第32話

文字数 3,540文字

      その三十二

 赤ネクタイの三原氏は、お昼ちかくまで今度は菊池さんの魅力について熱く論じていたので、ぼくは栗塚氏に会いに行くのは見送ることにした。
 午後は洋子ちゃんにお色気関連の指導をすることになっている。
 大将はぼくがいずみクンを助手として使っていることを知っていて、
「その麦川さんをおまえンとこに導いたの、誰だと思ってんの」
 とあいさつに来ないぼくを大げさに非難していたが、それでももよりのバス停で別れるとき、さっきのデラックス幕の内弁当の立て替え分を、
「これ、お金の代わり」
 と自転車にまたがろうとしていたぼくに手渡してきて、なんでも大将は来年リニューアルされる〈三途の川〉の宴会ホールの総監督に就任するらしい。
「フリーパスか……食べ物はべつですよね」
「べつだよぉ。だけどショーは見放題」
 おそらくヤクルトレディーの菊池さんにたいして想いをめぐらせまくっていたからだろうけれど、ぼくは大将にのりタル弁当を半分ちかく食べられてしまっていて、だからまだいまひとつ満腹中枢はみたされていなかった。そんなわけで、午後の強化訓練に備えて菓子パンを食べておくことにする。てきとうに入ったスーパーに、ちょうどあんパンのおつとめ品があったしね。
 菓子パンを食べるさいのお飲み物はたいてい牛乳で、今回ぼくは一リットルのやつを買ったのだが、これは一リットルパックの成分無調整のやつが百四十八円なのに五〇〇ミリリットルのやつは低脂肪のやつでも百二十六円で、だったらプラス二十二円で倍飲んだほうが悔いが残らないなと判断したのとあんパンのほかにじつはメロンパンも買っていたので、メロンパンのほうはベンチですぐ食べちゃうかは決めていなかったけれども、もし食べちゃうことになった場合、メロンパンはパサパサしているし、すでにあんパンをたいらげたあとだと甘の連投だけに終盤つらくなってくる可能性もあったので、パサパサにカウンターを合わせられるお飲み物を充実させておいたほうが、なにかと心強いとかんがえたからである。
 スーパーのベンチには先客がいて、この翁はお惣菜コーナーより厳選したと思われる鳥ゴボウのピリ辛煮とおからを食べていたが、ぼくがあんパンを食べ終えてメロンパンに着手したころにあらわれた眉毛のない女は、いわゆるタトゥーの入ったスネのあたりをボリボリ掻きむしりながら、ぷかぷかタバコを吸っていて、ぼくが「禁煙」と書いてあるテーブル上の立て札をこれ見よがしに裏返したり光にかざしたりしていると、そのうち女は、
「フン、谷村新司かよ」
 という捨て台詞をのこして、どこかへ去って行った。
 別れた妻はぼくが飴玉をなめていると、
「ペチャペチャうるさいなぁ。おじいちゃんみたい」
 と決まって苦情をいってきたが、たしかにぼくは、たとえば湯船に浸かるときでも、
「あああああああ」
 とつい年寄りのように唸ってしまいがちで、ちなみになにかを飲んだときに発するあの、
「あああああああ」
 も、ぼくの場合は良識ある市民にはとうていかんがえられないような音量になっているらしい。
 だから眉なし女は、ぼくのその飲みッぷりにたいして、きっと先のような捨て台詞をはいたのだ。
「冬の稲妻」のときの「ああああああ」は、ぼくのそれに通ずるものがある。冬の稲妻にかぎらず谷村新司はなにかにつけ官能的なため息をついているイメージだけれどね。
「あああああああ」
 ぼくはマンションの手前で最後の信号待ちをしているときにまたこのように唸っていて、というのは洋子ちゃんが今後取り入れていくお色気問題を道々かんがえているなかで、まるで稲妻に打たれたように谷村新司氏のあの偉業を“あああああああ”と思いだしたからなのだけれど、午後の二時ちょっと前に、
「おじゃまします」
 と部屋にあがってきた洋子ちゃんにさっそくこの偉業のルーティンを説明すると、さすがに洋子ちゃんは、
「でも、胸元に手を入れる、というのは変更してほしいです」
 ときっぱり断ってきて、これにはぼくも、
「わかりました」
 といっさい反論はしなかったのだった。引くときは引く、サセレシア、である。
 洋子ちゃんは自分自身でもセクシー関連のアイデアをいくつかかんがえてきていて、それらのアイデアは例の「ノーパンを生きる」を読んだことによって奇跡的に発想できたそうだが、なるほどたしかにノーパンでうたうというのは、観ている人間の想像力を刺激して、それだけでもじゅうぶん官能的だろうけれど、いくらなんでもノーパンであることをそのつど証明するわけにもいかないから、
「ほんとうにノーパンでうたってることを、お客様に納得させなくちゃいけないでしょ。それがどうしたらいいか、わからないんです」
 というところで洋子ちゃんは悩んでいるみたいであった。
「ノーパンって、なんとなくわかるもんなんですか?」
「たぶんわかると思うよ」
「じゃあ、いまわたし、ノーパンだと思いますか?」
「あはははは、さすがにいまはちがうでしょ。表情でわかるよ」
「不正解。いま現在もノーパンです」
「うそだぁ」
「ホントよ」
「ノーパンだったら、そんなに落ち着いてないよ」
「ホントだもん。ほら」
「あっ。いまなんか一瞬……」
 洋子ちゃんはスマイリイの著書を手にしたあのときからずっとノーパンでおられるらしく、もしかしたらそれでノーパンという状態が生活になじんでしまって表情なんかにもノーパンの相(?)が、いまいちあらわれなくなっているのかもしれなかったが、ぼくがもう一度ノーパンであるか否かを確かめたいと切望すると、洋子ちゃんの目の動きは急に不安定になって、あっ、やっぱりホントにノーパンなんだ、と夢みれるような雰囲気をじわじわかもしだしていて、洋子ちゃんはさっき胸元に手をすべりこませるのは変更してほしいとこちらに陳情してきたけれど、スカートに手をすべりこませるのだったらノーパンであることの雰囲気をたぶんより出せるし拒否権は一回だけしか使えないからこれはもう決定なわけで、じっさい洋子ちゃんは稽古をはじめてみると歌のサビの部分で現在ノーパンであることの一種の後光を最大限に放出していたのだった。
「そんなに執拗に確認されると、うたえなくなっちゃいます」
「ちゃんと鏡を見なさい。さあもう一度最初からうたってみよう」
 谷村新司の例の偉業を手本とかんがえているぼくは、曲の序盤においてはもちろん洋子ちゃんとのあいだに微妙な距離を取っていたのだが、しかしこの「花嫁はリヤカーに乗って」という曲はそもそもデュエットソングではなかったので、後方にさりげなく素敵にまわったあとは、なにげに手持ち無沙汰という趣になってしまっていたのだった。
 だから洋子ちゃんの陳情は表面上は聞き入れてはいたのだけれどもノーパンのほうを執拗に確認されて洋子ちゃんは立っているのもやっと、という隙にぼくは胸元のほうにも同時に手をすべりこませていて、これは「手持ち無沙汰だから」という立派な理由があったのでかなりアグレッシブについおこなってしまっていたわけなのだが、ところで、このような妄想の最中、二番以降を発禁確実の歌詞に勝手に変えて熱唱していた洋子ちゃんは猛特訓後のささやかなお三時のさいにゆうべ会食する予定だった会長にかんしてちょっと気になることをいっていて、なんでも会長は、急遽新キャン連の元幹部のお通夜に参列することになったために、洋子ちゃんとの約束を、電話でキャンセルしてきたらしい。
「新キャン連の昔の仲間とまだ交流があったんだね」
 洋子ちゃんはつぎの話を元同僚の早川さんにきいたらしいのだが、それによると会長は八〇年代の後半くらいまではまだ新キャン連の仲間たちと付き合いがあったようなのだけれども幹部の誰かが解散に反対して分派した連中とそろそろ和解しようといいだし、それが賛成多数で可決されると、
「おれたちは、平凡パンチに水着姿を載せない平凡な女の子にもどりたいっていうお三方の希望を尊重したんじゃなかったのか?」
 と信念をとおして離党されてしまったのだそうで、ちなみに会長がキャンディー隊にいれあげていた当時、社長のほうはキャンディー隊にはまったく無関心で、ひたすらなんとかという日活の女優を応援していたらしいから社長のほうも新キャン連との付き合いはやはりないわけなのだが、それでも一度だけ、社長は会長にたのまれて、ある幹部に現金の入った封筒を手渡しに行ったことはあるみたいで、なんでもそのお金は、行方不明になっている旧友を捜すためだか助けるためだかに使われたらしい。
「また、ぶつぶついってる……」
「おれ何か、ひとり言いってた?」
「うん。後光がテカテカとか、いってましたよ」

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