第41話 思わぬ反撃
文字数 3,272文字
ここはどこだろう。真っ暗で何も見えない。
自分はどうしてこんな所にいるのだろうか。
あれ? 体が動かない。あたしはどうして……
あぁ、思い出した。あたしは3年生にトイレに連れ込まれて責められていたのだ。
とても怖かった。
ナイフを出された時に、恐怖のあまりおかしくなって……
おかしい。やっぱりおかしい。今の状況が理解できない。
もしかしてあたしは死んだのだろうか。あのナイフに刺されたのだろうか……
それにしても、どうしてこんなに自分は冷静なんだろう。
ついさっきまで、訳がわからなくなって暴れていたのに……
あっ……なんか明るくなってきた……
光が見える。なんだろう……このぼんやりとした光は……
あぁ……
「おい……糞ガキども……やってくれるじゃねぇか……覚悟はできてんだろうなぁ?」
額から噴出する血で真っ赤に染まった桜子の顔に、青い瞳がギラリと浮かぶ。
鮮やかなコントラストに彩られたその顔は、見る者すべてを震えあがらせるような憤怒の表情に満ちていた。くわえて、顎からぽたりぽたりと滴る深紅の血が、さらに彼女をこの世ならぬ者に見せる。
その姿を目の当たりにした綾香たちは皆同じことを考えた。
まったくの別人にしか見えないが、これは本当にあの 小林桜子なのだろうか。
それともこれが本性で、普段の彼女がフェイクなのか。
わからない。ぜんぜん、まったく、ひとつもわからないが、とにかくこの状況はマズい。それだけはわかる。
逃げよう。今すぐ逃げなければ。
尋常ならざる光景に、動物の生存本能を呼び覚まされた綾香たちは、理由 もわからぬままに後退りする。すると桜子は、それらの思考を読み取ったかの如くトイレの出入り口まで移動してそこを塞いだ。
「おい、てめぇら、自分が何やらかしたかわかってんだろうな!? ガキだからって容赦しねぇ。仕出かした責任はとってもらうぞ! てめぇら全員、逃がさねぇ!」
だんっ!
桜子が勢いよく足を踏み鳴らす。それは歌舞伎の見得切りに似て、いささか芝居じみていた。
それを合図にしたように、一番近くにいたくるくる巻き髪の少女が桜子を突き飛ばそうとしたのだが、咄嗟に振り上げられた桜子の足が少女の腹に突き刺さる。
すらりと痩せた体型の桜子は、腕も細く、およそ力があるようには見えない。しかしよく見れば、水泳で鍛えた全身は筋肉で引き締まり、特に磨き上げられた脚から繰り出される蹴りは特筆すべきものがあった。
とはいえ、如何せん体重が軽すぎた。少女一人を悶絶させるには十分な威力ではあるが、その反動に耐えきれずに桜子自身もよろけてしまう。
その彼女が言う。
「逃がさねえっつってんだろうが、このクソがっ! ちっ……にしても、蹴りに体重が乗らねぇなぁ」
なにこれ……?
あたしが……あたしの身体が勝手に動いてる……
桜子の眼前には信じられない光景が広がっていた。
それは普段見ている視点とそれほど違いはなかったが、まるで暗闇に浮かぶ映像のように、全体が薄ぼんやりとしている。
音は聞こえず、全くの無音の世界だ。
そしてその視界の中で、自分の足が少女の腹を蹴り上げていた。
あたし……何もやってないのに……どうして勝手に身体が動いているのだろう……っていうか、あれ? あたし……自分の体が自由にならない……
「さて、次はどいつだ? お前か? それともお前か? あぁん?」
桜子が指を差しながら少女たちへにじり寄る。するとその時、背の高いショートカットの少女が勢いよく桜子の胸倉を掴み上げた。
「小林! てめぇ、なにしやがる!」
売られた喧嘩に買う喧嘩。普通であればここで二言三言交わすのだろうが、何を思ったのか、桜子は一言も喋らずに、全く予備動作もないまま少女の顔面に思い切り頭突きを食らわせた。
「ぐあっ!」
思わず少女がよろけて後ずさる。直後に顔の中心から勢いよく鼻血が噴き出した。
しかしそれだけでは終わらない。鼻を押さえ、悶絶する少女の髪を無造作に掴んだ桜子は、そのまま足を払って転ばせて、床を引きずり、その頭を便器の中へ突っ込んで勢いよく水を流した。
「ぎゃぁぁ……がぼがぼっ……!」
「おらぁ! よくも俺を小突き回してくれたなぁ! 思い知れ、このクソがっ!」
あ、あたし、何やってるの……そんなことしたら駄目じゃない……
手も怪我してるし……血もいっぱい出てる……
でも、ぜんぜん痛くないや……
「ちっ! なんて脆弱な身体だ。むしろこっちの方がダメージ受けてんじゃねぇか、くそ。――に、しても出血が多すぎる。そろそろなんとかしねぇと、マジでやべぇな」
「や、やめっ……がはっ! も、もうやめて! お願い、許して! げほっ、がはっ!」
便器の中から顔を持ち上げ、泣いて許しを請うショートカットの少女。その頭を容赦なく踏みつけながら桜子が小さく呟く。
その背へ、それまで呆然と眺めていた綾香が叫んだ。
「こ、小林? あ、あなた誰? 本当に小林なの!?」
はっきり言って、その質問は意味がわからなかった。
桜子は桜子であって、それ以外の何者でもない。それは彼女をここへ連れ込んだ綾香たちが一番よくわかっているはずだ。にもかかわらず、綾香はそれを疑っている。
いや、そうではない。正確に言えば、彼女は目の前の光景が信じられなかったのだ。
人は目の前の事象が己の理解を超えた時、たとえ否定しようのない現実に対してさえ疑念を抱いてしまう生き物である。そうすることによって無意識に自我を守ろうとするのだが、いまの彼女がまさにその状態だった。
あの、いかにも美少女然とした桜子が、粗暴に振る舞い、汚い言葉を吐き、容赦なく人を殴りつけている。
それはまさに綾香の理解の範疇を遥かに超えていたのだ。
綾香の裏返った甲高い叫び声に反応した桜子が、相手を射殺すような目つきで睨みつけてくる。金色の眉は鋭角に吊り上がり、眉間には深い皺が刻まれる。口は思い切り引き結ばれ、もはやそこには、普段の「ゆるふわ」な雰囲気は微塵もなかった。
その顔でさらに桜子が言う。
「あ゛ぁ!? てめぇ、この俺が桜子に見えるのか? あの、虫も殺せない、お優しいガキに見えるってぇのか!?」
「えっ? なに? 何を言って……」
「なら、教えてやる。俺はなぁ……こいつに取り憑いてる悪霊なんだよ!」
「!」
たとえ悪霊が取り憑いていると言われても、俄 かに信じる者はいないだろう。しかし、目の前で桜子の豹変ぶりを見てきた綾香たちは、それを信じずにはいられなかった。
「こいつに取り憑くのもそろそろ飽きてきたところだ。ちょうどいい。次はお前に憑いてやる」
急に真顔になったかと思うと、桜子が震える綾香へにじり寄っていく。恐怖に駆られた綾香は、手に持ったナイフを考えもなしに振り回し始めた。
「や、やめてぇ! 来ないで! いやぁぁぁぁぁ!」
「おい、お前たち! 何やってる!」
突如トイレに響いた叫び声。見ればそれは、2名の男性教師だった。
桜子の悲鳴を偶然にも聞きつけた生徒が、トイレの中の蛮行を職員室へ報告しにいった。それを聞いた教師達が、慌てて駆けつけて来たというわけだ。
教師が踏み込んだ時、トイレの中では綾香がナイフを振り回しており、さらに残りの3名がその周りを囲っていた。
それはどこからどう見ても、いじめの現場以外には考えられなかった。さらに言えば、額から大量の血液を垂れ流す桜子は、被害者以外の何者でもなかった。
教師の登場により、不意にその場の空気が弛緩する。
ナイフを持ったままの綾香はその場にしゃがみ込み、残りの少女たちも諦めたような、ホッとしたような複雑な表情を浮かべて壁にもたれた。
そして桜子は、人知れずニヤリと笑みを浮かべて、直後に床へ崩れ落ちた。
急に目の前の光が消えて、再び桜子は深い闇の中へ放り出される。次いで沈みゆく意識の中で、誰かの声をぼんやりと聞いた。
「やれやれ……頼むから、降りかかった火の粉くらいは自分で払ってくれよ。まったく、世話の焼ける娘だ……」
自分はどうしてこんな所にいるのだろうか。
あれ? 体が動かない。あたしはどうして……
あぁ、思い出した。あたしは3年生にトイレに連れ込まれて責められていたのだ。
とても怖かった。
ナイフを出された時に、恐怖のあまりおかしくなって……
おかしい。やっぱりおかしい。今の状況が理解できない。
もしかしてあたしは死んだのだろうか。あのナイフに刺されたのだろうか……
それにしても、どうしてこんなに自分は冷静なんだろう。
ついさっきまで、訳がわからなくなって暴れていたのに……
あっ……なんか明るくなってきた……
光が見える。なんだろう……このぼんやりとした光は……
あぁ……
「おい……糞ガキども……やってくれるじゃねぇか……覚悟はできてんだろうなぁ?」
額から噴出する血で真っ赤に染まった桜子の顔に、青い瞳がギラリと浮かぶ。
鮮やかなコントラストに彩られたその顔は、見る者すべてを震えあがらせるような憤怒の表情に満ちていた。くわえて、顎からぽたりぽたりと滴る深紅の血が、さらに彼女をこの世ならぬ者に見せる。
その姿を目の当たりにした綾香たちは皆同じことを考えた。
まったくの別人にしか見えないが、これは本当に
それともこれが本性で、普段の彼女がフェイクなのか。
わからない。ぜんぜん、まったく、ひとつもわからないが、とにかくこの状況はマズい。それだけはわかる。
逃げよう。今すぐ逃げなければ。
尋常ならざる光景に、動物の生存本能を呼び覚まされた綾香たちは、
「おい、てめぇら、自分が何やらかしたかわかってんだろうな!? ガキだからって容赦しねぇ。仕出かした責任はとってもらうぞ! てめぇら全員、逃がさねぇ!」
だんっ!
桜子が勢いよく足を踏み鳴らす。それは歌舞伎の見得切りに似て、いささか芝居じみていた。
それを合図にしたように、一番近くにいたくるくる巻き髪の少女が桜子を突き飛ばそうとしたのだが、咄嗟に振り上げられた桜子の足が少女の腹に突き刺さる。
すらりと痩せた体型の桜子は、腕も細く、およそ力があるようには見えない。しかしよく見れば、水泳で鍛えた全身は筋肉で引き締まり、特に磨き上げられた脚から繰り出される蹴りは特筆すべきものがあった。
とはいえ、如何せん体重が軽すぎた。少女一人を悶絶させるには十分な威力ではあるが、その反動に耐えきれずに桜子自身もよろけてしまう。
その彼女が言う。
「逃がさねえっつってんだろうが、このクソがっ! ちっ……にしても、蹴りに体重が乗らねぇなぁ」
なにこれ……?
あたしが……あたしの身体が勝手に動いてる……
桜子の眼前には信じられない光景が広がっていた。
それは普段見ている視点とそれほど違いはなかったが、まるで暗闇に浮かぶ映像のように、全体が薄ぼんやりとしている。
音は聞こえず、全くの無音の世界だ。
そしてその視界の中で、自分の足が少女の腹を蹴り上げていた。
あたし……何もやってないのに……どうして勝手に身体が動いているのだろう……っていうか、あれ? あたし……自分の体が自由にならない……
「さて、次はどいつだ? お前か? それともお前か? あぁん?」
桜子が指を差しながら少女たちへにじり寄る。するとその時、背の高いショートカットの少女が勢いよく桜子の胸倉を掴み上げた。
「小林! てめぇ、なにしやがる!」
売られた喧嘩に買う喧嘩。普通であればここで二言三言交わすのだろうが、何を思ったのか、桜子は一言も喋らずに、全く予備動作もないまま少女の顔面に思い切り頭突きを食らわせた。
「ぐあっ!」
思わず少女がよろけて後ずさる。直後に顔の中心から勢いよく鼻血が噴き出した。
しかしそれだけでは終わらない。鼻を押さえ、悶絶する少女の髪を無造作に掴んだ桜子は、そのまま足を払って転ばせて、床を引きずり、その頭を便器の中へ突っ込んで勢いよく水を流した。
「ぎゃぁぁ……がぼがぼっ……!」
「おらぁ! よくも俺を小突き回してくれたなぁ! 思い知れ、このクソがっ!」
あ、あたし、何やってるの……そんなことしたら駄目じゃない……
手も怪我してるし……血もいっぱい出てる……
でも、ぜんぜん痛くないや……
「ちっ! なんて脆弱な身体だ。むしろこっちの方がダメージ受けてんじゃねぇか、くそ。――に、しても出血が多すぎる。そろそろなんとかしねぇと、マジでやべぇな」
「や、やめっ……がはっ! も、もうやめて! お願い、許して! げほっ、がはっ!」
便器の中から顔を持ち上げ、泣いて許しを請うショートカットの少女。その頭を容赦なく踏みつけながら桜子が小さく呟く。
その背へ、それまで呆然と眺めていた綾香が叫んだ。
「こ、小林? あ、あなた誰? 本当に小林なの!?」
はっきり言って、その質問は意味がわからなかった。
桜子は桜子であって、それ以外の何者でもない。それは彼女をここへ連れ込んだ綾香たちが一番よくわかっているはずだ。にもかかわらず、綾香はそれを疑っている。
いや、そうではない。正確に言えば、彼女は目の前の光景が信じられなかったのだ。
人は目の前の事象が己の理解を超えた時、たとえ否定しようのない現実に対してさえ疑念を抱いてしまう生き物である。そうすることによって無意識に自我を守ろうとするのだが、いまの彼女がまさにその状態だった。
あの、いかにも美少女然とした桜子が、粗暴に振る舞い、汚い言葉を吐き、容赦なく人を殴りつけている。
それはまさに綾香の理解の範疇を遥かに超えていたのだ。
綾香の裏返った甲高い叫び声に反応した桜子が、相手を射殺すような目つきで睨みつけてくる。金色の眉は鋭角に吊り上がり、眉間には深い皺が刻まれる。口は思い切り引き結ばれ、もはやそこには、普段の「ゆるふわ」な雰囲気は微塵もなかった。
その顔でさらに桜子が言う。
「あ゛ぁ!? てめぇ、この俺が桜子に見えるのか? あの、虫も殺せない、お優しいガキに見えるってぇのか!?」
「えっ? なに? 何を言って……」
「なら、教えてやる。俺はなぁ……こいつに取り憑いてる悪霊なんだよ!」
「!」
たとえ悪霊が取り憑いていると言われても、
「こいつに取り憑くのもそろそろ飽きてきたところだ。ちょうどいい。次はお前に憑いてやる」
急に真顔になったかと思うと、桜子が震える綾香へにじり寄っていく。恐怖に駆られた綾香は、手に持ったナイフを考えもなしに振り回し始めた。
「や、やめてぇ! 来ないで! いやぁぁぁぁぁ!」
「おい、お前たち! 何やってる!」
突如トイレに響いた叫び声。見ればそれは、2名の男性教師だった。
桜子の悲鳴を偶然にも聞きつけた生徒が、トイレの中の蛮行を職員室へ報告しにいった。それを聞いた教師達が、慌てて駆けつけて来たというわけだ。
教師が踏み込んだ時、トイレの中では綾香がナイフを振り回しており、さらに残りの3名がその周りを囲っていた。
それはどこからどう見ても、いじめの現場以外には考えられなかった。さらに言えば、額から大量の血液を垂れ流す桜子は、被害者以外の何者でもなかった。
教師の登場により、不意にその場の空気が弛緩する。
ナイフを持ったままの綾香はその場にしゃがみ込み、残りの少女たちも諦めたような、ホッとしたような複雑な表情を浮かべて壁にもたれた。
そして桜子は、人知れずニヤリと笑みを浮かべて、直後に床へ崩れ落ちた。
急に目の前の光が消えて、再び桜子は深い闇の中へ放り出される。次いで沈みゆく意識の中で、誰かの声をぼんやりと聞いた。
「やれやれ……頼むから、降りかかった火の粉くらいは自分で払ってくれよ。まったく、世話の焼ける娘だ……」