第26話 終息

文字数 3,564文字

 桜子保護の一報が小林家に届いた時、浩司は力強く雄叫びを上げ、楓子は安堵の息をついてソファへ崩れ落ち、絹江は深く長い溜息を吐いた。そして事件現場が車で10分の距離にあると知り、浩司と楓子は急ぎ自家用車で現場へ向かった。

 (はや)る気持ちを抑えつつ、ようやく現場に到着した二人は、複数のパトカーと警官たちによって封鎖されたその場所へ足を踏み入れた。
 近くの警官に事情を説明し、二人はすぐそばに停まっていた救急車へ案内される。首から下が毛布で隠されているため怪我の状態は確認できないが、白い頬と金色の髪が血で染まった桜子の姿がそこにあった。

 その光景を目にした途端、あまりに凄惨な姿に楓子は気を失いそうになる。それを浩司が支えながら救急車に乗り込むと、車内にいた医師に状況を尋ねた。

「さ、桜子は大丈夫なんですか!? この血はなんですか!? 怪我をしているんですか!?」

「ちょ、ちょっとお父さん、少し落ち着いて下さい! いいですか? この血は桜子さんのものではありません! 彼女はただ気を失っているだけです!」

「ほ、本当ですか!? それにしては、随分と酷い姿をしているじゃないですか! なら、この血はいったい誰のものなんです!?」

「容疑者のもののようです。詳しく検査をしなければ断言できませんが、桜子さん自身には目立った創傷、切創などは見受けられません」

 浩司の剣幕に医師も慌てたのか、意図せず専門用語を口にしてしまう。しかし彼はそれにも気付かず、浩司と楓子を落ち着かせるよう務めた。

「とにかく今は病院に連れて行かなければなりません。お二人には一緒に来ていただきたいのですが、よろしいですか?」
 
 もちろんそれに否やはない。楓子は桜子とともに救急車で病院へ向かい、浩司は自家用車でその後を追った。


 病院での検査により、桜子の体にはいくつもの打撲痕が見つかった。幸いにも出血を伴うような外傷はなかったものの、保護されて以来ずっと意識がないため、自覚症状についての検査は彼女が目覚めた後に行われる予定だ。

 浩司と楓子は警察から箱根の写真を見せられたが、揃って記憶はなかった。もっともそれは仕方のないことである。なぜなら、箱根は両親と顔を合わせないように、桜子が一人で店にいる時間帯を狙ってきていたからだ。

 その日は絹江に自宅を任せ、二人は病院へ泊まり込むことにした。桜子の意識が早く戻るのを願う反面、彼女には休息が必要だとも思う。そのため今は最愛の娘の寝顔を見守りつつ、ただひたすらに耐えることを選んだ。

 半日が経ち、夜が更けても桜子は目を覚まさなかった。愛らしい白い顔に目立つ幾つもの痣が痛々しく見える度に、浩司は自分を責めた。

「あの時、俺がいればこんなことには……。桜子、ごめん。お父さん何もできなかった……」
 
「あなたは悪くないわ。自分を責めてもどうにもならないから、もうやめて」

「でも俺は、娘の危機に何もできなかった。本当に役立たずだ」

「お願いだから自分を責めないで。あなたのせいだなんて、桜子だって思っていないわよ」

「あ、あぁ……すまん。ちょっと感傷的になった。――とにかく桜子が無事でよかった。健斗がいてくれなかったら、今こうしてこの子はここにいなかったかも知れない。あいつには感謝してもし切れないな」
 
「えぇ、本当に。健斗くんのおかげで桜子は助かったようなものだもの。いっぱい、いっぱい感謝しなくちゃね」


 翌日の午後。ついに桜子が目を覚ました。
 身の回りの物を取りに行くためにちょうど浩司が自宅へ戻っていたので、その時は楓子が一人だった。
 小さな呻き声を上げて身動ぎする桜子。その彼女の身体を楓子がそっと優しく抱きしめた。

「桜子、わかる? お母さんだよ。――怖かったね、本当に怖かったよね。だけど、もう大丈夫。お父さんもお母さんもいるから、安心してね」

 未だ焦点の合わない青い瞳を大きく見開き、桜子が楓子の顔を見つめる。そのぼんやりとした顔からは、未だ状況を把握できていない様子が伺えた。彼女へなおも母親が優しく語り掛ける。

「あなたは助かったの。犯人は逮捕されたわ。もう怖い人はいないから大丈夫よ」

 楓子が娘の頬に手を添えて優しく語り掛ける。すると桜子は、突然ぽろぽろと大粒の涙を流し、次いで勢いよく母親の胸に抱き着いた。

「あぁ、お母さん! 怖かった! あたし怖かったの! あぁぁぁぁ!」
 
「大丈夫、もう大丈夫よ。もう何も怖くないからね……」

 楓子の胸に縋りつき、桜子が(せき)を切ったように泣きじゃくる。その背を柔らかく撫でながら、楓子はいつまでも最愛の娘を抱きしめていた。



 その後の警察の調べで事件の全容が判明したのだが、肝心の桜子は、箱根のアパートでの記憶を一部失っていた。恐慌状態に陥って暴れ、腹に蹴りを入れられて気を失った後、気付くと病室のベッドにいたのだ。

 現場に踏み込んだ警官の証言によると、桜子は箱根に馬乗りになってナイフで刺そうとしていたらしい。実際に箱根も複数回切り付けられたと供述してるが、当の桜子には全く記憶がなかった。

 今後の裁判で取り上げられるだろうが、桜子の反撃方法は法的に正当防衛の範囲を逸脱している可能性がある。しかし、未だ12歳の幼気(いたいけ)な少女が成人男性に自由を奪われ、暴行を受け、逃れるために相手をナイフで刺したのだから、常識的に考えるならば誰もそれを責められないだろう。

 ともあれ、重要なのは桜子の精神的なケアである。警察が事件について話を聞いた際、桜子は突然悲鳴を上げて病室の隅に縮こまり、目を閉じて両手で耳を塞いで震えてしまった。この反応を見る限り、彼女が深刻な精神的トラウマを抱えているのは間違いない。
 医師によると、アパートでの記憶の一部が欠落しているのもこのトラウマが原因である可能性が高いそうだ。このケアには時間がかかるため、焦らずにじっくりと取り組む必要があった。 


 桜子は最終的に10日間の入院生活を経て退院した。
 肉体的な傷は癒えたものの、精神的なダメージを考慮してしばらく学校を休み、自宅での静養を選んだ。その期間、彼女は家族以外の誰とも会わず、友人や知人についても語らなかった。
 何もせず、ただぼんやりと過ごす日々の中で寂しさを感じているようにも見えたが、それを口にすることもなかった。

 事件が地方新聞やニュースで取り上げられたために、すでに近隣住民には知れ渡っていたが、彼らは小林家に配慮して意図的に静かにしてくれた。しかし、テレビや雑誌などのマスメディアが事件を取り上げ始めると、取材を名目に多くの人間が酒屋を訪れるようになった。

 美少女の誘拐事件は多くの読者の関心を引き、娯楽系週刊誌でも特集記事が組まれるほどである。そこには犯人の背景や事件の動機、趣味嗜好などが読者の好奇心を刺激する形で詳述されていたが、同時に小林家や桜子についても深く掘り下げられ、しかもその多くがろくに取材もせぬまま、憶測に基づいて書かれていた。

 激怒した浩司が雑誌社へ抗議しに行ったが、口頭での謝罪のみで、雑誌の回収や謝罪文の掲載までには至らなかった。かくして浩司は、ささやかな叛意として、その種の雑誌の購読を今後一切やめることにしたのだった。


 桜子が退院して2日後、健斗は母親の幸とともに小林家を見舞いに訪れた。
 最初は玄関から桜子の顔を一目見てすぐに帰ろうとしたのだが、楓子に上がるように促され、二人は重々しい様子で桜子の部屋に入った。
 久しぶりに再会した桜子は元気な姿を見せていたが、どこか以前と変わった様子があるように健斗には感じられた。

「本当に大変だったわねぇ。もう身体は大丈夫なの?」
  
 気遣いながら幸が問う。それに桜子が答えた。

「おばさんも健斗も、来てくれてありがとう。色々と大変だったけど、今はもう大丈夫。来週から学校にも行けそうだよ」

「そっか。良かった……」 
 
 健斗が伏し目がちに呟くと、桜子は泣きそうな笑顔を見せながらその手を取った。

「健斗……本当にありがとう。あの時、健斗がいてくれなかったら……あたしを追いかけてくれなかったら……今、あたしはここにいなかったかも知れない」

 涙を堪えていた顔が徐々に泣き顔へと変わり、桜子の瞳からは大粒の涙がこぼれ落ち始めた。

「うぅ……ひっく……本当に……本当にありがとう……健斗はあたしの命の恩人なんだよ」

「そ、そんなことねぇよ。俺は……お前を守るって約束したし」

「うん、ありがとう。とっても感謝してる。もう健斗には一生足を向けて寝られないね」

 言いながら桜子は、泣き顔に少しいたずらっぽい笑顔を浮かべて微笑んだ。

 その後、浩司、楓子、絹江の3人が木村親子に感謝の言葉を伝えると、幸は深く恐縮し、その横で健斗は顔を赤らめて(うつむ)いていた。
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