第28話 告白

文字数 4,003文字

 小林家のリビングで、健斗と桜子が向かい合わせに座っていた。
 二人はすでに5分以上うつむいたままで、どちらからも言葉を発することなく、ただ静かに時間だけが流れていく。その時、1階の店舗から上がってきた楓子が健斗を見つけて声をかけた。 

「あら? 健斗くん、こんにちは。どうしたの? 桜子に会いに来てくれたの?」

「えっ? あ、はい、こんにちは。お邪魔してます。すいません、急に」

「いいのよ、ぜんぜん。来てくれて嬉しいわ。――あ、そうだ。せっかくだから、うちで晩御飯食べていきなさい」

「あ、いや、そんな」

「いいのいいの。子供が遠慮なんてするものじゃないわ。お母さんには私から連絡しておいてあげるから、一緒にご飯を食べましょ。ね?」

 楓子の様子を見ていると、その提案が健斗ではなく、桜子のためであることがわかる。せっかく幼馴染が訪ねて来たのだから、この機会に桜子が少しでも気を紛らわせられればいいと思ったらしい。そのため、これは単なる提案というより説得に近いものだった。
 その意図を汲んだ健斗が楓子の申し出に頷く。すると横から、囁くような小さな声が聞こえてきた。

「……聞いてくれるの?」

 気を付けていなければ、聞き逃しそうなほどに小さな呟き。それを聞き取った健斗が返事を返した。

「うん。俺でよければ聞くよ。話して」

 桜子は幼なじみの少年を縋るような眼差しで見つめた。透き通る青い瞳には涙が浮かび、ゆっくりとした声で言葉を紡ぎ始める。キッチンにいた楓子は、突然話し始めた娘の様子をじっと見つめながら、一つも聞き逃さないように耳を傾けた。

「あたしね……なにもされてないの……」

「えっ……?」

「あたし、なにもされてない……みんなが思っているようなこと、されてない……」

「……」

「みんなが噂してるの知ってる。あたしが誘拐されて……されたって……」

「酷いことを……されたこと?」

「だから、されてない! あたし、あの人に、みんなが思ってるようなことされてないの!」

 桜子は目から大粒の涙を流しながら突然叫んだ。
 これほど大きな声を桜子から聞くのは何時(いつ)ぶりだろう。思わず健斗が考えていると、大声に驚いた浩司が1階の店舗から駆け上がってくる。しかし楓子によって入室を止められてしまった。

「あたし知ってる! みんなが噂してるの知ってるもん! あたしがあの人に、いやらしいことをされたって!」

 今や桜子の叫びは悲鳴に近かった。小学6年ともなれば保健体育の授業もあるし、このネット全盛の時代、(ちまた)には性的な情報が溢れている。いかに純情な桜子でも、男女の営みや男の欲望くらいは知っていた。
 
「あぁぁぁぁ! みんな、あたしがいやらしいことをされたと思ってる! だから誰もあたしに近寄って来ない! 話しかけてもくれない! あたしはなにもされてないのに! うわあぁぁぁぁ!」
 
 天を仰ぎ、大きく口を開けたまま、まるで幼い子供のように桜子が泣きじゃくる。思わず健斗が手を伸ばすと、桜子はその胸に飛び込んで力いっぱい泣き続けた。健斗はその背に手を回し、桜子が落ち着くまで優しく頭を撫でた。

 それから何分経っただろうか。桜子の嗚咽が徐々に静かになり、健斗が顔を上げると、様子を伺っていた楓子と浩司と目が合った。浩司の顔には「よくやった」という表情が浮かび、こちらへ向かって小さくうなずいた。

 ようやく落ち着きを取り戻した桜子が、健斗の胸から顔を上げてゆっくりと話し始める。その顔はまるで憑き物が落ちたようにすっきりしており、久しぶりに見せた微笑みには、ほんの少しだけ照れくささが混じっていた。 

「ごめん、健斗。涙と鼻水で服を汚しちゃった……」

「いいよ、べつに。慣れてるし、今さらだよ」

「もう、酷いなぁ。あたし、そんなにいつも泣いてばかりじゃないよ、もう」

「……」

「あはは……なんだか、泣いたらすっきりしちゃった。ありがとう、健斗」

 桜子は目を真っ赤に腫らしていたが、その表情は以前の彼女に戻ったように見えた。


 実のところ桜子は、直接的な意味での性的暴行は受けていない。確かに身体を触られたりはしたものの、性的な意味での肉体的接触はされていなかった。
 しかし少女が猥褻目的で誘拐されたのだから、たとえ助かったとしても、すでに何かをされた後に違いないと誰もが思った。

 そんな無思慮な思い込みに対して、桜子は一人苦しんでいた。自分は何もされていないのに、みんなはそう思ってくれない。彼女の知らないところでこそこそと噂されているのだ。 

 自分は男にいやらしいことをされた。

 みんなは自分をいやらしいと思っている。

 自分はいやらしい子だ。

 だから皆は自分を避けている。話しかけてこないし、近づいてもくれない。
 けれど、「あたしはいやらしいことをされていない」だなんて、恥ずかしくて桜子には言えなかった。

 桜子は全てを打ち明けた。これまで誰にも話せずにずっと一人で抱え込んできた心の痛みを、一切の躊躇いなく吐き出したのだ。
 すべてを話し終えた桜子の顔には、まるで重荷を下ろしたかのようなすっきりとした表情が浮かんでいた。


 その夜、健斗は小林家で夕食をご馳走になった。楓子が約束通り健斗の母に連絡を入れてくれたおかげで、彼は時間を気にすることなく夕食を楽しむことができた。
 抱えていた重苦しい心情を全て吐き出した桜子は、夕食の席では活発に話し、昨日までのぼんやりと外を眺めていた姿からは想像もつかないような変化を見せた。

 そんな桜子の姿を眺めながら、健斗は彼女に対して今まで通り自然に接し、特別扱いせず、変に気を遣わないでほしいと、明日学校で皆に伝えようと心に決めた。


 夕食を終えると、外はすでに真っ暗だった。
 たとえ男の子だとしても、夜道を小学生一人で歩かせるわけにはいかない。そこで浩司が健斗を家まで送ることになったのだが、健斗はこれまで浩司と二人きりになった経験がなかったために、顔に浮かんだ緊張を隠せなかった。その時、浩司が前を見据えたまま口を開いた。

「健斗、ありがとうな。もしもあの時、お前がいてくれなかったら、もっと大変なことになっていたかもしれん。お前はいつも桜子を見てくれているんだな。今回、それがよくわかったよ」

「いや、俺はべつに……」

 呟きが夜の闇に消えていく。浩司は健斗の頭を無遠慮に鷲掴みすると、大きく息を吐きながら話を続けた。

「とにかく俺たちは、お前に感謝してるということだ。それは言葉だけでは伝えきれない、そのくらい大きなものなんだ」

「……」

 頭を鷲掴みにされた健斗は、顔を顰めながら浩司を見上げた。それを見下ろしながらなおも浩司が口を開く。

「俺はお前の父親にはなれないが、この先、何かあったら俺を頼れ。男には男にしか言えないこともあるだろう?」

 言いながら浩司がにやりと笑った。

 健斗に父親はいない。父になるはずだった男が、健斗が生まれる前に去っていったからだ。そのため彼は、大人の男というものをあまり理解していなかった。しかし、浩司の顔を見上げる中で、健斗は自身の心に何か新しい感情が芽生え始めたのを感じ取った。

 もしも自分に父親がいたなら、このような感情を抱くのだろうか。
 どんなことでも受け止めてくれるような、とても大きな存在。
 そんな存在に、自分もいつかなれるだろうか。

 そう考えながら、健斗は浩司との歩みを続けた。
 
 
 健斗の願いが届いたのか、翌日からクラスメイトの桜子に対する態度が徐々に以前のものへと戻り始めた。変に遠慮せず、気を遣うこともなくなり、皆が自然体で接するようになった。そして桜子も、少しずつ以前のような振る舞いを取り戻していく。

 健斗は知らなかったが、実は彼の願いを聞いた富樫翔が、裏でクラスメイトたちに桜子への接し方を呼びかけていたらしい。
 さすがに今日、明日というわけにはいかなかったが、それでも徐々に桜子の顔には以前のような笑みが戻ってきたのだった。


 ◆◆◆◆


 11月中旬。
 桜子は事件以降に前世の記憶を見ることはなかった。とはいえ、今までも何の前触れもなく突然イメージが湧いて来ることがあったので、どうせいずれまた見るのだろうな、と思う程度で済ませていた。いや、むしろこのまま見なくなってくれたほうが、心配事が一つ減って助かるのだが、と正直思う。
 
 そんなある日の放課後。珍しく健斗が、桜子に一緒に帰ろうと誘ってきた。今でも朝は一緒に登校しているのだが、最近では友達との付き合いもある健斗とは帰りが別々だった。
 この珍しい誘いに、友里と陽菜が怪訝な顔をする。しかし、すぐに何かを察した二人は、途中で別れていった。

 健斗が途中で公園に寄ろうと提案したので、二人は並んでブランコに座る。すると健斗が静かに話し始めた。

「なぁ桜子。お前、中学は私立に行くんだってな」

「うん。M市にある女子中学校だよ。少し遠くなるから、朝に起きられるか心配なんだ」

「そっか……」

 会話が途切れる。けれど桜子は平気だった。
 理由は定かでないが、健斗とは言葉がなくても通じ合える気がする。だから桜子は相手が健斗であれば、たとえずっと無言のままでもまったく気にならなかった。
 沈黙が流れて数分が経ち、ブランコに座ったままの桜子が見るとはなしに空を見上げた時、おもむろに健斗が口を開いた。

「あのさ、桜子。みんなと一緒の中学へ行かないか? 俺が付いているからさ。もちろん無理にとは言わないけど」

「……」

「って、なに言ってるんだろうな俺。全然お前のこと守れなかったのに。はは……ごめんな」

「ううん、そんなことない。いっぱい助けてくれたよ。ありがとう、健斗は約束を守る男なんだね」

「……男か。俺って男なのかなぁ?」

「うーん、まだ男の子、かな。ふふっ」

「なんだよ、それ……」
  
 すっかり日が短くなった夕方の公園に、二人の影が長く伸びていた。
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