第6話 里親マッチング
文字数 2,075文字
6月上旬。
小林浩司 と楓子 夫妻は、S町にある児童相談所を訪れていた。結婚して12年の中年夫婦。浩司は44歳、楓子は40歳で二人の間に子供はいない。
長年子供を望んでいたが、残念ながら恵まれなかった。そのため楓子が35歳の時に不妊治療を始めたが、5年間の努力にもかかわらず、ついに結果が実ることはなかった。
楓子が40歳になったときに不妊治療をやめた。夫婦二人だけの生活も悪くないかもしれない。そう思い始めていた矢先に浩司から意外な提案があった。
「なぁ、養子をもらわないか?」
「養子……?」
楓子は驚いた。正直に言えば過去に何度もその選択肢を考えたことはあった。しかし、血の繋がった我が子を望んで不妊治療を受けていた彼女にとって、今それを考えるのは身勝手に感じられた。
当時はどうしても我が子を諦めることができずに考えないようにしていた。しかし今は全てを諦めた後。ならばもう一度考えてもいいのかもしれない。
だが、血のつながらない子を愛せるかどうか、養子をもらうこと自体が自分たちの幸せを求めるための欺瞞ではないのか、という不安が常に頭から離れなかった。子供自身の幸せはどうなるのだろうか。
提案から1週間。未だに悩む楓子に浩司が声をかけた。
「なぁ楓子。俺たちが子供を欲しいと願うのと同じように、親を欲しいと願う子供もいるはずだ。もちろん全員は無理だけど、その中の一人でも幸せにできるなら、それはきっと意味のあることなんだと思う。お前の不安もわかるが、ここはひとつ勇気を出してみないか?」
優しく妻を見つめる浩司の顔には、懐かしい微笑みが溢れていた。それが楓子にプロポーズした時のものと同じだと気付いた彼女は、直後に心を決めたのだった。
◆◆◆◆
児童相談所の個室に案内された浩司と楓子は、パイプ椅子に腰掛けて担当者の到着を待っていた。二人が里親マッチングに登録してから半年が経つ。けれど養子縁組の決定に時間がかかることを知る彼らにとって、その時間はほんの些細なものでしかなかった。
聞くところによると、1年以上待つ夫婦もいるという。まだまだ先の話になるだろう。そう思いつつ普段通りの生活を送っていると、何の前触れもなく突然の連絡が入った。それで今日は担当者との打ち合わせのため児童相談所を訪れていたのだ。
不快なほど薄いクッションの椅子に座り込んだ二人の前に、40代半ばの男性職員が現れる。重そうなファイルを抱えて、丁寧に会釈をしながら彼らの前に座り込んだ。
「お待たせしました。あぁ、どうぞそのままで。――この度はご足労いただきましてありがとうございます。小林さんにマッチングしたお子さんが見つかりましたよ」
役所特有の淡々とした口調。けれど夫妻にとっては待ち望んだ知らせであるため表情が一気に明るくなる。通常ならば最初に軽い世間話が交わされるものだが、担当者は直接話題に入ることを選んだ。
「えぇと……K町の慈英病院の赤ちゃんポストで保護された生後一ヵ月の女の子です。いまはそこの乳児院にいます」
浩司が反応する。
「慈英病院ですか。そこの話は聞いたことがあります」
「そうですか、それは幸いです。――それでその子ですが、健康そのものでとても元気に育っているそうです」
その言葉に楓子の顔も明るくなり、赤ん坊を想像しながら笑顔を見せる。しかし担当者の次の言葉に二人は戸惑う。
「ただ、その子には少し特徴がありまして……」
「特徴?」
「はい。実はその子、どうやら日本人ではなく白人の赤ちゃんらしいのです」
驚きながらも夫婦は子供の将来を真剣に考え始める。特に楓子は自らの過去を重ね合わせながら、その子の将来を深く案じた。
その姿を眺めながら担当者が説明を続ける。
「日本人の夫婦が白人の子供を育てる場合、周囲からの反応や子供自身のアイデンティティの問題など、いくつかの困難が予想されます」
「……」
「誤解なきよう申し上げておきますが、養子縁組に関しては特に問題ありません。ただ、これは小林さんとお子さんの問題なのですが……日本人の夫婦が白人の子供を連れていれば、その関係に疑問を持つ人は必ず出てきます。それにお子さんも明らかに実子ではないというのがわかる状態でずっと生きていくのですから、その心中を察すると――」
「仮の話ですが、もしも今回の話が無くなれば、その子はどうなりますか?」
「そうですね。いま言ったように日本人の里親は難しいでしょうから、あとは白人夫婦を探す事になりますが……さらに難しいかと思います」
「それでその子は――」
「児童養護施設に入って18歳まで過ごすことになりますね。その後は一人で生きていくことになるでしょう」
一瞬の沈黙の後、楓子は意を決して立ち上がり、涙声で言った。
「私、その子の母親になります。その子には何の罪もない。私たちはその子を幸せにしてあげなければならないの!」
浩司も深く考え込んだ後、妻の意志を尊重して担当者に言う。
「わかりました。それではこの話を進めてください」
その顔には、新しい家族の形を受け入れる決意が垣間見えた。
長年子供を望んでいたが、残念ながら恵まれなかった。そのため楓子が35歳の時に不妊治療を始めたが、5年間の努力にもかかわらず、ついに結果が実ることはなかった。
楓子が40歳になったときに不妊治療をやめた。夫婦二人だけの生活も悪くないかもしれない。そう思い始めていた矢先に浩司から意外な提案があった。
「なぁ、養子をもらわないか?」
「養子……?」
楓子は驚いた。正直に言えば過去に何度もその選択肢を考えたことはあった。しかし、血の繋がった我が子を望んで不妊治療を受けていた彼女にとって、今それを考えるのは身勝手に感じられた。
当時はどうしても我が子を諦めることができずに考えないようにしていた。しかし今は全てを諦めた後。ならばもう一度考えてもいいのかもしれない。
だが、血のつながらない子を愛せるかどうか、養子をもらうこと自体が自分たちの幸せを求めるための欺瞞ではないのか、という不安が常に頭から離れなかった。子供自身の幸せはどうなるのだろうか。
提案から1週間。未だに悩む楓子に浩司が声をかけた。
「なぁ楓子。俺たちが子供を欲しいと願うのと同じように、親を欲しいと願う子供もいるはずだ。もちろん全員は無理だけど、その中の一人でも幸せにできるなら、それはきっと意味のあることなんだと思う。お前の不安もわかるが、ここはひとつ勇気を出してみないか?」
優しく妻を見つめる浩司の顔には、懐かしい微笑みが溢れていた。それが楓子にプロポーズした時のものと同じだと気付いた彼女は、直後に心を決めたのだった。
◆◆◆◆
児童相談所の個室に案内された浩司と楓子は、パイプ椅子に腰掛けて担当者の到着を待っていた。二人が里親マッチングに登録してから半年が経つ。けれど養子縁組の決定に時間がかかることを知る彼らにとって、その時間はほんの些細なものでしかなかった。
聞くところによると、1年以上待つ夫婦もいるという。まだまだ先の話になるだろう。そう思いつつ普段通りの生活を送っていると、何の前触れもなく突然の連絡が入った。それで今日は担当者との打ち合わせのため児童相談所を訪れていたのだ。
不快なほど薄いクッションの椅子に座り込んだ二人の前に、40代半ばの男性職員が現れる。重そうなファイルを抱えて、丁寧に会釈をしながら彼らの前に座り込んだ。
「お待たせしました。あぁ、どうぞそのままで。――この度はご足労いただきましてありがとうございます。小林さんにマッチングしたお子さんが見つかりましたよ」
役所特有の淡々とした口調。けれど夫妻にとっては待ち望んだ知らせであるため表情が一気に明るくなる。通常ならば最初に軽い世間話が交わされるものだが、担当者は直接話題に入ることを選んだ。
「えぇと……K町の慈英病院の赤ちゃんポストで保護された生後一ヵ月の女の子です。いまはそこの乳児院にいます」
浩司が反応する。
「慈英病院ですか。そこの話は聞いたことがあります」
「そうですか、それは幸いです。――それでその子ですが、健康そのものでとても元気に育っているそうです」
その言葉に楓子の顔も明るくなり、赤ん坊を想像しながら笑顔を見せる。しかし担当者の次の言葉に二人は戸惑う。
「ただ、その子には少し特徴がありまして……」
「特徴?」
「はい。実はその子、どうやら日本人ではなく白人の赤ちゃんらしいのです」
驚きながらも夫婦は子供の将来を真剣に考え始める。特に楓子は自らの過去を重ね合わせながら、その子の将来を深く案じた。
その姿を眺めながら担当者が説明を続ける。
「日本人の夫婦が白人の子供を育てる場合、周囲からの反応や子供自身のアイデンティティの問題など、いくつかの困難が予想されます」
「……」
「誤解なきよう申し上げておきますが、養子縁組に関しては特に問題ありません。ただ、これは小林さんとお子さんの問題なのですが……日本人の夫婦が白人の子供を連れていれば、その関係に疑問を持つ人は必ず出てきます。それにお子さんも明らかに実子ではないというのがわかる状態でずっと生きていくのですから、その心中を察すると――」
「仮の話ですが、もしも今回の話が無くなれば、その子はどうなりますか?」
「そうですね。いま言ったように日本人の里親は難しいでしょうから、あとは白人夫婦を探す事になりますが……さらに難しいかと思います」
「それでその子は――」
「児童養護施設に入って18歳まで過ごすことになりますね。その後は一人で生きていくことになるでしょう」
一瞬の沈黙の後、楓子は意を決して立ち上がり、涙声で言った。
「私、その子の母親になります。その子には何の罪もない。私たちはその子を幸せにしてあげなければならないの!」
浩司も深く考え込んだ後、妻の意志を尊重して担当者に言う。
「わかりました。それではこの話を進めてください」
その顔には、新しい家族の形を受け入れる決意が垣間見えた。