第10話

文字数 3,699文字


      その十

 会長や洋子ちゃんとお近付きになれたこの晩は、そのままカプセル仮眠室で寝てしまってもよかったのだけれど、つぎの日は、例の重要な任務が待っていたので、ぼくはマンションまで歩いて帰ることにした。
 それで、翌朝七時過ぎに目が覚めたぼくは、この界隈の井戸端PTA早朝会議の時間割りが変わったことをネット経由で知ったので、いつもはそのためにさけている七時半から八時半くらいの時間帯に日課のジョギングをこなしてしまうことにしたのだけれど、八キロほど気持ちよく走ったのちに、シャワーを浴びたり遅めの朝飯を食べたりしていると、いよいよ部屋のインターホンが、ピンポーンとさわやかに鳴って、
「おはよう!」
 とだからぼくは約束の時間ぴったりに来た、いずみクンを招き入れた。
「おはようございます。あれ? モーニングなんか着ちゃって、これから結婚式にでも出られるんですか?」
「いや、いちおう講習なんで、正装で臨もうと思ってね」
 ぼくはモーニングを二着、タキシードを一着、それから羽織袴もひとそろい持っているのだ。
「そんなに、お持ちなんですか」
「うん。まあぼくも紳士っていうと、ちょっとあれだけど、大旦那などとも、いわれてるからね」
「でもきのうは、キャンディーTシャツでしたね」
「あれは何年か前に三十枚くらい見栄を張って注文しちゃったのがあってさ、もう半分くらいは着古したんだけどね、でもまだ、おろしてないのもあるから……」
 キャンディーTシャツは例の「キャンディー隊を再結成させる会」経由で購入したのだがそれはともかくとして、モーニングやタキシードなどは、じつは自分であつらえたものでもなんでもなくて、すべて祖父が生前愛用していたものなのであった。
 祖父と現在のぼくとは身長も体重もほとんどおなじで、だからこういう堅苦しいものだけでなく、セーターとかカーディガンなんかも優先的にけっこう譲り受けているのだけれど、イギリス紳士ふうの身だしなみを好んでいた安二郎おじいちゃんは、服以外のたとえば煙草入れとか時計などもたいへん凝っていて、ぼくはたしか“ベンソン”とかいう懐中時計も、小六か中一のときに祖父から直接もらっているのだ。
 いずみクンは紙袋を左手に持っていて、だからぼくはてっきりそこにお洗濯するものがびっしり詰まっているのだろうと早合点していたのだけれど、
「えっ! いただけるんですかァ!」
「つまらないものですけど」
「つまらないものなんて、そんなぁ」
 と受け取ってみると――まあそりゃあそうだよな――紙袋のなかには百貨店の包装紙に包まれた贈り物みたいなものが入っていて、いずみクンはどうもこの贈り物でもって、講習料をぜんぶ納めたことにしたいらしい。まあどっちみち、お金をもらうわけにもいかないけれどね。
 いずみクンのカバンからかんがみて、きょうの洗濯物はかなりすくないと判断した講師は、
「それだけだとお金もったいないから、ウチの洗濯機でやるかい? 初日だし」
 といずみクンに提案したのだが、それをすぐ、
「はい」
 と素直に受け入れたいずみクンは、なにか思い違いでもしているのか、小さくふるえながら靴下を脱ぎだした。
 両方の靴下を脱いで一つにくるくる丸めると、つぎにいずみクンはブラウスのボタンをふるえる手ではずしだしていて、だからぼくはあんなに瞳孔を開いて渇望していたことだったのに逆にあせってしまって、講習の内容を急遽コインランドリー見学に変更したのだけれど、どうやら着ているものを、その場で洗濯しなくてはならないと思っていたらしいいずみクンは、ぼくの説明をもう一度きくと、
「そういうことだったんですか」
 と頬をあからめていて、しかしそれにしても、いずみクンは、これをあんなにいろいろな人が出入りする例のコインランドリーでおこなう意気込みでいたのだろうか。だとしたら、もっと課題の難易度を上げてもいいのかもしれない……。
「なにが『しめしめ』なんですか、舟倉さん」
「いや、とりあえず、お茶にしようか」
「わたし淹れます」
 お茶請けになるようなものでも入っているかなと思って、先ほどいただいた贈り物の箱をいずみクンにことわったのちに開けてみると、なかには、むむ? 小さい土鍋みたいなものとか、やたらに長いフォークみたいなものなどが入っていた。カステラとマシュマロも入っている。
「これは、なんだろう?」
「それは、チョコレートフォンデュのセットなんです」
 キッチンでお湯を沸かしていたいずみクンは、知りませんか、とぼくにきいてくた。
「知らないなぁ。チーズフォンデュっていうのは、知ってるけどね」
「あれのチョコレート編みたいな感じなんですよ」
「なるほどね」
「甘いもの、お嫌いだったかしら」
「甘いものなら、なんでも食べるよ」
 ティーバッグで紅茶を淹れてくれたいずみクンは、ぼくの要望に応えてさっそくこのチョコレートフォンデュをつくってくれて、なんでもいずみクンがいうには、煮立ったチョコレートに果物なんかを軽く浸して食べてもおいしいとのことだったが、
「イチゴはないなぁ。でもバナナは、たしかまだあったはずだぞ」
 と棚を開けると、やっぱりバナナは一本残っていて、そんなわけで、こちらもてきとうな大きさに切ってもらった。
「ありがとう。いただきます。あっ、これは二度浸け禁止になるんだな、ふたりで食べるときは。ね?」
「わたしはかまいませんよ。舟倉さんは、そのほうがうれしいだろうし」
「いや、そんな不謹慎なことはかんがえてないですよ。もうぼくだって、来年四十になる大旦那だからね。あん、そんなにフォークペロペロなめちゃって」
 二度浸けできないことを想定して、かなりたっぷりバナナを煮チョコに浸していたぼくは、バナナのやわらかみとチョコの重さのバランスをあんがい軽視していて、いざ食べるとあいなったさいに、
「あん」
 とフォークからバナナをつるりと落としてしまったのだが、このミスにより、モーニングにちょっとやそっとでは落ちない染みをつくってしまったぼくは、モーニングにこれ以上ダメージをあたえないために、ひとまずキャンディーTシャツにまたぞろ着替えることにして、そういえばむかし、ワンピースの女性に見とれていて、電柱にぶつかったことが二度ほどあったけれども、今回のこれもペロペロに見とれていてのことなので、やはりスケベ中枢にからんだ油断は、永遠の課題ということができるのであろう。
 いずみクンはモーニングについた染みのことを心配していたけれど、ぼくは腕のいいクリーニング店を知っていたので、それほど気にはならなかった。
 このクリーニング屋さんは近年よくみかけるチェーンのやつではなく、モダン商店街にある昔ながらの個人の店で、まあ値段はたしょう張るのだが、安二郎おじいちゃんも店主の腕を信頼していたらしいので、いちおうぼくもたいせつな衣類は、ここに出すことにしている。
 これを食べたら、すぐそのクリーニング屋さんに出したほうがいいんじゃないかしら、といずみクンがいうので、ぼくはこれでコインランドリーを見学したことにしちゃおうと思って、チョコの染みのついたモーニングをクリーニング屋に持っていくことにした。色の白い子の助言は、たいてい素直に受け入れることになっている。
 チョコフォンデュのセットを片づけたのちに玄関を出ると、エレベーターからちょうど八神さんが出てきて、八神さんはすれ違いざまに素早く小指を立てて、
「あたらしい女?」
 というようなゼスチャーを一瞬してきた。
 だからぼくも八神さんに素早く、
「この色の白い子にはかなりグッときているけれど、いまは講師という立場なので表面上はいい人ぶっている。しかし本心としては、まず手を握るのが最初の目標。それから手相をみるという名目で手をペロペロなめて、それから首筋占いだと偽って、うなじを思う存分堪能して、それから帯占いを練習したいとかいって、帯締めさせといて、悪代官みたいにくるくる回して、それから体操占いだと称して、この子にかなりアクロバティックな四つん這いとか、あとこんなすごい体勢とか取らせて、すると、こっちはもうこんなふうにビンビンになっちゃうじゃん。だからまあそれを見せつけてもいいし口頭で伝えてもいいしあの白い手で確認させてもいいしね。で、でね、この子もその気になってくれればね、こんなふうになってるのを見て、その気になってくれればね、オレ毎日走ってて体力的には自信あるからさぁ、まあ人並み以上には爆発すると思うんですよ。ん? ああ、三回は楽勝ですよ。たぶん四回までは大丈夫ですね」
 というゼスチャーを送っていて、ちなみにこちらのほうは、いずみクンにうしろから耳を小刻みに二度ほど引っ張られるまで送りつづけてしまったのであるが、それでもいずみクンは、
「わたし、こんなビンビンの帯しめて歩くんですか? なんだか緊張してきちゃった」
 とエレベーターのなかでお腹あたりを撫でていて、やはり先のゼスチャーは、そうはいっても、完全には解読されていなかったのである。
 しめしめ。
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