第60話 乗っ取りの練習

文字数 2,749文字

 キッチンで倒れた数日後の夜。
 桜子は夢を見ていた。

 気付くと意識が闇の中に浮かんでいたので、これは秀人と会話ができる状態なのだとすぐにわかった。
 秀人の説明によれば、これは桜子が深く眠っている状態らしい。ということは、この闇のどこかに彼がいるのだろう。しかしどうしてもその姿を見つけられなかった。

「おーい、鈴木さぁん! 出て来てくださぁーい!」

 力の限り叫んでみても、秀人は姿を現さない。

「もう怒ってませんから、姿を見せてくださいよぉー!」

 それでも桜子が諦めずに叫んでいると、突然光が目の前に広がって秀人の姿になった。
 
「よ、よう。元気そうだな……」
 
 秀人がちらちらと桜子の顔色を窺ってバツの悪そうな顔をする。いつも横柄な彼にして、その態度は珍しかった。

「やっと会えたよ……酷いじゃないですか、鈴木さん。この前のあれはいったいなんなんですか? びっくりさせないでくださいよ、もぉ」

「あ、あぁ、すまん。ちょっと調子に乗り過ぎてしまってだな……」

 文句を言ってやろうと鼻息を荒くしていたものの、秀人の思いがけない素直な謝罪にすっかり桜子は毒気を抜かれてしまった。
 こうなっては怒るに怒れない。仕方なく事の顛末を聞いていると、その内容に驚かされる。

 あの日の夜。桜子の記憶の一部はすっぽりと抜け落ちていた。昨年のいじめ現場で秀人が身体を支配した時の記憶はあるが、今回に限っては全く憶えていなかったのだ。
 意識がある状態で身体を支配されるのは気持ちの良いものではない。とはいえ、全く記憶がないというのもそれ以上に気持ちが悪い。
 
 しかし秀人にとって、身体の主導権を奪うのはとても重要なことだった。
 誘拐事件でも、いじめ事件でも、桜子が気を失う前に秀人が表に出て来ていればもっと被害は少なかったかもしれない。特にいじめ事件では、そのせいで桜子の顔に一生ものの傷をつけられてしまった。それを秀人は悔やんでも悔やみきれずに、今でも罪悪感を抱き続けていた。

 罰ゲームのような試練を課したあの神なのだから、この先も様々な事件に巻き込まれるに違いない。この先も桜子を守るためには、素早く身体を乗っ取る術を見つけなければならないと秀人は考えていた。
 すべてを正直に話せば桜子を怖がらせることになる。秀人が果たしてどのように説明しようかと思案していると桜子が訊ねてきた。

「ねぇ鈴木さん。あの時は何がしたかったの? 理由もなく、あたしの身体を操ったりして」

「あ、あぁ……あの時はな、どこまで身体を自由にできるか試していたんだ。すると腹が減っていることに気が付いちまってな」

 それを聞いた桜子は、恥ずかしそうに目を逸らした。

「あたしね、自分で言うのもアレだけど、実は結構な大食いなんだ。でも最近は、できるだけ夕食後は何も食べないようにしてるんだけど……」

「あぁ、知ってる。これ以上(ちち)がでかくなったら困るからだろ?」

 その言葉に桜子が驚く。しかしすぐに納得したよう表情になった。

「ま、まぁ……鈴木さんが知ってるのは当たり前かぁ。ずっと一緒にいるんだし」

「まぁな。しかしよ、健斗は巨乳が好きなんだろう? だから、むしろ良かったんじゃねぇのか?」

「や、やめてよ! 巨乳って言わないで! 気にしてるんだから!」

 秀人が片方の口角だけを上げてからかうように笑う。それを桜子が顔を真っ赤にして睨んだ。


 ここ最近の桜子は男性恐怖症を発症していなかったが、それでも男性と二人きりになる状況は避けていた。
 今でも月に一度のカウンセリングを受けており、医師からは快方へ向かっていると言われている。同時に両親は、今後も注視するよう指示されていた。 
 
 その日はカウンセリングの日だった。
 診察が終わり、桜子を先に待合室へ戻らせる。その後に両親が二重人格の件を相談したものの医師は全く驚かなかった。
 いきなりこんな話をしても困惑するだけだろう。そう思っていたものの、予想に反してあっさり肯定されてしまい、かえって両親の方が困惑したくらいだ。

 大きなストレスに晒された人が、自我を守るために別の感情や記憶をもう一つの人格のように肥大させる「解離性同一性障害」という名の精神疾患がある。桜子の場合は幼少期に事件に巻き込まれた影響から、そうした疾患を患ってしまった可能性は十分にあるとのことだった。

 現在も抱えている男性恐怖症はその一種なので、同時に別の症状が現れてもおかしくはない。現実にもそうした事例は多く報告されている。
 もっとも詳しく診断するには、医師が桜子本人及びもう一つの人格と話をする必要があるので、彼女の心のケアを考えると今すぐには無理だろう。
 両親は引き続き桜子の様子を注視し、容態に変化があった場合には速やかに連絡することを医師から言われた。

 両親が医師と話をしている間、桜子は待合室で4歳くらいの女の子に絵本を読んであげていた。パジャマ姿なので、恐らく入院患者なのだろう。
 女の子が桜子の髪を珍しそうに触る。そして絵本の中のお姫様のようだと褒めてくれたので、桜子はお礼を言って優しく女の子の髪を撫でていた。
 
 その姿を眺める浩司と楓子の顔に、何とも言いようのない表情が浮かぶ。桜子が抱える精神疾患。その大きさを改めて突き付けられた二人は、女の子と楽しそうに笑う娘の姿がとても不憫に思えるのだった。



 その日の夜。再び秀人が表に出ていた。
 しかし先日の出来事を考えて、念のために部屋の外へは出ようとしない。その場で体操をしたり、本を読んだりしながら、どの程度このままでいられるのかを試す程度だ。
 およそ一時間後。視界に闇が降りて来る。そろそろ時間切れだ。秀人はベッドに横たわったまま意識を失った。

 閉じた瞼の上から日差しが感じられる。カーテン越しでもこの明るさなのだから、今日はとても天気が良いに違いない。
 まだ目覚まし時計は鳴っていないけれど、そろそろ起きる時間だ。果たして今は何時だろうか……

 ゆっくりと瞳を開ける。目の前に見慣れた天井が見えた。
 目覚まし時計を見ると朝の5時過ぎだった。

 昨夜は思ったよりも長い時間身体を支配できた。徐々にコツもつかんできたし、もっと自由に入れ替われれば便利なのだが……

 少女が両腕を上げて伸びをすると、可愛らしい口から小さな声が漏れた。

「んー!」
 
 さぁて、今日もこれから頑張って……

 あれ……何かおかしい……

 俺は……俺だよな?

 少女が慌てたように自分の顔や身体を(まさぐ)り始める。最後に大きく膨らんだ胸を鷲掴みにして瞳を大きく見開いた。
 
「やべぇ……戻れなくなった……」

 可愛らしい水色のシーツの上に、胡坐をかいて座り込む金髪の少女がいる。しかしその顔には、およそ似合わない渋面が浮かんでいた。
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