第70話 いいこと

文字数 3,511文字

「一本! それまで!」

 会場に轟く歓声を審判のかけ声が切り裂いた。
 告げられるまでもなく剛史は勝利を確信していた。なぜなら、音と感触から健斗の骨折に気付いていたからだ。
 今や健斗の顔は苦痛に歪み、一人で立ち上がれそうにない。剛史が手を差し伸べようとしていると、情けはいらぬとばかりにその手を健斗が振り払った。
 異常に気付いた審判が救護係を呼んで応急処置を施そうとしたが、もはや手に負えないとして健斗は近隣の病院へと搬送されて行った。

 いくら幼馴染でも、部外者である桜子に状況は知らされない。一体何がどうなったのか。わけも分からずも立ちすくんでいると、後輩の川村が健斗の容態と搬送先を教えてくれた。
 健斗の母へは顧問の教師から連絡がいっているはず。なので桜子は、表彰式を待たずにそのまま自宅へと帰って行った。


 予定よりも早い桜子の帰宅に、出迎えた楓子が訝しんだ。

「おかえり。――そんな顔してどうしたの? なにかあったの?」

 母親の問いに桜子が涙ながらに答えた。聞いた楓子がすぐに幸の携帯へメッセージを送ったが、なかなか既読にならない。恐らく車の運転中なのだろう。
 今はまだ治療中のはず。すぐに病院へ行っても仕方がないので、幸から返信が来るのを待つことにした。

 健斗は右上腕骨骨折で全治2ヵ月と診断された。
 幸いにも骨の転位のない単純骨折で、単にギプスで固定するだけの治療となったのは良かったものの、利き腕が使えないのでしばらく日常生活に支障がありそうだ。
 怪我の状態から言って即日退院もあり得た。しかし念のために3日間入院することになったので、早速桜子は翌日に見舞いに出かけていった。
 

「すまない……こんな姿になってしまって」

 右腕を覆うギプスがなんとも言えず痛々しいが、健斗は元気そうだった。
 不幸中の幸いというべきか、骨折時に神経や腱を痛めなかったので、ギプスで固定するだけの単純な治療で済んだ。それでも痛みはそれなりにあるらしく、腕を動かす度に眉間に皺が寄る。
 その彼へ桜子が労いの言葉をかけた。

「おめでとう健斗。骨折は災難だったけど、準優勝に変わりはないんだからもっと誇っていいと思うよ。S中柔道部では初の快挙なんだってね。健斗って凄い!」

 青い瞳をキラキラさせて、尊敬の眼差しで桜子が見つめる。眩しすぎるその瞳を直視できずに、健斗は頬を染めて視線を外した。
 病院へ搬送されてから会っていなかった。怪我の箇所以外は元気そうな健斗の様子に、桜子はホッと安堵の息を吐いた。
 
 それから二人はしばらく取り留めのない会話を続けた。普段は無口で仏頂面の健斗も、相手が桜子であればそれなりに喋るし表情も豊かになる。
 それは母親以外では桜子にしか見せないものだ。それだけリラックスしている証拠だった。
 そんな中、健斗がポツリと漏らした。

「俺さ、完敗だったんだ。組んで5秒持たなかった。強いとか弱いとか、もはやそういうことじゃなく、次元の違いを感じたんだよ」
 
 健斗の呟きを黙って聞くだけで、桜子からは何も言わなかった。慰めや励ましが必要ないことは彼自身が一番よく分かっている。
 代わりに桜子はそっと横に腰掛けると、優しく体重を預けて健斗の左肩へ頭を乗せた。シャンプーの香りがふわりと健斗の鼻を(くすぐ)る。
 これまで全く経験のない感情。体の奥底から沸き上がるのを感じた健斗は、己の理性を総動員してそれに耐えた。

 しかし桜子はその苦労に気付かない。健斗の肩に頭をのせたまま、のんびりと話を続けた。

「ううん、そんなことない。健斗は十分に強かったよ。上手く言えないけど、柔道が強いとかそんなんじゃなくて……えぇと、もちろん柔道も強いんだけど……えへへ、ごめん、やっぱり上手く言えないや」
 
「桜子……ありがとう……」

 左肩に伝わる温もりと心地良い重さ。芳しくも甘い香り。人知れず健斗がそれらを堪能していると、桜子がやや畏まった口調で告げた。

「あのね。あの時の怖いあたしのことなんだけど……」

「あ、あぁ……」

 やはりあの話か。健斗はすっかり伸び切っていた鼻の下をもとに戻しながら姿勢を正した。続けて桜子が口を開く。

「あとで説明するって約束したけど……ごめんね。やっぱりここではできないから、健斗が退院してから話すね」

「そうか。いいよ、桜子に任せる。きっと話しづらいことなんだろうな、って思っていたし」 

 やはり軽い話ではないのだな。そう思いつつも、健斗は若干の消化不良を感じていた。しかしここは桜子の意思を尊重すべきだとして、無理に訊こうとはしなかった。
 

 暫し二人の間に沈黙が訪れる。それを振り払うように桜子が別の話題を振った。

「あっ、そうだ! あたし、頑張ったら『いいこと』してあげるって言ったよね?」

 その言葉に健斗の眉がピクリと動く。試合会場でそう言われてからずっと健斗はその『いいこと』とやらが何なのか気になっていた。
 しかし今更である。この体たらくなのだから。

「あぁ言った、確かに言った。でも優勝できなかったからおあずけだな」

「ううん、いいよ。確かに優勝できなかったのは残念だけど、とっても頑張ってくれたから特別ね」

 などと言ったまでは良かったが、そもそも桜子はその「いいこと」とは何なのかを知らなかった。空気を変えようと無理に振った話題だったために、今になって後悔し始めていた。
 桜子の目が泳ぐ。それを見られないように顔を伏せていると、怪訝に思った健人が顔を覗き込んだ。

「桜子? どうした?」

 声をかけられた途端に、まるで稲妻のように桜子へ『いいこと』が降臨してきた。

 そう、これだ! これしかない!

 しかし実行するには健斗の気を逸らさなければならない。
 そう結論へ至った桜子は、突如きょろきょろと周囲を見渡し始める。それを健斗が何事かと見ていると、急に桜子が前を指差して大声を上げた。

「あっ!」
 
「えっ?」

 釣られた健斗が指差す先を見る。すると突然その頬に柔らかい感触が広がって、ふわりと甘い香りが広がった。

 桜子が健斗の左頬にキスしていた。それは唇が軽く触れる程度のものでしかなかったが、そこを通して温かな感触が健斗の全身に広がっていく。
 彼にとってその感覚は初めてのものだった。決して言葉では言い表せられない幸福感と高揚感。それに健斗は溺れそうになる。
 
 数秒の後に唇を離した桜子が、恥ずかしそうに健斗の肩に顔を埋めた。硬直したままの健斗がやっとの思いで視線を動かすと、病室のドアの隙間から覗く母親と目が合った。
 ニヤリと笑う幸。どこか意地の悪そうな笑みとともに、わざらしく大きな音を立てて病室の中に入って来たのだった。

 
 ◆◆◆◆


 松原剛史は鬱々とした感情を持て余していた。
 柔道の試合は優勝したし、因縁の勝負では相手を打ち負かすことができたというのに、どこか消化不良ですっきりしない。
 けれど剛史は理由がわかっている。ただ認めたくないだけだった。

 その理由は桜子の存在に他ならない。
 剛史は健斗よりも背が高くて容姿も整っているうえに柔道だって強いのに、肝心の桜子がまるで興味を示そうとしないのだ。なのに健斗の試合には、まるで自分のことのように一喜一憂する。

 自分に言い寄って来た女子たちを思い返してみると、皆笑顔の裏に何かを隠していたような気がした。
 彼女たちは自分の人間性に惚れたのではなく、松原剛史というブランドに惹かれていたに過ぎない。自分と付き合うことが一種のステータスのようになっていたのだろう。
 だから付き合っても長続きしなかったし、別れる時もあっさりしていた。

 いや、今更あんな奴らなんてどうでもいい。とにかく今はあの少女だ。
 桜子を思い出しただけで胸が高鳴る。健斗に向ける輝くような笑顔を見ていると、心の底からあいつを好きなのが伝わって来た。 

 そして、あの豹変した様子。
 あれほど愛らしい少女に、あそこまで容赦のない罵声を浴びた経験はない。

 思わずキスしたくなるほどの、小さくて柔らかそうな唇から(つむ)がれる罵声。
 清楚で透明感に溢れた天使のような容姿で悪態をつく姿。
 睨まれただけで震えあがりそうになる、鋭く美しい青い瞳。

 なんともミスマッチな姿を思い起こす度に胸が震える。

 小林桜子。
 今までに出会ったことのない不思議な少女。
 思えば思うほど剛史は桜子のことが知りたくなった。

 あの柔らかそうな唇から罵声を浴びせられたい。
 あの愛らしい姿で悪態をついてほしい。
 あの青い瞳で睨まれたい。
 あの真っ白で細く、長い腕で絞められたい。

 今や剛史の頭の中は桜子のことで一杯で、もはや他に何も手につかなくなっていた。
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