第9話 ふたりの出会い

文字数 3,053文字

 季節は三月。
 小林家に桜子が来てから早くも八ヶ月が経過した。浩司と楓子にとっては初めての子育てであったが、絹江の経験豊かなサポートのおかげで特に大きな困難に直面することもなく、総じて順調だった。

 桜子の誕生日は五月一日である。正確な出生日が定かでない保護された子供たちは、誕生日を任意に決められるため、彼女の場合は病院で保護された日を選んでいた。だから現在は生後十ヶ月を少し過ぎたところだ。

 過去を振り返れば、桜子は生後七ヶ月でズリ這いを始めた。その驚くべき腕力には匍匐(ほふく)前進さながらの勢いがあり、まるで某お掃除ロボットのように床の埃をきれいにしていく様は今も記憶に新しい。

 八ヶ月でハイハイを始めたが、普通の赤ん坊と比べても足腰は強かった。その前進速度には目を見張るものがあり、まさに猪突猛進という言葉が似合うものだった。まっすぐ家の壁へ激突することもしばしばで、和室の襖には彼女の頭突きによる大きな穴が今も残ったままである。
 もともと古くてあちこちガタついた家だったが、桜子が来てからさらに痛みが増したのは気のせいだけではないだろう。

 そして十ヶ月である。
 やっとつかまり立ちが出来るようになったものの、そのまま後頭部から倒れて救急病院に連れていかれたこともあった。しかし大事には至らず、目立った病気にかかることもなく、すくすくと元気に育っていった。



 晴れ渡った暖かな昼下がり、楓子は桜子を連れて近所のスーパーへ買い物に出かけた。
 白人の特徴を持つ桜子には多くの視線が集まる。楓子と二人のとき、周囲は桜子を外国人とのハーフなのだと思うらしい。
 向けられる視線のほとんどは好意的で、通りすがりの女子高生が「きゃー、可愛いー!」と声を上げたり、遠くから「あの赤ちゃん、かわいいね」と指を差す子供も少なくなかった。

 親の贔屓目(ひいきめ)を抜きにしても、桜子は可愛いらしい容姿をしている。それも飛び抜けて。
 いつも冷静な楓子でさえそう思うのだから、父親の浩司が溺愛するのも無理はない。やや過剰とも思えるほどの可愛がり様は、周囲から痛い人物に見られてしまうほどのものだった。

 総菜売り場に差し掛かったところで、カートの中の桜子がじたばたと動き始めた。どうやら彼女は床に降りたくなったらしい。なので楓子は桜子を地面に立たせてワゴンの端に手を掴ませてみた。

 桜子がゆっくりと歩き始める。その様子を楓子が微笑ましく眺めていると、反対方向からも同じように歩いてくる男の子が見えた。
 男の子のよちよちとした歩き方を見て、彼も桜子と同じくらいの月齢ではないかと思う。このままだと二人は中間地点で出会うはず。果たしてどんな反応を見せるのか、楓子は期待に胸を膨らませた。

 眺めること暫し。ついに二人は出会った。至近距離で互いに見つめ合って動かなくなる。
 そして、突然――

 パシンッ!

 桜子が男の子の横顔をビンタした。この予期せぬ行動に楓子は言葉を失う。
 
 一瞬呆然としたものの、男の子はすぐに桜子の横顔を叩き返した。その拍子に二人は同時に尻もちをついて泣き始めてしまう。慌てて駆けつける楓子。その視界に横からもう一人の姿が飛び込んでくる。おそらく男の子の母親だろう。

「ごめんね、痛かったね」

 楓子が言う。

「あちゃー、ごめんねぇ」

 もう一人の女性も謝る。
 互いの子供に対して謝りながら、二人の母親は顔を見合わせて直後に笑い始めた。

「うちの子が先に手を出しました、本当にすみません」

「いえいえ、お互い様ですよ。うちも女の子に手を上げたんですから」

「でも、まさかいきなり叩くなんて……本当に申し訳ありません」

「本当にお互い様ですから、気にしないでください」

 互いに自分の子供を抱きしめながら、二人の母親が和やかに笑う。子供たちの小さな衝突は、新たな親同士の交流のきっかけとなったのだった。


 ◆◆◆◆


 レジで会計を済ませた楓子は、出口近くで先ほどの親子と再会した。楓子と目が合った男の子の母親が近づいてくる。彼女へ楓子が告げた。

「さっきは本当にごめんなさいね」

「いえいえ、こちらこそ。――ところで、本当に可愛らしいお嬢さんですね。まるでお人形さんみたい。ご主人は外国の方ですか?」

「えっと、まあ……いろいろとありまして……」

 楓子が答えづらそうにしていると、男の子の母親が何かを察して急に慌てた。

「すみません、余計なことを訊いてしまって……」

「いえいえ、大丈夫ですよ。よく訊かれますから」

「あ、私、木村幸(きむらみゆき)と言います。この子は健斗(けんと)で、去年の四月生まれです」

「私は小林楓子です。この子は桜子と言います。うちは五月生まれなので健斗くんと同じ学年になりますね。お家は近くですか?」

「はい。私たちの家はあちらへ歩いて三分ほどの所です」

「あっ、それなら小学校は一緒ですね。私たちの家はこっちへ五分ですから」

「あら、そうなんですか。もしかしたらクラスが一緒になるかもしれませんね。――ねえ桜子ちゃん、健斗と仲良くしてね」

 幸が桜子の前にしゃがみ込み、ふわふわの金色の髪を撫でながら優しく微笑んだ。不思議そうに見つめ返す桜子だったが、直後にニコリと笑い返すと、その天使のような笑顔に美幸は心を奪われてしまった。

「うふふふ……桜子ちゃんかぁ。古風な名前が素敵ですね。それにしても本当に可愛らしいわ。将来は美人さんになること間違いなし。うちの健斗も好きになっちゃうかもしれませんねぇ」

「健斗くんも凛々しいですよ。将来はイケメンになるでしょうね」

 と、楓子が返すと、

「いやいや、それはないでしょう」

 と、幸が笑いながら答えた。


 母親二人が雑談をしている間に桜子がカートの中で眠ってしまった。その様子を健斗がじっと見つめていると、それをチラリと眺めて楓子が告げた。

「それでは、そろそろ失礼しようと思います。今日はありがとうございました」

「こちらこそ、ありがとうございました。あの……毎週水曜日の午後にあすなろ公園にいるんですよ。雨が降ったらいませんけど、私のほかにも何人かのママ友が集まっていますので、よろしければ顔を出してみませんか?」

 あすなろ公園は家から歩いて五分のところにある中規模の公園で、桜子の散歩コースにも入っている。砂場やブランコもあるその公園へ行くのはそれほど面倒ではないだろう。

「水曜日の午後にあすなろ公園ですね。わかりました、時間が合えば顔を出してみます」

 答える楓子にニコリと笑って幸が返した。

「はい、ありがとうございます。それではお待ちしていますね」

 こうして二人は、新しい交友のきっかけを持って別れを告げた。


 自宅への帰り道、楓子の心は幸と健斗のことでいっぱいだった。
 楓子は現在四十一歳。幸はおそらく自分より十歳ほど年下だろう。他のママ友たちも幸と同じ年代である可能性が高い。そんな中で自分が後から加わることになれば、果たして話が合うのだろうか。

 しかしそう思ってみたところで、大切なのは桜子のことだ。この子には同年代の友達が一人もいない。まだ生後十ヶ月なのだから、友達という概念を理解していないのは間違いないが、他の子供たちとの交流は彼女にとって貴重な経験になるはずだ。
 桜子にそうした機会を積極的に提供することが大切なのだと楓子は感じた。

 いろいろな事情を考えた末に楓子はあすなろ公園へ行くことを決めた。新しい出会いが待っているかもしれないという期待を胸に、桜子にとってより豊かな子ども時代を築くための一歩を踏み出すことにしたのだった。
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