第15話
文字数 3,698文字
その十五
元気くんにはったりを決めた先の晩以降は、梅雨の中休みも終わって、また降ったりやんだりのじめじめした日がつづいたのだけれど、ひさしぶりにカラッと晴れた火曜日に、
「きょうはお肉のサービスデーだわ、ワーオ」
と近所のスーパーに買い出しに行くと、となりの八神さんと調味料コーナー付近でばったり会って、八神さんは、ぼくをみるなり、
「あっ、ちょうどよかった」
と腕に寄り添ってきた。
「ねえ、お願いしたいことがあるのよ」
「いいですよ」
ぼくは八神さんからの陳情は、これまですべて受けている。スーパーでいきなりお願いされても、ぜんぜんビクともしない。というか、もうまごまごしたって、仕様がないのである。
八神さんは立ち話もなんだから、どこかでお茶でも飲みましょう、と提案してきた。このスーパーには、出入り口のかどに謎のドーナッツショップが入っている。
お昼を食べたばかりだったので、ぼくはお茶請けのドーナッツを一つだけにしておいた。八神さんは三つもお皿に乗せていた。
「今回もスポーツクラブの会員さんなんだけど……」
「またお年寄りを助けるんですか?」
「今度の人はけっこう若いのよ。四十二か三。すごくきれいな人。ちょっと痩せてるから、舟倉さんの好みじゃないかもしれないけれど」
「四十二三ということだと、ぼくとたいして変わらないですね」
「そうなのよ。だからこそ、若さを取り戻して、元気になってほしいの」
「その人も兵隊がいるって、いってるんですか?」
「ちがうちがう。いまから話すわ」
八神さんがまたぞろお節介を焼こうとしているのは“さおりさん”とおっしゃる方にたいしてで、この方はなんでも、もうずいぶん長いこと、喪に服していらっしゃるらしい。
さおりさんは若いころに歳の離れた男性と結婚してすぐ未亡人になった。二十一歳で結婚してやはり二十一で未亡人になったみたいだから、まあ二十年以上、喪に服しつづけていることになる。
「いくらなんでも長いですね」
「そうでしょ。もうそろそろいいと思うの」
さおりさんはある建設会社の事務員をしていて、それでこのあいだ突撃を受けたまみみたいに肩コリや腰痛に悩まされて、ランドのジムに通いだしたらしいが、八神さん直伝のいわゆるがに股座り体操や腰痛改善のための背筋伸ばし体操をおウチでもやるようになったまではよかったのだけれども、しかしそれをおこなっていると定期的に、
「主人が天国から降りてきて、わたしを誘うんです。とくに背筋伸ばし体操のときは、すごく激しく求愛してくるんです」
とスポーツクラブ全域に報告しているらしくて、
「ただのお惚気なんじゃないですか」
とぼくがドーナッツをかじると、八神さんはそのバタークリームあんドーナッツについての感想をもとめたのちに、わたしも最初はそう思ってたと自分のおそらくシナモンのやつのドーナッツを食べていたが、まあ八神さんが心配しているように、たしかに天国うんぬんというくだりは、なんとなく引っかかるいいまわしではある。
「他界された旦那に誘われてるから自分も天国へ……とか、そういう感じですか?」
「会員さんたちのなかにも、ちょっと、そういう心配をしてる人がいるの」
「その報告はSOSとかあれですかね? 自殺願望のある人は、事前に近しい人にそういう信号を送るっていいますもんね……」
「だからわたし、さおりさんのお宅を今度たずねてみようと思うの。それにまえの旦那さんのことはわすれて、再婚してほしいのよ」
「また飛躍しましたね」
「というのはね、正直にいうと、わたし、加代さんに頼まれてもいるの」
八神さんの話だと、加代さんが運営している例の結婚相談所の会員のなかにこのさおりさんに気がある男性が一人いるとのことで、そこまでピンポイントで指名しているということは、その男性はきっとさおりさんが勤めている建設会社の社員か、その建設会社と取り引きのある人か、あるいは喪服をこよなく愛していらっしゃる方かなのだろうけれど、加代さんに、
「男関係はどうかしら? ジュンコちゃんの個人的な印象だと」
ときかれた八神さんは、交際してる男性はいないと思うけど、喪に服していることだけは確かよ、とざっと説明していて、すると加代さんは、
「それならば大丈夫。女はかならず喪服を脱ぐから」
とこの縁談は脈ありと睨んで、八神さんに協力を正式に要請してきたという。
「まあわるい話じゃないかもね。加代さんところの会員は、なにげにみんな素性はいいし」
「また霊能者みたいなのやってよ。あれ、けっこう説得力あるもん」
「ぼく、ほんらいはブロマイド占いを売りにしてるんだけどな……まあいいや。それで、どうすればいいんですか?」
「天国の旦那さんは再婚をのぞんでるとかそういうことをいって、さおりさんを説き伏せてほしいの」
「なるほどね。二十年も、喪に服してたんだから、天国の旦那だって、認めてくれるでしょ」
いまドーナッツをたのしんでいるこの席からは、スーパーに来ているお客さんの姿がよくみえた。
スーパーというのは買うものがすくないとレジの人が袋に商品を入れてくれるが、たくさんあると、その量に合わせて、てきとうなレジ袋をカゴに添えるだけで、一つひとつすくないときのようには袋に入れてくれない。
だからカゴをいったん端のガッシリしたテーブルに移動させて、そこで買ったものの袋詰めを、濡れミニタオルみたいなので指を湿らせたりしながら、各自粛々とおこなうわけだけれど(たまに粛々とおこないすぎて一袋か二袋、場合によっては全袋、持ち帰るのをわすれてしまう人もいる)、女の人はやはりその袋詰めが上手というか、なかなか理に適っていて、ぼくが注目していたぽっちゃり系のご婦人も、バランスよく買ったものを大小のレジ袋に詰め込んでいた。
ぽっちゃり系のご婦人のとなりでは、赤ちゃんをおぶったママさんがやはり袋詰めをしていて、こちらのママさんはあまりにもこまごまとしたものを買い込みすぎたがために、いよいよ袋詰めに苦戦している様子だったが、背中の赤ちゃんはそんなママとは無関係に冷房の影響だろうか、お鼻とよだれをかなり垂らしてしまっていて、するとぼくが注目していた先のぽっちゃり系のご婦人は、ご自身のバッグからポケットティシューを出して、赤ちゃんのお鼻とお口を拭いてあげていた。
「むむ!」
そのポケットティシューは、たしかにぼくがたまに配っている宣伝用のティシューだった。あの絵柄はまちがいない。
ぼくは何にたいしてもぽっちゃりタイプの女性を優先させる特性があるので、もしかしたら、あのご婦人にも、どこかでティシューをお渡ししたのかもしれないけれど、しかしぽっちゃりしていて、かつあれだけ色が白ければ、たいていぼくはしっかり脳裏に焼き付けている、というか、いやがうえにもスケベ中枢に焼きついてしまうので、だからぼくはあのご婦人にポケットティシューは手渡していない、といいきることもできるのである。ホントに記憶にないもん。
このように大見得を切ったぼくだったが、八神さんがこのご婦人に声をかけて、ご婦人が、
「ああ、ジュンコ~」
とこちらのテーブルにお越しになってくれたときには、とうぜんながら両腰にあてた手の甲もただもう決まりがわるいだけのものになっていた(仕方がないので、ぼくはがに股ダンスみたいにそのまま肩を出し入れして、この大見得をうやむやにした)。
八神さんとご婦人は知り合いで、ぼくも一度だけエレベーター付近でお会いしたことがあるらしい(こちらの記憶もない)。
ご婦人は八神さんに「須藤さん」とか「ぽちゃこ」などと呼ばれていて、ちなみに八神さんとちがって須藤さんはとっくに結婚しているようだったけれど、ぼくはそれを知って逆に肩の荷がおりた(?)のか、さっきのポケットティシューのことを気軽にたずねていて、すると一瞬キョトンとなった須藤さんは、
「これはウチの子が自転車で転んだときに、見知らぬ人から、たくさんもらったらしいんですけど」
とぼくの似顔絵が入ったポケットティシューのティシューじゃない最後の一枚の紙を凝視していた。
「もしかして、旦那さんが……」
「最近そんなことがあったかもしれないな。こういう体格のいい男の子でしょ?」
「はい。そうです」
須藤さんはぼくのことを「大旦那」と呼んでくれたあの太った少年の母親だった。
ということは、あの少年はこちらの須藤さんと何度も何度も入浴し、そしてこのはちきれそうな真っ白な肉体を、文字通り体感してきたのだ。むしろぼくのほうが、かれを「大旦那」と呼ばなくては……。
「その節はありがとうございました。あんなにたくさん、よろしかったんですか?」
「あんなもんは、たいしたもんじゃないんでね。ただの兄貴にたいするアピールなんで……あの体格のいい大旦那さんは、おいくつなんですか?」
「ウチの主人ですか?」
「あっ、失礼。お子さまは?」
「小学五年生なんです」
八神さんが、
「今年チビッコ横綱になったのよ。ふつう六年生にならないと、なれないのに」
と補足してくれた。