第71話 別人格の名字

文字数 3,531文字

 8月下旬。
 健斗は3日間の入院を経て無事に退院した。とはいえ今回の怪我はそう深刻なものではなく、あくまで経過観察という意味合いが強かったのだが。
 
 健斗がふと入院中のことを思い出す。
 あの時は本当に驚いた。桜子がご褒美と称して頬にキスしてきたのだから。あの感覚は生まれて初めてで、まるで熱湯を注がれたかのように頬から全身に熱が走った。
 
 恥ずかしそうに俯く桜子を抱き締めそうになった時、不意に廊下にいた母親と目が合った。わざとらしい咳ばらいとともに病室に入って来た彼女に、桜子は慌てて身を離した。

 母親を交えて話をしているうちに、同室の男性が検査から戻ってくる。すると桜子は、頬を染めたまま逃げるように帰ってしまった。
 見送った母親は目撃した内容には一切触れようとせず、ただ意味ありげな笑みを浮かべるだけ。

 その母親も面会時間の終了ともに帰宅したのだが、それからが大変だった。同室の患者たちには桜子との関係を根掘り葉掘り聞かれたし、冷やかされたりもした。
 そしてその夜は桜子の温もりと香りを思い出し、悶々とした一夜を過ごしたのだった。

 
 そんなわけで健斗が3日ぶりに自宅へ帰って来ると、リビングには柔道大会の準優勝メダルが飾られていた。それを見て、本当に準優勝だったのだなと今さらながらに現実を噛み締める。
 それは喜びではなく悔しさだった。その銀色のメダルは、桜子の(かたき)を取ることが出来なかったという証でもあるのだから。

 骨折が完治するまで二ヵ月。しばらく練習は休んでいいと顧問に言われていたが、下半身の強化や走り込みなど、出来る範囲で練習には参加して行こうと思う健斗だった。


 健斗が風呂から上がってくると、リビングでテレビを見ていた幸が話しかけてきた。

「ねぇ健斗。桜子ちゃんとは最近どうなの? ……って、上手くいってるのは知ってるけどね。あの時見ちゃったし」

「……」
 
「あの子はとってもいい子だわ。明るいし、素直だし、正直だし。それに相手なんて選び放題なほどモテるのに、敢えてあんたを選ぶくらいなんだから人を見る目は確かよね。いい? 健斗。桜子ちゃんを大事にするのよ。決して泣かせたりするんじゃないわよ」

「……わかってるよ。泣かせたりしないよ」

「まぁ、わかっていればいいけどさ。――それからもう一つ。女の子はとってもデリケートなんだから、勢いのままに突っ走ったらダメだからね! はい、ここ大事! テストに出ます!」

「なんだよ、それ……大丈夫だよ、そんなことしないよ」

「あんたを信用しているけどさ……昔からあの子は人と距離が近いところがあるから、相手に色々と誤解させちゃうのよねぇ。あとここが本当に大事なんだけど、どれだけ気を付けようと、人間は本能に勝てないのを忘れちゃダメよ! まだ中学生なんだから、どんなにそうしたくても、あの子との距離は一定を保つこと! 触っていいのは手まで。それ以上はダメ、絶対! はいっ、ここもテストに出ます!」

 はっきりとは言わないが、母親はあの時のことを言っているのだろう。病室での出来事を思い出した健斗は、その言葉を痛いほど噛み締める。
 あの時もしも母親が現れなければ、そのまま桜子を抱きしめていたに違いない。あの湧き上がる衝動は、鉄のような意思をもってしても抗い難いものだった。

「うん、わかってる。大丈夫だよ」

「うんうん、我が息子ながら素直でよろしい!」

 優しくぽんぽんと幸が息子の頭を撫でる。
 冗談めかして笑っていたが、その心の内では女親が思春期の男の子を諭す難しさをしみじみと感じていた。


 退院の翌日。桜子が木村家へやって来た。
 健斗が小林家を訪れることはあってもその逆はほとんどない。フルタイムで働くシングルマザーの幸が昼間に在宅していることはあまりなく、祖母の昌枝が病床に臥せっているのがその理由だ。
 だから桜子が木村家に上がるのは本当に久しぶりだった。
 
「お邪魔しまーす」

 現在時刻は午後1時過ぎ。今日は水曜日なので幸の仕事は昼過ぎに終わる。そろそろ帰って来る頃だろう。
 いくら交際中といえども、中学生の男女を二人きりには出来ない。そう判断した幸は、自身の帰宅に合わせてこの場をセッティングしていた。
 
「あらあら、いらっしゃい。どうぞ上がってね」

 今日は調子がいいらしく、普段は自室で寝込んでいることが多い祖母の昌枝が玄関で出迎えてくれた。
 実を言うと、桜子はあまり昌枝に会ったことがない。もともと健斗の家にほとんど来たことがなかったというのもあるが、そもそも昌枝があまり人に会いたがらないのだ。

 健斗が生まれたのと同時期に昌枝は事故で息子を亡くしている。それ以来家に引きこもってしまったらしい。
 仕事には就かず、フルタイムで働く幸の代わりに家事をしたり健斗の面倒を見たりしていたが、体調を崩しがちなここ最近は自室で寝ていることが多かった。
 
 そんな昌枝が出迎えてくれたものの、果たして桜子を桜子として認知できているかは怪しい。それでも孫の友人であるのはわかるらしく、家へ上がるように促してくれた。
 
 今日の桜子は健斗と秀人の話をするつもりだった。対して健斗もその話を聞かなければ気が済まない。
 リビングのソファに向かい合って座る。桜子は健斗の様子がおかしいことに気付いた。落ち着かなげに身動ぎをし、頬を染め、微妙に視線を外して正面から顔を見ようとしない。

 桜子の頭の中が「?」でいっぱいになる。しかし左の頬を撫でる健斗の仕草を見た途端、先日の『いいこと』を思い出し、直後に桜子も顔を真っ赤に染めてモジモジし始めた。
 それから暫くの間、向かい合わせに座った男女二人が、恥ずかしそうに身悶えするという意味不明な光景が広がった。

 
 それからしばらく後、やっと頭が冷えた二人は、今日ここに場を設けた理由を思い出して姿勢を正した。
 不意に桜子が真顔になる。思わず健斗は固唾を飲んだ。

「あたし……実は病気なんだ」

 健斗の眉がピクリと動く。桜子が以前から男性恐怖症を患っているのは知っていたが、いま彼女はそれについて言っているのではないだろう。
 ということは、それ以外にも病気があるのだろうか。不安になって健斗は聞き返した。

「病気?」

「そう、病気。あのね健斗。二重人格って聞いたことある?」

「……映画なんかで見たことはあるよ。一人の人間の中に複数の人格があるみたいな」

「そう、それ。あたしね、二重人格なんだって。お医者さんがそう言ってた」 

「えっ……?」

 衝撃が強すぎて即座に飲み込めなかったものの、聞いた瞬間にすべての疑問の答えがストンと落ちてくる。
 あの時の桜子の目付き、表情、口調、態度、全てが別人と言っても良かった。しかしその理由が二重人格だったとしたら全てに説明が付く。

「それって、いつから……」
 
「はっきりと現れるようになったのは一昨年の誘拐事件からだけど、もともとあたしはそういう病気を持っていたらしいの」

 もっともらしく語ってはいるが、二重人格という話は嘘である。にもかかわらずそうせざるを得ない罪悪感で桜子の心は潰れそうになる。けれど真実を語ったところで荒唐無稽なオカルト話にしかならないので、今はこうするしかなかった。

 いずれ真実を明かせる時がくるだろう。それまでどうか許してほしい。
 偽りを口にしつつ、胸の内でそう願う桜子へ健斗が尋ねた。

「そうか。それって普段の生活に支障はあるのか?」

「ううん大丈夫。あたしが望まない限り、もう一人の人格が出てくることはないから」

「ならいいけど……。それで、その人格ってどんな人?」

「健斗も会ったことがあるから知っていると思うけど、かなり乱暴な人みたい。でも根は優しくて良い人なんだ。あたしを守ってくれるんだよ」

「守ってくれる……」

 ふと健斗が剛史との一件を思い出す。確かにあの時、まるで人が変わったようになっていた。

「そう。誘拐された時も、いじめられた時も、鈴木さんが守ってくれたんだよ。あたしの中から出てきてくれてね」

「鈴木さん?」

「そう、鈴木さんっていうんだ。もう一つの人格はね」

「……そうか。ばあちゃんと同じ苗字なんだな。まぁ偶然だろうけど」

「えっ? 健斗のおばあちゃんって、鈴木さんなの?」

「そうだよ。俺と母さんは木村だけど、これは出ていった父親の名字なんだ。母さんの旧姓は鈴木だよ」

「……そうなんだ。初めて聞いた」

「まぁな。人に話すことでもないし」

「そうだよね」

 二人の間に沈黙が訪れる。健斗は桜子の病気について、そして桜子は健斗の過去へ思いを馳せているとそこへ声が響いた。

「ただいまー!」

 幸が帰宅したらしい。
 桜子は立ち上がり、出迎えるために玄関へ向かった。
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