第57話 彼女の胸の話

文字数 4,011文字

 4月下旬。
 ゴールデンウィークが迫る中、学校全体がなんとなく浮ついた雰囲気になっていたある日の給食時間。桜子がフォークにソーセージを指したまま浮かない顔をしていると、一緒に食事をしていた光が声を掛けてきた。

「どうしたの、桜子ちゃん。なんだか元気がないけど」

「えっ? あ、いや……べつになんでもないよ」

 桜子が何もないと言う時は必ず何かある。これまでの経験からそれを知っている光は、引き下がることなくさらに尋ねた。

「嘘。絶対に何かあるでしょ。無理にとは言わないけど、できれば話してくれないかなぁ? 力になれるかもしれないよ?」

 その言葉に桜子は躊躇する。彼女になら話してもいいかもしれない。頬をハムスターのように膨らませてハンバーグを咀嚼した後に桜子は光に顔を寄せた。

「ありがとう、それじゃあ話すね。だけど内緒だよ、誰にも言わないでね」

「もちろん。誰にも言わない!」

 桜子の予想外に真剣な様子を見た光が思わず身構える。よくよく考えれば周囲には人がいるのだ。にもかかわらず、秘密を話すよう促した自身の迂闊さを小さく後悔していると、おもむろに桜子が顔を近づけてきた。そして囁く。

「あのね……」

「う、うん……」

「あたしの……胸がね……」

「うん……」

「また大きくなっちゃったの」

「……ぶっ!?」

 あまりに想像の斜め上の告白に、思わず光が牛乳を噴き出しそうになる。同時に、ぺたんこの自分にはこの悩みは解決できないだろうと判断した。

「え、えーっと……どうして胸が大きくなると困るの?」

「それはね、部活に影響が出ちゃってるからなんだよ」


 水泳部に入部してからというもの、桜子は順調にタイムを縮めていたが、ここ最近は伸び悩むようになっていた。県大会に出場するためにはどうしても超えなければならないタイムがあるのだが、その手前で足踏みしていたのだ。

 根竜川に相談してもわかるはずがなく、先輩に尋ねたり自分で試行錯誤してみても、結局は答えを見つけることができなかった。
 そこで彼女は、小学生時代に指導を受けていたコーチにアドバイスを求めることにした。

 2年ぶりに会ったコーチはとても嬉しそうだった。小学6年の夏。悲惨な事件に巻き込まれた桜子はそのまま水泳を辞めてしまったが、その後もコーチはずっと心配していたらしい。
 その桜子が中学で水泳を再開したうえに、自分を頼ってくれたことが相当嬉しかったようだ。

 暫し再会を喜び合い、近況報告の後に水泳のフォームを見てもらう。するとコーチの口から驚きの答えが飛び出てくる。

「桜子ちゃん。確かにあなたのフォームにはまだまだ改善の余地がある。だけど、そもそもの問題はそこじゃないわね」

 さすがはプロのコーチ。たった一目で問題点を見抜いてしまった。桜子がメモを片手に真剣な面持ちでいると、コーチが衝撃的な答えを告げた。 

「桜子ちゃん。あなたの胸は大きすぎるのよ」

「はえぇ!?」

 あまりに斜め上の回答に、桜子は理解が追いつかずに間抜けな声を上げてしまう。しかしコーチはいたって真面目だった。

 思い当たることはある。そういえば、今年に入ってからもう2回もブラジャーを買い直していた。実のところ、桜子の胸は中学生としてはかなり大きい。下着売り場の店員もやむなく大人用の商品を勧める程である。
 それを思い出していた桜子へ、コーチが真剣に話を続けた。
 
「あなたは水泳選手としては胸が大きすぎるのよ。クロールでは胸の大きさがそのまま水の抵抗になる。確かに大きな違いはないのかもしれないけれど、コンマ数秒を争う水泳競技において、その差は決して馬鹿にできないわ」

 桜子は衝撃を受けていた。まさか胸の大きさが水の抵抗になるなんて思いもしなかったのだ。

 がーん。

 そんな効果音の聞こえそうな顔をする桜子へ向けて、なおもコーチが話を続ける。

「桜子ちゃんの場合は特にね。あなたは胸郭が薄いでしょう? ……えぇと、胸郭っていうのは胸の周りの骨格のことなんだけど、そこが薄いのにおっぱいが大きいとすべてが水の抵抗になってしまうのよ。それは理解できるわね?」 

「はい……なんとなく……」

 桜子は自由形の選手をしている。泳法は自由とはいえ、実質的にはクロール一択である。コーチが言うにはそのクロールに関しては胸の大きさが多大に影響するらしい。

「しっかし、あのぺたんこが2年でここまで育つとはねぇ。中2でこれなんだから、将来は巨乳ちゃん間違いなしねぇ」

 水着の上から桜子の胸をガン見しながらコーチが羨ましそうに呟く。2年ぶりの再会に喜んだのも束の間、コーチは真剣な面持ちで桜子の相談に応じたのだった。


 その後、コーチから幾つの案が提示された。

・胸を小さくする。
 そんなことできるわけない。

・一流選手なみにタイトな水着を着用して胸を押さえ付ける。
 水着の着脱性や高額な価格から言って現実的ではない。

・不利を承知でこのまま自由形を続ける。
 この先さらに胸が成長した場合、むしろタイムは遅くなる。

・背泳ぎ、またはバタフライに転向する。
 クロールほど胸の大きさは影響しないが、また最初から練習がやり直しになる。
 
 
 などと案は出たものの、最終的にコーチは部活の顧問へ相談すべきだと告げた。そもそもコーチ自身もすぐに解決できるアドバイスはできないと述べており、結局桜子は今後どうすべきかを悩みながら帰路に就くことになった。
 結局のところ、問題はこのまま自由形でタイムの伸び悩みを気にするか、思い切って背泳ぎに転向するかの二択に絞られる。なので桜子は、コーチの提案をもとに顧問の根竜川に相談することに決めた。

 

 ここで前述の給食時間での一コマに戻る。
 桜子の告白に対して光は返答に窮してしまう。したり顔で聞き出しておきながら、そもそも光は水泳に詳しくなかったし、もとより幼児体系の彼女が有用なアドバイスをすることも出来なかった。
 単純に胸の大きさで悩んでいるだけなら、「嫌味かよ」の一言で片づけられたが、どうやら桜子の悩みは切実らしい。そんな友人に対して、結局光は何も力になってあげることができなかったのだ。

 その後、桜子は部活の顧問である根竜川に相談した。すると、いま背泳ぎに転向したところで8月の全中大会には間に合わない。だから大会が終わるまでは自由形で頑張るしかないという結論に達したのだった。
 現在2年生の桜子にはもう一年チャンスがある。その時間を無駄にしないためにも、しっかりと今後を考えなければならなかった。

 
 ある日の下校時。桜子は偶然にも下駄箱の前で健斗に会った。もちろん二人は一緒に帰ることにしたのだが、水泳と胸の大きさで頭がいっぱいの桜子は、健斗の話に生返事を返してしまう。すると健斗が心配そうに顔を覗き込んできた。

「どうしたんだ? 何か悩み事でもあるのか?」

「えっ? あぁごめんね。大丈夫、何でもないよ」

 桜子が慌てて返事をする。しかしその態度は明らかにおかしかった。

「何でもないわけないだろ。絶対に何か悩んでる。俺で良ければ聞くから、遠慮しないで言ってよ」

「いや、さすがにこれは……やっぱり言えないよ。ごめんね」
 
 優しく尋ねてくれる健斗ではあるが、さすがに胸の大きさを相談するのは如何(いかが)なものか。そう思った桜子は、なんとか誤魔化そうとして両手を合わせた祈るようなポーズをしてみた。

「本当に大丈夫だから。訊かないで、お願い!」

「ふーん、そうか。俺には言えないようなことなのか……」
 
 健斗には珍しく拗ねたように言う。
 二人が正式に付き合うようになってから、健斗は桜子の周りの男にやたらと攻撃的だったりする。もしかしたら独占欲が強いタイプなのかもしれない。
 
「い、いや、そういうわけじゃないんだけど……」

「じゃあ、教えてよ」 

「……絶対に笑わない? 変だって思わない?」

「うん、約束する。 絶対に笑わないし変だって思わない」

「約束だよ? 絶対だよ?」

「うん」

「あのね……」

「うん……」

「あたしね、胸が……」

「ん?」

「胸が大きくなってきて困ってるの!」

「はぁ!?」

 思わず健斗が桜子の胸を凝視する。今はジャケットを着ているのでよくわからないが、そう言われれば以前より胸の厚みが増しているような気がした。
 健斗も健康な男子である。もちろん異性の身体に興味はあるが、これまで意識して桜子をそういう目で見ないようにしてきた。しかし目の前でいざそう言われてしまうと、嫌でも想像してしまうし意識だってしてしまう。

 そもそも、どうして胸が大きくなると困るのかが健斗には理解できなかった。だからここは励ますべきところなのか、慰めるべきところなのか、どう返答すればよいのかさえ分からなかった。

 けれど健斗はどんな桜子でも好きは好きだったので、とりあえず好きと言ってみた。

 「い、いや、べつに胸が大きくたってかわまないと思うよ……俺は好きだし……」

 もはや健斗は、自分が何を言っているのかわからなくなっていた。そして桜子も、今まで見たことがないほどに顔を真っ赤に染めている。
 思わぬ時に思わぬ言質を取ってしまった。なんと健斗は「大きなお胸」が好きらしい。

 制服の上から桜子の胸をガン見したまま顔を赤く染める健斗と、頭から湯気が上りそうなほどに羞恥する桜子。
 冷静に考えてみると、付き合い始めの彼氏に胸の大きさを相談するなんて恥ずかしすぎる。その結果に服の上から胸を凝視されても文句は言えない。
 今更ながらに、とても恥ずかしくなる桜子だった。


 せっかく桜子が勇気を出してくれたにもかかわらず、健斗にはどうしてあげることもできなかった。それでも健斗は、桜子が自分を信用してくれたことに、桜子は健斗が悩みを受けとめようとしてくれたことがとても嬉しかった。

 すっかり日も長くなった4月も終わりの夕刻。互いに頬を染め、俯いたままの少年と少女が夕日に照らされていた。
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