桜子だよ」

「いや、桜子は自分を『わたし』なんて言わないし、チーズが大嫌いだったはずだが」

「え、えぇと……」

 浩司の指摘に思わず秀人が冷や汗を流す。それでも彼は努めて平静を装った。

 まずい……さすがは両親だ。速攻で見抜きやがった……どうする?

「あなた、本当に桜子なのよね? 間違いないわよね?」

 思うところがあったのか、母親の楓子も尋ねてくる。その瞳は怪しげなものを見るように怪訝に細められていた。

「や、やだなぁ。こんなに可愛い女の子が他にいるわけないじゃん。わたしに決まってるでしょ、桜子だよ」

 確かに目の前の少女は桜子に違いないだろう。しかし見た目以外のすべてが彼女でないことに皆は気付いていた。

「お前、桜子じゃないだろ。確かに見た目はあの子だが、中身はまったくの別人だ。……一体誰なんだ?」

 ちっ。めんどくせえな、おい。
 いちいち突っ込んでくるんじゃねぇよ。
 
 なんだか無性に面倒臭くなった秀人は、すべてがどうでもよくなった。
  
「くそっ、バレちゃしょうがねぇ。あぁ、そうだよ。俺は――」

 まるで啖呵を切るように勢いよく告げようとした秀人だったが、途中で意識が飛び始めるのを感じると、チーズを咥えたままその場でくたりと意識を失った。

「おい桜子、しっかりしろ! 目を覚ますんだ!」

 桜子の意識に語り掛ける声が聞こえる。
 それはまるで暗闇の向こうから響いてくるようだった。

 あれ……もう朝なのだろうか? でも目覚まし時計は鳴っていないし……

 桜子がぼんやり目を開ける。するとそこには、浩司と楓子と絹江の心配そうな顔があった。
 状況が把握できずに周囲を見渡すと、なぜか自分は冷蔵庫の前で寝ていた。それと同時に、口の中が大嫌いなチーズの味で一杯になっていることに気付く。
 思わず桜子が涙を涙目になっていると、楓子が背中をさすりながら優しく問いかけてきた。

「あなた桜子よね? 間違いないわよね?」

「えっ? な、なに?」

 未だ桜子は状況が把握できずにいる。ベッドで眠っていたはずなのに、どうしてこんなところにいるのかわからなかったし、そもそも大嫌いなチーズを食べていたのかも理解できない。

「えっ? なんであたし、こんなところで寝てたの……?」

「なにも憶えてないのか? つまみ食いをしていたのも全部……?」

 浩司が真剣な顔で尋ねてきたが、もちろん桜子は全く記憶にない。両親にその旨を伝えると、急に深刻な顔で何かを考え始めた。
 その後、なんとなく怖くなった桜子は、自分の部屋には戻らずに、楓子の布団で一緒に眠った。

 これは秀人の仕業に違いない。
 桜子には原因がすぐにわかった。しかしその後数日に渡って寝る前に強く念じてみたものの、夢の中で秀人に会えないまま過ぎていったのだった。


 
「なぁ楓子。医者から二重人格って言われたの憶えてるか?」

 浩司が唐突に問いかけて来る。どうやら楓子も以前から気になっていたらしく、突然の問いにもかかわらず、驚きもせずに頷いた。
 浩司も楓子も、誘拐事件の時といじめ事件の時に桜子が豹変したという話は聞いていた。直接見ていないので詳しいことは不明だが、突然人格が変わったように暴力的になり、口調も所作も粗野な男のようだったらしい。

 その時は何かの間違いだろうと思った。しかし人というものは、突然危機的な状況に追い込まれると自我の防衛をするために第2の人格を作り出すことがあるそうだ。専門的には「解離性同一性障害」と言うらしい。

 ふと二人は思い出す。桜子がずっと小さかった時、彼女は自分の中に誰かがいると言っていた。もしかすると、もともと彼女の精神にそういう部分があり、事件に巻き込まれた影響で顕在化した可能性も否定できない。

 ほんの一瞬ではあるけれど、真夜中のキッチンで見た桜子は、まるで男のような口調で粗野だった。桜子自身が気付いていない別の人格が彼女の中にいるのかも知れない。
 一度病院で診てもらった方がいいのだろうかと両親は思い始めたが、果たしてそれを本人へどう説明するべきかを悩むのだった。
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