第12話

文字数 3,657文字


      その十二

 元気くんがからんでいるほうの裏奉仕は、想像以上にむずかしかった。まったく歯が立たないという感じだ。
 無論それなりに収穫はあったともいえる。とりあえず面識を持ったし、携帯の番号も交換し合ったし、恩もいちおう売ることができたからである。
「義理人情に厚い方ですもの。そのうち折れてくれるんじゃないかしら」
「だけど不器用だからな……融通がきかないじゃん」
「そうですねぇ」
 ぼくは元気くんに、
「きょう車だから送ってくよ」
 といってみたのだが、かれの午後の予定は「界隈をさすらう」ということになっているらしく、
「じゃあ自分は、これで」
 とけっきょく〈がぶりえるバーガー〉のほうの代金は払わずに帰っていった。まあおごってもらうよりおごっておいたほうが、こちらとしては、のちのちプラスかもしれないけれどね。
 いずみクンは、裏奉仕の仕事を手伝いたいと車のなかでとつぜんいってきて、
「こんなの、面倒なことを押し付けられてるだけだよ」
 とこれまでの裏奉仕を否定的に話しても、それらをすべてまるで偉大な功績のように捉えていて、ぜんぜんぶれなかったのだが、とはいえ、先ほどのクリーニング屋での適切な補足からかんがみても、いずみクンはたしかに優秀な助手として、われわれの力になってくれるかもしれなくて、
「お願いします。わたし、こういうことを手伝ってるうちに、恥ずかしがりやさんとか、あがり症とか、そういう短所を克服できるような気がするんです」
「じゃあ、ぼくのほうの講習は?」
「それも、もちろん受けます。アクロバティックな体勢でビンビンを確認するのも、恥ずかしいけど、がんばります」
「四つん這いは?」
「四つん這いにもなります。だからどうか助手にしてください」
 とまあそこまでいうのなら、断る理由もないのかもしれない。
 昨年の裏奉仕のさい、ぼくはとくにれい子先生に申告などはせずに加代さんに千羽鶴を折るのを手伝ってもらっていたからたぶんいずみクンのこともこのまま届けを出さなくても問題はないだろうけれど、しかし助手となると、裏奉仕の内容もある程度把握してもらわないといけないし、それに場合によっては報酬のほうも出してもらえるかもしれなかったので、いちおうれい子先生には申請を出しておいたほうがいいだろう。
 加代さんは三時過ぎから車を使うかもしれないといっていたので、ぼくはいったんマンションにもどることにした。駐車場に車を停めて、運転手側だけ日よけカバーを下ろしておけば「きょうは乗りません」という旨を伝えたことになる。
「カギは?」
「カギはお互い持ってる。こっちのは電動のやつじゃないけどね」
 れい子先生は電話にまったく出ないわけではないけれど、顧客ですらまずは山城さんに電話を入れるくらいなので、用があるときは、家にたずねてしまったほうが、けっきょくはいちばん手っ取り早いのだが、いずみクンが心配していた身元うんぬんのほうは、じつはたいしたことではなくて、要はれい子先生が顧客たちに予言だか助言だか占ったりだかしたことが本当っぽくなればいいのだ。もちろん知らない人に裏奉仕のことを気安くしゃべったりなどは、なるべくしないほうがいいけれどね。
 いずみクンは身だしなみのことも気にしていたが、こちらもまったく心配ない。れい子先生にとっては、他人の着ているものなんてどうでもいいのだ。
 だからぼくもこのままキャンディーTシャツに二十年ちかくはいているジーパンという格好でお邪魔するつもりでいるし、いずみクンなんかきょうは清楚なブラウスを着ていて、ぼくにいわせればもう完璧である。
 れい子先生のお宅までは、バスと電車を乗り継いで行く。れい子先生と加代さんに薦められた関係で、ぼくはパスモとスイカの両方のカードを持っている。このあいだ補充したやつがまだけっこう残っているはずだから、いずみクンのも出してあげちゃおうかな。
 駅まで向かうバスを待っているときにチャージしたほうのカードをみせると、
「わたしもパスモ持ってます」
 といずみクンもお財布からカードを出してきて、ちなみにぼくが最初にみせてしまったカードは〈秘密クラブ〉の会員証だったので、
「どういうところなんですか?」
「間違えた。返してくれ、いずみクン。それはちがうのだよ。誤解なのだよ」
 とかなり上役は取り乱してしまったのだけれど、しかしこの〈秘密クラブ〉には、山城さんの付き合いで、ほんとうに数回しか行ったことはなくて、しかもほんとうにここは、いわゆるあっち方面とは無縁な、一種独特の会員制の居酒屋なのである。
「ホントなんだよ。ウソじゃないよ。いつか連れてってあげるよ」
「ぜったいに?」
「そのうちにね」
 電車に乗っているあいだもぼくはいずみクンに〈秘密クラブ〉にかんすることで、
「じゃあアクロバティックなポーズは?」
「記憶にございませんが、すこしそういうテイストはあったかもしれません」
 と激しく追及されていたのだが、まあそれはともかくとして、やがてれい子先生宅に到着して、例によってインターホンを押すと、先生の身の回りの世話をしているいわゆる“ばあや”が、
「はい」
 とすぐ応答してくれて、備え付けのカメラでおそらく確認できているだろうが、それでもいちおう取り決めてある合い言葉みたいなのを真面目に発すると、ばあやは、ぼくたちに裏門から入るようにと指示してきた。
「ごめんなさいね、舟倉さん。いま顧客さんが、いらっしゃってるものですから」
「出直したほうがいいですかね?」
「でも、もうすこしで終わると思うから」
 れい子先生は、ぬいぐるみをおそろしいほど持っているのだが、裏口のあがりかまちにも案の定ぼくより大きい“食パンマン”が、直立不動の姿勢で立っていた。
「こんな大きいのあるんですね」
「いま、どかしますね。舟倉さん、ちょっとそっち」
「あっ、はい」
 ぼくといっしょに“巨大食パンマン”をわきにどかしたばあやは、この邸宅に住み込んでいる。たぶんばあやがいなかったら、れい子先生はコーヒーを淹れることも風呂に入ることも、まごまごしてしまうだろう。
 しかしそんなばあやでも顧客の話をそばで聴くことは許されていないから、顧客の話を拝聴するときは、かならず着ぐるみのなかに入ることになっているのだけれど、今回ぼくがお借りした着ぐるみは、前回とおなじくなんか変なトラみたいなやつで、このトラの着ぐるみは、匍匐前身しやすいつくりになっているので、顧客のかなりそばまで接近することができるのだ。
「お嬢さんはどれにいたしますか?」
「わたしも、よろしいんですか?」
「もちろん。舟倉さんのお友だちですもの」
「どれがいいのかしら」
「このキティーちゃんのなんか、よろしいんじゃない」
「目立ちませんか?」
「大丈夫。なにしろこの家は、ぬいぐるみだらけですから。こんなの一体や二体増えたって、誰も気づきませんよ」
 れい子先生がいつも顧客の悩みを聞くときに使っている客間におのおの着ぐるみ姿で入っていくと、「クス、クスクスクスクス」という笑い声の感じからしてけっこう年配の男性が、まるで母にすがるように先生に悩みを打ち明けていたのだが、その後匍匐前身でさらにちかづいてお話をよく盗み聞きしてみると、この人はまずまちがいなく、たしか「長寿マシーン」とかいう欠陥健康器具の回収に苦戦している例の社長で、れい子先生に励まされた社長は、自分でも神経質だということを自覚しているようだったけれど、しかしそれでもじっさいに残り一台を回収するまでは、やはり不安からは解消されないみたいだった。
「お菓子を毎日食べるのです。そうすれば、かならずこの問題は良い方向に向かいます」
「わけありピーチパイはお菓子ですか?」
 お菓子に認定された、わけありピーチパイの賞味期限を今度は心配していた社長だったが、携帯が鳴ると、
「あっ、会長からだ……」
 とつぶやいて、れい子先生にすぐお暇を告げた。たしかに“会長”とつぶやいていた。
 社長が出て行っても、しばらくはトラのままで這いつくばっていたのだが、ばあやが、
「帰りましたよ」
 とぼくの背中を叩いてくれたので、れい子先生にバレないように気をつけながら、いったんこの客間から出た。
「ふー。暑い」
 いずみクンはもう着ぐるみを脱いでいて、ばあやに手渡されたタオルで汗を拭いていた。
「キティーちゃんのほうは、どこにいたの?」
「わたし最初は顧客さんのうしろ側にいたんですけど、途中から正面のほうに移動しました。わからなかったですか?」
「わからなかったな。ほら、こっちは這いつくばってたし、それに話をよく聴こうと思って、ギリギリまで接近してたじゃん。だから顧客のスリッパしか見えなかったんだよ」
「そうだったんですか。わたし、れい子先生のスカートのなかをのぞいてるんだろうなぁって、思ってました」
「ひどいなぁ」
「だって〈秘密クラブ〉の会員さんだもん」
「だからそれはね、ちがうのだ、ちがうのだよ、いずみクン」
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