第78話 彼の秘密と祖母の独白

文字数 6,156文字

 5月上旬。ゴールデンウィーク。

 連休中の小林酒店は店舗のみの営業で配達業務は休んでいる。そのため桜子は久しぶりに店の手伝いから解放されていたが、病み上がりの父親に店を任せるのは忍びないと、あえて出かけようとはしなかった。
 結局、1日だけ近所へ買い物に出かけただけで、あとは水泳の練習と家事の手伝いをするに留めた。 

 今日は連休の中日。両親から許可をもらって、桜子は健斗の家へ遊びに来ていた。
 いや、「遊び」というのは語弊がある。なぜなら、秀人の依頼で健斗の祖母に会いに来ていたからだ。
 とはいえ、具体的に何をすればいいのかわからない。
 そもそも秀人の説明不足である。会いに行けとは言ったものの、何をすべきかは伝えられておらず、仕方なく桜子は木村家のリビングでお茶を飲むしかなかった。

 もっとも、同席する健斗も状況を理解できていない。昌枝への面会は承知していたが、その理由を尋ねても、桜子は「鈴木さんが会いたいと言っている」としか答えなかったからだ。

 「鈴木」と言えば、桜子が患っている病気――解離性同一性障害――俗にいう「多重人格障害」によって顕在化される第二の人格のことである。
 それは健斗も聞かされていたが、主人格が副人格の要望を聞くというのに理解が及ばなかったし、そもそも二人に意思疎通ができているという事実に驚くしかない。
 
 もちろん健斗の母――幸も承知していた。桜子の目的も理由もよくわからなかったが、何となく釈然としないもやもやが胸の中に残ったまま、特に断る理由がない以上は承知するしかなかった。
 それでも幸は、努めて普段通りに口を開いた。 

「ちょっと待っててね。いま、おばあちゃんを呼んで来るから。今日は調子がよさそうだから、ちゃんとお話ができそうよ」 

 久しぶりの訪問だからだろうか、どうやら桜子は緊張しているらしい。聞こえているのかいないのか、幸が声をかけても反応しなかった。

 桜子は思索にふけっていた。
 昌枝に会うのはいい。しかし何かの拍子に秀人が表に出てきたらどうすればいいのか。それだけは絶対に避けなければならないが、この訪問には何かしらの意味があるはずだ。なにせあの(・・)秀人が敢えて頼み込んできたのだから。

 昌枝は認知症が進行している。だからまともな受け答えができる今のうちに、多少の無理をしてでも会わなければならなかった。

「桜子ちゃん? 大丈夫? どうかしたの?」

「えっ? あ、はい、ごめんなさい。少し考え事をしていて……」

 幸の問いに慌てて反応する桜子。それへ怪訝な表情を返しながら、幸は母親を呼びに行った。



 幸に手を引かれて昌枝がやって来た。
 普段の昌枝は自室で休んでいることが多いが、どうやら今日は調子がいいらしい。リビングにたたずむ桜子を見て表情を和らげた。

 「おやおや、桜子ちゃん。いらっしゃい。相変わらずのべっぴんさんだねぇ」 

 もとよりしわの多い顔にさらしわを深めて昌枝が満面の笑みで出迎えた。
 74歳の昌枝は桜子の祖母である絹江よりも10歳近く若い。けれど病気と化粧気のなさで実年齢以上に老け込んで見えた。
 その彼女へ桜子が返事を返した。

「こんにちは、おばあちゃん。お久しぶりです。お元気でしたか?」

「そうだねぇ、あまり元気じゃないかもしれないねぇ。最近はだんだんといろんなことがわからなくなってきたし。けどね、今日は大丈夫だよ。朝から頭がはっきりしているからね」

 微笑みつつ答え、昌枝がソファへ腰を下ろす。その正面に桜子が座り、隣に健斗が座る。そして昌枝の横に幸が座って桜子が口を開くのを待った。
 全員の視線が集中する中、緊張した面持ちの桜子が喋り出す。

「え、えぇと……」

 とりあえず対面に座ったものの、何を話せばいいのかわからない。全員の視線が集中する中で桜子が目線を彷徨わせていると健斗が小さく耳打ちした。

「それで、鈴木さんはばあちゃんに何が訊きたいんだ? なぁ、そこにいるんだろう? 出て来いよ」
  
「……」

 桜子ではなく、その向こうの誰かへ向けて健斗が問いを投げる。すると突然桜子が顔を俯かせてしまう。
 長い髪に覆われて表情を伺うことが出来ない。心配した幸を健斗が手を上げて制止しようとしていると、おもむろに顔を上げて桜子が話し始めた。

「おう、ばばぁに……おばあちゃんに少し訊きたいことがあって」

 今では聞き慣れた、甲高くも可愛らしい声音。それは間違いなく桜子のものだが、明らかに話し方からイントネーションに至るまで全てが異なる。その違和感に思わず幸が声を上げそうになっていると、先回りして昌枝が答えた。

「なんだい? 訊きたいことって。わたしに答えられることならいいけどねぇ」
 
「あのね、おばあちゃんの息子なんだが……なんだけど……その……愛していた?」 

「えっ……? 息子? ……秀人のことかい?」

「唐突にごめんなさい。そう、秀人さんのことなんだけど……愛していた?」


 久しく聞いていなかったその名前。それを聞いた途端に昌枝の顔に苦悶の表情が浮かび始めた。忙しなく瞳が泳ぎ、唇がわななく。横から幸が言葉を挟んできた。

「桜子ちゃん、突然なにを……ねぇ、なにを知りたいの?」

「だから、愛していたのかを知りたいの。秀人さんのことをね」

「ねぇ、あなたいったい――なにを言っているの?」
 
 桜子が話しているのは昌枝である。にもかかわらず、話に水を差してきた幸を桜子がキッと睨みつけた。
 美しく透き通った青い瞳。いつもなら見惚れてしまうそれは、今だけは異様な迫力に満ちていた。そして言い放つ。

「うるせぇな! 幸姉(ゆきね)ぇは黙ってろ! 俺はこいつに訊いてんだ! 横から口を挟むんじゃねぇ!」 

「えっ!?」

「さ、桜子!」

「あっ……!」

 言いながら桜子が自身の口を両手で隠した。
 今さらながらに桜子――いや、秀人は己の軽率な行動を悔いていた。せっかく桜子がお膳立てしてくれたというのに、これではまったくの台無しである。
 それでもなんとか取り繕おうと、努めて口調を真似て言葉を続けた。

「あ、えぇと……ごめんなさい。急に声を荒げてしまって……」

 打って変わって、覇気のない小さな声。そこへ前方から声がかけられる。
 それは苦渋に満ちた、身体の底から絞り出すようなものだった。

「秀人を愛していたかだって……? そんなの当たり前じゃないか、もちろん愛していたさ。腹を痛めて自分で生んだ子なんだ、愛さない理由なんてないだろう?」

 3人の視線が一斉に集まる。しかしそれには気付かず昌枝は続けた。

「わたしはあの子が可愛くて仕方なかった。三人の子の中でも一番だったよ。もちろん女親の贔屓(ひいき)もあるだろう。けれどわたしは秀人を溺愛していたんだ。幼い頃はよく懐いてくれて、それはもう本当に可愛かったもんさ……」

 言いながら昌枝が遠くを見るように昔を思い出す。その直後に苦悶の表情へ変わった。

「父さん……いや、あの人(・・・)が秀人を(しつ)けと称して折檻する度に、わたしは止めに入ったんだ……。でもね、その度にわたしも殴られたんだよ。そして邪魔が入ると、さらにあの子は酷い目に遭っていったんだ……」

 何について語っているのか、幸と秀人にはすぐに分かった。けれど一言も話さず、相槌さえも打とうとしない。そんな二人の前でさらに昌枝が吐露する。

「それでも、わたしは何度も助けようとしたんだ。だけど結局はあの人に逆らえなかった。 だからわたしは……わたしは……いつしか、秀人を助けることを諦めてしまったんだよ!」

 (ほとばし)る感情。同時に昌枝の両目から大粒の涙が溢れ出し、顎から足元に滴り落ちる。決してやり直せない過去へ思いを馳せる両目は、まるで痛みを堪えるように大きく見開かれていた。

「あの子を助けてしまえば、代わりに娘のどちらかが同じ目に遭いそうだった。わたしは酷い母親だ……あれは(しつけ)なんかじゃない、ただの暴力だ! 虐待だよ! でもわたしは怖かった。だからわたしは自分と娘たちのためにあの子を犠牲にしたんだよ!」

「母さん……」

 なにか思い当たる節でもあるのだろうか。見れば幸の顔にも同じような表情が浮かんでいた。しかし気付いているのかいないのか、そんな娘に一瞥さえくれずに昌枝は話し続けた。

「父さんが死んだとき、わたしは心の底からほっとしたもんだ。これですべてが元通りになるってね……。だけどもう手遅れだった。遅すぎたんだよ! あの子は……あの子は変わってしまった!」

「……」

「秀人は変わってしまったんだ。あんなにも無邪気で可愛い子だったのに。あれじゃあまるで別人だよ! うぅぅ、うあぁぁぁー!」 

 最後に一際大きな声を上げた昌枝は、ついにその場で泣き崩れてしまった。しわの深い両目からは止めどなく涙が溢れ、まるで尽きることのない泉のように滾々と流れ出した。

「秀人、ごめん、ごめんよ! 母さんは酷い人間だ! お前を守ってやれなかった……いや、我が身可愛さのあまり、敢えて守ろうとしなかったんだよ! 今さら許してほしいなんて言わない。だけど一言だけでも謝りたかった。 でももう遅すぎる。今じゃ謝ることさえもできないんだよ! わたしは……わたしは……ああああぁぁぁぁぁー」

「か、母さん! もうわかったから、ね。もういいから……」

 母親とともに涙を流していた幸が突然の叫び声に我に返る。母親の背を手で摩って宥める。昌枝の嗚咽も次第に消えていき、最後にその場を静寂が支配した。


「もう疲れたでしょう? さぁ、部屋で休もうね」
 
 力尽き、ぐったりとした昌枝を幸が抱きかかえるように連れていく。それを横目に秀人が健斗へ声をかけた。
 
「すまねぇな、健斗。ありがとうよ。おかげで色々と聞くことができた」

「えっ、あ、いや、俺はなにも……」

 実のところ健斗には昌枝の独白が理解できなかった。しかし自分が訊くことでもないし、必要性も感じられなかったのでそのまま黙るしかない。
 それがわかる秀人はそれ以上なにも言わず、いささか芝居じみた所作でソファに深く腰を掛け直した。

 疲れたように息を吐き、秀人が全身の力を抜く。ややもすれば行儀が悪いと言われかねない緩い姿勢の彼女に健斗が目のやり場に困っていると秀人がニヤリと笑った。

「おい健斗。これからちょっとだけ眠るが、くれぐれも悪戯しようとするなよ」

「す、するわけないだろ!」

 顔を真っ赤に染め、健斗が反射的に言い返す。しかしそれを聞き終えることなく秀人は寝息を立て始めた。

 
 2分後。少女の美貌に健斗が見惚れていると、突然パチリとその瞳が開いた。健斗がぴくりと肩を震わせる。しかしそれには気付くことなく、ぶつぶつと独り言を呟きながら桜子が身体を起こした。

「もう、鈴木さんったら! 無茶苦茶だよ、起きてる時にいきなり入れ替わるなんて!」

「あ、あの……桜子……だよな?」

「え? ……あぁ健斗。ごめんね、びっくりしたよね」

「あ、いや、大丈夫。よかった、桜子に戻ったんだな」

「うん、そう。今のあたしはあたしだよ。健斗ならわかっていると思うけど、さっきのはあたしじゃなくて鈴木さんなんだ。断りもなく突然入れ替わったりして、困っちゃうよね」

「あ、あぁ、たぶん、そんなことだろうと思ったよ。急にキャラが変わったからさ。俺は知っているからいいけど、母さんはびっくりしたと思う」

「そうだよねぇ……おばさん、驚かせちゃったよね。あとで謝っておかなくちゃ。――ところで健斗。さっきのお婆ちゃんとのやり取りなんだけど、あれって鈴木さんの希望通りだったのかなぁ」
 
 なんとも答えようのない質問。健斗が答えあぐねていると幸が戻って来る。顔には不審な表情が浮かび、桜子を見るなり小走りに近づいてきた。
 今さら隠しても仕方ないだろう。そう思った桜子は、自身の病気を説明すると同時に幸へ謝罪した。
 
「そうだったの。ごめんね。私、桜子ちゃんがそんな病気だったなんて知らなかったの。さっきも変な目で見てしまってごめんなさい」
 
「いえ、こちらこそごめんなさい。先に説明すればよかったんだけど……おばあちゃんは大丈夫?」

「えぇ、大丈夫よ。ちょっと興奮しちゃったけど、いまはゆっくり休んでいるから。すぐによくなると思う」

 カミングアウトの驚きですっかり忘れていたが、よくよく考えれば、なぜ桜子がわざわざ訪問してまであの質問をしてきたのかがわからない。
 そもそも彼女は、なぜ秀人の存在を知っているのか。それどころか、家族でなければわかり得ない質問をなぜできたのか。

 尋ねたいことはたくさんある。しかし幸は、敢えて訊かずにそのまま桜子を家に帰したのだった。
 

 小林家への帰り道。健斗が桜子に質問した。

「なぁ桜子。訊いてもいいか?」

「なに?」

「鈴木さんはなぜあんなことを尋ねたんだ?」

「うーん……」

 秘密を隠したまま質問に答えることはできない。思わず桜子は答えに窮してしまった。
 今はまだ事情を話すべきではない。
 答えを探して瞳を宙へ彷徨わせていると、それを拒否と受け取った健斗が拗ねたような声を上げた。

「俺だって馬鹿じゃない。お前になにか事情があるのはわかってる。だけどそれって、俺にも話せないことなのか? 俺じゃ力になれないのか?」

「ううん、違うよ、そうじゃないんだ。――あのね、健斗。鈴木さんと約束していることがあって、今はまだ言えないんだよ。ごめんね。話せる時がきたらちゃんと話すから」

「そっか……」

 それが桜子の病気に関するなら、これ以上踏み込むことは彼女を追い詰めることになる。そう思った健斗は、一言だけそう答えてあとは何も訊かなかった。
 桜子を信じ、彼女自ら話してくれるまで待つと決めた。

 自宅へと向かう帰り道。桜子はずっと秀人のことを考えていた。
 果たして彼は、母親が自分を愛していたのかを訊きたかっただけなのか。
 昌枝の言葉には秀人の壮絶な過去の片鱗が垣間見えた。それと彼が訊きたかったことは関係しているのは間違いないが、その真意がわからない。

 己の思考に沈み込み、横を歩く健斗には見向きもしない。そんな桜子へ健斗が遠慮がちに声をかけた。

「桜子……泣いているのか? 涙が……」

「えっ?」

 言われて自身の頬を触れると、知らぬ間に涙を流している自分がいた。慌ててハンカチで拭ってみても、尽きることなく涙が流れて止まる気配すらない。
 今の桜子に泣く理由などまったくなかった。どうして涙が出るのだろう。泣くほど悲しい出来事があっただろうか。
 その現実に首を捻る桜子は、依然として溢れる涙を拭きながら帰路に就いたのだった。

 
 桜子が帰った後の木村家。人気(ひとけ)のないリビングでひとり幸は考えていた
 桜子の病気は聞かされていなかった。あれほど可愛く性格もよく、頭も良い、まさに非の打ち所のない美少女であるにもかかわらず、難儀な精神疾患を患っていた。
 その現実に胸を痛めつつ幸は思う。

「秀人を愛していたか」
 その質問にはどういう意味があるのだろうか。

 なぜ自分が弟から「幸姉ぇ(ゆきねぇ)」と呼ばれていたことを知っているのか。
 
 ほんの小一時間。されど小一時間。長くもあり短くもあるその時間にあまりに多くの事が起こり過ぎて、幸はいったい何から考えれば良いのかわからなくなっていた。
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