第67話 やきもちの顛末

文字数 4,799文字

 健斗の祖母、昌枝(まさえ)は病に()せっていた。
 現在73歳。さほど高齢ではないが、2年ほど前から認知症を患って日常生活にも支障が出始めている。くわえて最近では心臓の病気も見つかり、自宅で寝たり起きたりを繰り返す毎日。

 昌枝は長女の(みゆき)と、その息子である孫の健斗と3人で暮らしている。子は娘が2人、息子が1人いるが、次女は遠くに嫁いでいて年に一度会うかどうか。そして息子は10年以上前に他界していた。

 昌枝は息子を愛していた。一般的に母親は娘よりも息子を可愛がるとされるが、彼女も例に漏れず息子を溺愛した。
 しかし夫は家の跡継ぎという理由で厳しく息子を躾けようとする。今思い返してみれば、あれは本当に躾けだったのかと疑問に思うほど過酷なものだった。

 夫は典型的な亭主関白であり、当然のように妻へ厳しく当たる。そのため昌枝は常に夫の顔色を窺うようになり、父親に折檻される息子に対して己可愛さのあまり手を差し伸べることができなかった。

 そんな夫ではあるが、娘に対しては優しい父親だった。しかしその落差が余計に息子を追い詰めていく。
 幼い頃は母親に助けを求めた息子だが、年齢を重ねるうちにそれもなくなり、いつしか父親を無言で睨みつけるようになった。そしてその目付きが気に入らないとまた父親が息子を殴るのだ。
 
 幼い頃は懐いていたにもかかわらず、いつしか息子が話しかけてくることはなくなった。もっともそれは仕方のないことである。昌枝は母親として最低限為すべき「子を守る」ことを放棄していたのだから。

 18歳になり、逃げるように息子が家を出ていった。それから10年。昌枝は尽きることのない苦しみに苛まれる。

 昌枝の願いは一つだけだった。
 ただ一言、息子に謝りたかった。
 たとえ許されなかったとしても。

 しかしそれさえも永遠に叶うことはない。
 
 10年ぶりに対面した息子は冷たい肉塊と化していた。
 もはや体は原形を留めておらず、いくら話しかけても返事が返ってくることはない。

 昌枝がひたすら願い続けたたった一言の謝罪。それさえも息子は聞き届けることがなかった。


 ◆◆◆◆


 泣きそうになりながら桜子が二階席へ戻ってくる。するとその後を川村が追って来て言った。

「す、すいません小林先輩。僕がうっかり手を差し出したばっかりに……」

 その言葉を聞いた桜子は、やっと健斗が怒った理由を理解した。同時に自分の鈍感さと無神経さを呪って自分で自分を責めた。

「ううん、あたしが悪いの。健斗には前から男子との距離が近すぎるって言われていたのに。不用意に川村君と手を繋いだりしたから……」

 涙ぐみ、悲しそうな顔の桜子。そんな顔すら美しいと思わず川村は見惚れてしまうが、こんな時に何を考えているのだと己を恥じた。それでも彼は思わざるを得ない。

 これほど優しく、美しい女性(ひと)を悲しませてしまうなんて。
 自分のせいだ。自分が悪いのだ。自分が不用意に手を差し出したりしなければ……

「小林先輩は悪くありません。責められるべきは僕なんです。すいません、木村先輩に説明してきます」

 決死の覚悟でそう言うと、桜子の制止も聞かずに川村は1階の試合会場目指して走り出した。


 健斗は桜子と付き合うようになってから目に見えて嫉妬深くなった。単なる幼馴染でしかなかった頃は他の男子と仲良くしていても何も言わなかったが、ここ最近は見かねて指摘してくる。
 昔から桜子は無自覚に異性との距離が近い。それは彼女の悪癖で、グイグイと必要以上に距離を詰められる男子は戸惑うことも多かった。
 もっともそれは性別を問わず彼女の親しみが現れているだけであり、決して他意はない。しかし男子の中にはそれを好意と勘違いする者も少なくなかった。

 それでも幼い頃は許された。けれど今では思わぬトラブルに発展しかねない。とはいえ身に付いた癖とは厄介なもので、相変わらず異性との距離が近すぎると何度も健斗から指摘されていたのだ。
 学校のアイドルといっても言い過ぎではない桜子である。健斗にしてみれば、異性と親しくしている姿が気になって仕方なく、どうしても口煩くなってしまうのだった。 

 それを知っているがゆえに、川村は自身の無思慮を恥じた。そして健斗へ頭を下げて釈明しようとする。

「すいません木村先輩。小林先輩は悪くありません。この人混みです、案内するときに逸れそうだったので僕の方から手を掴みました。だから小林先輩を責めないであげてください。お願いします」

 決して言い訳せず、真摯に謝罪する川村の姿。それを見た健斗は急に自分が恥ずかしくなった。
 先輩として日頃から厳しく指導しているにもかかわらず、まるで子どものような嫉妬がバレてしまった。それどころか、潔く言い訳の一つもしようとしない川村のほうがよほど大人に見えた。
 恥ずかしさのあまり思わず健斗は顔を隠したくなる。しかし後輩に(なら)って誠実に応えた。

「いや、俺の方こそ悪かった。お前にはとんだ八つ当たりをしてしまったな。俺はあいつのことになると、どうしても冷静でいられなくて……」

 川村にしても健斗の思いは理解できる。あれだけの見た目良し、性格良しの彼女なのだから、他の男に取られるのを恐れるのは当然だ。そりゃあ神経質にだってなるだろう。
 いつも寡黙で怖い先輩だけど意外と人間らしいところもあるのだな、と川村は思った。その彼を前にして健斗がおもむろに身を翻した。

「すまん川村、ちょっと桜子を探してくる。試合までには戻るから、先生には適当に言っておいてくれ」

 言い終わる前に健斗が走り出す。もはやその顔に迷いは見られなかった。


 川村が去り、居た堪れなくなった桜子は、席から立ち上がって連絡通路まで歩いていた。川村が戻るまで席で待つべきなのだろうが、どうしてもその場に留まることが出来なかった。

 自分のせいだと川村は言うが、それは違う。健斗を怒らせたのは自分なのだ。
 にもかかわらず川村が泥を被るのは間違っている。やはりここは自分から釈明すべきだろう。

 とはいえ、もうすぐ試合が始まる健斗に余計なことを考えさせたくない。そう何度も思いとどまっているうちに、気がつけば知らない場所に来ていた。

「ここってどこだろう……」

 重箱のように大きな弁当箱を片手に桜子が周囲を見渡していると、通行人の中から一人が話しかけてきた。

「彼女、どうしたの? 道に迷ったのかい?」

 それは桜子が苦手にしている人種だった。両手指のみならず、頭から顔に至るまでゴテゴテとアクセサリーを身に着けた見るからに軽薄そうな男。お約束のように顔には下卑た笑いが張り付いている。
 経験上、この手の男に捕まると面倒なうえに逃げるのに苦労する。
 どうしようかと桜子が思案していると、断りもなく男にいきなり腕を掴まれた。

「どこに行きたいの? お兄さんが連れて行ってあげるよ」

「だ、大丈夫です。一人でいけますから!」
 
「遠慮すんなよ。なにもしねえって」

 そういう男に限って下心を持っている。それを知っている桜子が無遠慮に腕を振り払おうとしたが、男は一向に手を放そうとしない。
 ここ最近は調子が良かったものの、このままでは男性恐怖症が再発してしまう。
 思わず桜子が恐怖に駆られていると、横から別の声が掛けられた。

「おい、おっさん、手を放せよ。その子嫌がってるじゃん、見てわかんね?」

 桜子とチャラ男が同時に振り向く。そこには不敵な笑みを顔に湛えた柔道着姿の少年が立っていた。チャラ男に向かってその少年が一歩踏み出す。

「とにかく邪魔だよ。消えな」

「な、なんだよてめぇ! ガキはすっこんでろ!」

「なぁ。ここにいるってこたぁ、あんたも試合の応援に来たんだろ? こんなところで悪戯してねぇで、さっさと行った方がいいんじゃねぇのか?」

「あぁ? なんだてめぇ、やんのか?」

 まさにテンプレ。そう言わざるを得ない滑稽すぎるチャラ男が少年へ手を出そうとすると、次の瞬間、床へ転がされた。どうやら足を払われたらしい。
 腰でも打ったのか、床でうめき声を上げるチャラ男を尻目に少年が桜子へ話しかけてきた。

「あんた、S中の木村の彼女だろ? ちょっとこっちへ来てくれないか」

 少年の口から健斗の名が語られる。不安と恐怖に染められていた桜子の顔にパッと安堵の表情が広がった。
 恐らく彼は健斗の知り合いなのだろう。そうでなければ、その名が唐突に出てくるはずがない。
 間違いようのない状況にすっかり安心しきってしまい、桜子は柔道着姿の少年の言われるがままに付いて行ったのだった。


「いやぁ、危なかった。だめじゃないか、一人でうろついちゃ」

「すいません。迂闊でした、気をつけます」

松原剛史(まつばらごうし)だ。見ての通り、今日の試合の出場者でね」

「小林桜子です。重ねてお礼を言います。助けて頂き、ありがとうございました」

「礼はいいよ。ところで桜子ちゃんか。可愛い名前だね。君に良く似合ってる」

 人通りの少ない階段の踊り場で、剛史と桜子は向かい合って自己紹介を始めた。すると剛史は、間近で改めて見た桜子の容姿に圧倒されてしまう。

 顔が小さく頭身の高いスラリとした肢体。
 キメの細かい真っ白な肌と、ふわふわとした白金色(プラチナブロンド)の髪。
 神の仕業としか思えない完璧な造形にもかかわらず、顔全体をあどけない印象にしているたれ目がちな青い瞳。
 全身を完璧なバランスにしている、白く長い手足に豊かな胸とくびれた腰。

 まさに天使。いや、女神か。あまりの透明感に圧倒された剛史は、暫し呆然としてしまうのだった。

 
 実際のところ剛史は女子からとても人気がある。
 それほど背は高くないものの、鍛え上げられた肉体と整った顔立ち、くわえて相手を飽きさせない巧みな話術は女子たちを夢中にさせた。
 さらに言えば中学柔道のトップ選手でもある。強豪高校から推薦の話も来るほどで、女子のみならず、男子からも一目置かれる存在だった。

 とはいえ、今まで幾人もの女子と交際してきたが一人として長続きしなかった。原因は剛史の飽きっぽさによるもの。自分は一人の女に縛られる存在ではない。そう(うそぶ)く。
 端から見るとイラっとするような男だが、実際にモテるのだから仕方がない。それは彼に好意的でない者たちも認めるところだった。

 ヒーローから一転して、舐めるように全身を眺めまわす剛史の視線に桜子が怖気づく。
 すっかり落ち着いたとはいえ、この状況では再び男性恐怖症の発作が起きかねない。
 それでも桜子は勇気を出して、今や懸念と化したことを尋ねてみた。

「あ、あの……松原さん、あなたは健斗の知り合いなんですか?」

 是であればその問いに即答するところだろう。しかし剛史は少し考えるような仕草をした。

「うーん、そうだなぁ……はっきり言うと知り合いじゃない。俺は木村を知っているけど、ヤツは俺のことなんて知らないしな」
 
「えっ? それじゃあ、どうしてあたしを知っていたんですか?」

 桜子の顔に不安と訝しさが浮かぶ。それを見た剛史は顔に一層の笑みを浮かべた。

「いや、さっき試合会場で君たちを見ちゃってさ。ひょっとして彼女なのかなぁって」
 
「あぁ、それで……」

 あぁそうか。あの現場を見られていたなら仕方がない。
 桜子の顔に理解が広がる。その彼女へ剛史が告げた。
 
「なにやら揉めていたようだけど、ひょっとして喧嘩でもしたのかい? 君みたいな可愛い子を悲しませるだなんて、木村も罪な奴だな」

「喧嘩だなんて、そんな……」 

「でさ、君に提案があるんだけど、聞いてくれる?」

「提案……? なんですか?」

 再び桜子が怪訝そうな顔をしたが、構わず剛史が一歩踏み出してくる。次いで周囲に「ドンッ」と大きな音が響くほど強く壁に手をつき耳元で(ささや)いた。

「なぁ桜子ちゃん。悪いことは言わない。木村なんかやめて俺と付き合ってよ。絶対に退屈させないって誓うぜ」
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