第16話

文字数 4,257文字


      その十六

 八神さんとの約束は、
「じゃあ、あしたの午後五時半に〈三途の川〉の前で待ち合わせね」
「わかりました」
 ということにあいなって、部屋の前ではなく〈三途の川〉の前で待ち合わせということは、八神さんはおそらくあしたは仕事が入っているのだろうが、きょうはお休みだから、これからさおりさんちに行きましょうよ、という八神さんの最初の提案に、
「きょうはダメなんですよ」
 と即答したのは、じつはこれから洋子ちゃんのミニコンサートを観に行くからで、きのう例によって、お三時のクッキーをたのしんでいると、
「時間があったら、ぜひ観に来てください」
 というようなメールを、洋子ちゃんはこちらに送ってきたのである。
「なんといっても、ハートマーク付きだからな。うしし、うしし」
 洋子ちゃんのミニコンサートは先日山城さんに付き合わされた〈うなぎの寝床〉でおこなわれるようで、やはり新人というのは、あのキャンディー隊でさえ、スーパーだかディスカウントショップだかの駐車場でうたっていたくらいだから、最初はずいぶん厳しい活動を強いられるものらしいが、しかしかんがえようによっては、あの店は防音のほうはしっかりしているし、密室だからお買い物客の冷やかな視線を受けることもないわけで、さらに湿地線にもちこんで、ほかのお客が全員帰ってしまえば、ぼくと対面する趣になって、ミニコンサート中なのに、おしゃべりしちゃうこともできるだろうし、そのおしゃべりの盛りあがり様によっては、そのままデュエットに移行して、谷村新司みたいにさりげなく、だが強固に、洋子ちゃんの胸元に手を入れることも可能であるはずなのだ(先の「うしし、うしし」には、そういう想いも含まれている)。
 部屋にもどったのちにネットで検索してみると、動画投稿サイトに谷村新司の偉業は、やはりアップされていた。さすがに本家本元は、胸元に手をすべりこませるタイミングが絶妙である。匠の技とは、こういうことを指すのだろう。
 匠はいきなり胸元に手を入れたりしない。むしろ相手方の小川知子とのあいだに微妙な距離さえ置いている。
「油断させているのかなぁ?」
 無論、匠の表情からは早く胸にさわりたい、という感情が読み取れる。ため息のようなものもついているようにみえる。が、そんな匠は、いつのまにか小川知子の手を握っていて、さらに驚くべきことに、最初は相手方と微妙な距離を置いていたのに、ふと気がつくと、すでにバックにまわってもいたのだけれど、なるほど、このポジションを取ってしまえば、あとは相手方が熱唱する段階に入ったときに、ただうしろから手をするするっと伸ばしていけばいいわけで、小川知子はこんな大胆なことをされているにもかかわらず、カメラ目線で『忘れていいの ~愛の幕切れ~』を、立派にうたい上げていた。
 つまり重要なことはポジショニングなのであった。しめしめ。
 ぼくはこのあと、三十分くらいバックを取る練習をしていて、もしかしたら、ぼく程度の技術だと、最初のしらばっくれるための距離を逆にひろく取りすぎて、いざ後方にまわろうとしたときに、動きが大きすぎて、相手方にこちらのたくらみを悟られてしまうかもしれなかったけれど、しかしこの孤独な探求は、姉の電話により、いったん棚上げされることになってしまって、まあ栗塚氏にからんだことなら、仕方あるまい。
「ねえホントにたまきが、ウチに泊まっていいって、いったの?」
「ごめんごめん。つい勢いでさ。お金はあとで、なんとかするから」
「ちがうちがう。逆に感謝してるのよ。だって、栗塚さんが気づいてくれなかったら、もう老舗旅館だなんていってられないくらい、大きな傷がつくところだったんだもの」
 姉の話によると、栗塚氏は二日ほど前から姉の嫁ぎ先の例の老舗旅館に泊まっているらしく、なんだか栗塚氏は、全国行脚といいつつ、ほとんどこの界隈ばかりを放浪しているようだったが、栗塚氏よりも一日早く旅館に泊まっていた、ある会社の社長さんは、食事のときと、旅館にたずねてくる来客を招き入れるとき以外は、ひたすら部屋にこもっていたみたいで、で、なにか胸騒ぎをおぼえた、となりの部屋の栗塚氏は、襖をすこし開けて、社長の様子をうかがってみた。
「その社長っていう人、だいたい、いくつくらいなの?」
「六十前後って、ところかしら」
 推定年齢六十歳前後の社長は、布団に横になったまま痙攣していて、それを呆然とながめていた裸の女性は、襖越しの栗塚氏に気づくと、
「わたし、これからまだ用事があるんで、あと、よろしく」
 と社長を栗塚氏に押し付けて、さっさと旅館を出て行ってしまった。
 それで栗塚氏は仕方なく社長の看病をしたのだが、和室のいたるところに散らかっていたゼツリン青汁のパッケージや文机の上に置かれていた手紙からかんがみるに、社長はある悩みから自殺を図ろうとしていたようで、なんでもこの社長は、どうせ死ぬなら腹上死で昇天したいと思っていたらしい。
「泊まっているあいだに五六人、来客があったんだけど、みんな大きなマスクをして、サングラスをかけてたの」
「全員女のひと?」
「うん女のひと。それで全員、派手な服を着てたわ」
「そういうことか……」
 栗塚氏は社長の悩みを辛抱強くきいてあげた。すると社長もだんだん元気が出てきて、昇天のほうは、いちおう思いとどまってくれたらしい。
 社長は今晩もう一泊して、あした帰る予定とのことだ。
 ぼくの直感では、この社長は長寿マシーンの回収に悩んでいる例の社長だ。
 しかしここでぼくがあせって行動すると、もしかしたら、れい子先生の助言とのバランスというか、辻褄が合わなくなる可能性も出てくる。過去にそういう失敗もあった。
 その過去の失敗から学んだことは、こういうときには、この社長が本当にあの社長か、まず確認してみる、ということである。が、よくよくかんがえてみると、ぼくは社長の声はきいたことがあるけれども顔をきちんと見たことはなかった。だってあのときは、虎の着ぐるみを着て、這いつくばってたんだもん。
 アシスタントのいずみクンに電話してみると、あのとき“キティーちゃん”だった娘さんは、
「おぼえてます」
 ときちんと社長の容姿を脳裏に焼き付けてくれていた。いまから出られるかい、ときくと、助手はすぐ行きます、とこたえてくれた。
 社長のほうは栗塚氏がいれば安心だとぼくはかんがえていたので、いずみクンといっしょに確認だけしたら、そのあとは洋子ちゃんのミニコンサートに向かおうと、このときはまだ思っていた。しかしさっきまでお茶を飲んでいた八神さんが、またもどってきて、
「さおりさんに電話してみたら、あしたはご主人さんのちょうど命日で、都合わるいんですって」
「命日って、なにするんだろ?」
「ご主人さんがあの世からこの世に降りてきて、さおりさんと交わるんですって」
「なんだかみんな、あの世に行ったりこの世に行ったりって感じだな……」
「ん?」
「あっ、いや、こっちの話。それで?」
「なんかね、ふっきれてる感じだったの。ご主人の命日に自分も……なんて、かんがえてるんじゃないかと思って」
「ふむふむ」
「わたし、悔いを残したくないの。ねえ、きょう、どうしても都合つかないの?」
「まあ胸元への匠の技のほうは命にかかわることじゃないし……優先順位をつけると、八神さんのほうを、やっぱり受けるべきかもしれないな」
「ありがとう。舟倉さん大好き」
 と抱きつかれてしまったので、洋子ちゃんには「きょうは大事な仕事があるので、ミニコンサートに行けません」という旨のメールを送らざるを得なかったのである。抱きつかれたときの感触は、匠の偉業から得られるものとかなり似ていたからこそ、迷わず送信できたのかもしれないけれどね。
 いずみクンは三十分ほどで、こちらのマンションに到着した。バスの接続がうまくいったと彼女は首筋の汗を拭いていた。
 さっそく、
「さっきはいっしょに姉の嫁ぎ先の旅館に偵察に行くって、いったけど、ぼくはほかの用事があるから、ひとりで確認してほしいんだ」
 といずみクンに事情を説明すると、すぐアシスタント女史は、
「そうなんですか。わかりました」
 とその旨を了承してくれたのだが、さおりさんのほうは、いずみクンを旅館まで送ってからでもじゅうぶん間に合うので、まずは八神さんの車に同乗して、姉の嫁ぎ先に向かうことにする(八神さんといずみクンがあいさつを交わしている最中にぼくがいずみクンのためにおしぼりをつくってきてあげると、いずみクンは「こんなところで丸出し状態で拭くことなんて、まだできません」と、こちらの耳たぶを引っ張ってきた)。
 車のなかから姉に電話して、いずみクンのことを説明すると、
「たまきのやってることは、いつも意味がわかんないけど、とにかくその子をもてなせばいいのね」
 と姉はすぐ請け負ってくれたが、姉に替わって電話に出た栗塚氏は、
「いまの会話、おねえさまの後方にぴったりくっついて聞かせてもらいました。しかし現段階では社長が、なにを思い悩んでいるのかは、わかっていません」
 とその後の経過を自主的に報告してきて、ちなみに萩原さんにも、栗塚氏はまだ会ってはいないらしい。
「ただ何度も何度も『会長には今回のことは内緒にしておいてください』といっているのです。これだけ会長のことを気にしている社長というのも、めずらしいはずです。そのあたりのことを手がかりにしていけば、あるいは道は開けるかもしれません」
「栗塚さん、詳しいことはいえないのですが、その社長が誰なのかは、おおよそ見当がついているんですよ。ですから、いまから派遣する女の子に、まず同一人物かどうか確認してもらって、で、じっさいそうならば、ぼくは、またはったりを決めちゃうつもりなんです。栗塚さん、何年か前、会報に書いてましたよね。追記みたいな感じで」
「『はったりを決めれば、現実はあとからついてくる。サセレシア』というやつですね。これはあんがい効果があります。じつは舟倉さんと交わした萩原さん関連の約束も、これに属しているのです」
「じゃあ全国行脚も、はったりなんですか?」
「ちがいます。わたしはこの界隈をうろうろしているだけのようにみえるかもしれませんが、ときどきちがう空間にもおもむいているのです」
 二階の廊下から子どものいない若夫婦が、あれはUFOだとか円盤だとかといって、イチャイチャしている声がきこえた。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み