第7話

文字数 4,150文字


      その七

 麦川さんは、あがり症というか恥ずかしがりやさんというか、とにかくそういう特性によっていろいろ失敗してきたらしく、たとえばパートの面接なんかでも、直前になるとカチコチに緊張してしまって、何度もドタキャンしてきたとのことだったが、短期のパートならまだしも、麦川さんはこれまでに三度も良い条件だった縁談をそのカチコチによりすっぽかしたみたいで、結婚適齢期のお嬢さんは、見合い用の和服を着付けてもらっている段階で、どうもあたまがくらくらしてきちゃうみたいなのだ。
「チエもひとりじゃラーメン屋で食べられなかったな……そんなに恥ずかしいかな?」
「ラーメン屋さんなんて、ぜったい無理です。でも一回だけ〈ドムドムバーガー〉に入ったことはあります」
 隣人の八神さんはときどき〈お食事処清水〉で定食を食べていて、ちなみにそのさいはいつでも一人で、しかもおビールなんかも堂々と飲んでいらっしゃるので、女の人がみんな一人で食事ができないというわけではもちろんないだろうけれど、このお食事処ではたらいている、はたらいているというか、ここの娘の直美ちゃんを一時期かなり気に入っていた事情でお昼夕飯夜食と一日に三度この店ののれんをくぐったことがあるぼくは、とくに夜食時の、ちょっとビビッている感じの店員の視線を感じたときの気まずさも、いちおうは知っていて、だから麦川さんの気持ちも、まあわからないこともなかった。
「すごーい」
 麦川さんはこのエピソードをきくと、ぼくをいよいよ、
「先生」
 と呼んできて、もちろんぼくは「あがり症克服」や「恥ずかしがりやさん改善」の専門家でも講師でもないわけだから、
「いずみクン、先生と呼ぶのはよしてくれよ、な、いずみクン」
 と彼女におねがいしたのだけれど、しかしお察しのとおり、ぼくはこのタイミングをチャンスとみて麦川さんをお名前で呼ぶことになにげに成功していたので、とくにクン付けで呼んでいるあたりからして、まんざらでもなかったことがうかがえる。
 さらにまんざらでもなかったことがうかがえるのは、専門家でも講師でもないなんて責任のがれをしておきながら、そうめんを食べ終えると、さりげなくいずみクンに課題をあたえていたことで、それをきいたいずみクンは案の定、
「そんなこと、できるかしら……」
 と不安そうな表情をうかべていたけれど、しかし実質スペシャリストを宣言しているも同然のぼくが、なぜゆえにこの課題に取り組まなくてはならないかを熱く説明すると、だんだんいずみクンもやる気になってきてくれて、で、最後には、
「では、明日の朝十時に、教材を持って、またお邪魔いたします」
 と向上心のある教え子は、納得して帰っていったのだった。
 ぼくがいずみクンにあたえた課題は「コインランドリーで衣類を洗濯する」というもので、これは八神さんを思い出したことにより生じた発想なのだけれど、この界隈にあるコインランドリーで、一度八神さんとばったり会ったことがあるぼくは、そのさい八神さんに、
「一時間以内にぜったい帰ってくるから。畳まないでクシャクシャでいいからね」
 と洗濯したものの取り込みをなかば強引にたのまれることになって、とはいえ、もちろんかなりわくわくしながら、乾燥が終了するのを待ったわけなのである。
 ところが乾燥機から出てきたものは、トレーナーみたいなやつと冬用の毛布みたいなやつとあとバスタオルが二三枚のみで、ぼくは回っているあいだはいろいろな可能性を秘めているようにみえたピンク色のそのバスタオルを手に取ったとき、つい落胆のため息を一つついてしまったのであるが、それでもいま思えば、冬用の毛布は敷き毛布と一体になっている例のてるてる坊主式のものだったのだから、テレビショッピングに電話する段階から相当恥ずかしいはずで、ということは、それを達成して、なおかつ他者にそれをいわば開示している八神さんはあがり症だとか恥ずかしがりやさんみたいな特性とは無縁の女性ということができるわけで、だからいずみクンは、とうぜん見習わなくてはならないと、ぼくは全身全霊で説き伏せたのである。
 先のような事情で、いつごろからか日課になっているいわゆるお三時の時間は若干過ぎていたが、こちらはぼくの小さな幸せの一つなので、こんなに瞳孔が開いている状態にあっても、いつものようにミルクティーをていねいに淹れ、テレビを点けた。
 ローカルテレビ局で午後の三時とか四時とかに放送されている古い時代劇をご隠居然と観ていると、すくなくとも去年までは八神さんがはたらいている健康ランドのコマーシャルがかならず流れたのだが、最近は大躍進中の例の「ゼツリン青汁」と、あと近年復権したといわれている地元洋菓子屋の「わけありピーチパイ」のコマーシャルばかりが執拗に映し出されている。
 姪のノン子はこの健康ランドについて、
「あそこって、市営だか県営だかなんだって」
 とかなりいいかげんなことをいっていて、これはきっとゴミ焼却場に隣接されている市民浴場とごっちゃになっているか、あるいは破綻寸前の健康ランドは県だか市だかが買い取るという義姉個人のただの予想をもう成就されたと早合点しているかなのだろうが、しかし、健康ランドの経営状態はじっさいいよいよ厳しく、近々どこかの企業に吸収されてしまうのだそうで、こちらは八神さんからの情報なので、まあ本当なのだと思う。
 それはともかく、経営者が変わった場合、名称はどうなるのだろうか。
 現在の名称は健康ランド〈三途の川〉である。
 この界隈では一時期、夜中に徘徊するご老人が激増してしまったことがあったのだが、そのさいこちらの健康ランドは造花のお花畑や張りぼての青空やマネキンの神様などで外観を整えて、徘徊するご老人方に興味をもたせて、ご老人方が迷い人にならないよう貢献してくれたのだった(この活動は市に表彰された。義姉の予想は、おそらくこのことから生じている)。
 だから〈三途の川〉という名称は、その功績にちなんで名付けられたと思っている方もいらっしゃるのだけれども、それ以前からこの健康ランドはつまり〈三途の川〉だったわけで、なんでも前身の銭湯時代の入浴風景から着想されてのことらしい。
 ぼくはかつて、スーパーの名称が変わったがために、ここぞというときのために温存しておいた割引券を認めてもらえなかった、というほろ苦い経験をしていて、だから栗塚氏に一枚あげたが、それでもまだ五六枚持っている健康ランドの無料券のその効力の有無について、急に不安になってきた。
 そんなわけで、今夜は〈三途の川〉におもむくことにする。お食事券も持っているしね。
 ダイエットのためにほぼ毎日ランニングをしているし、お隣の八神さんとも交流があるわけだけれど、ぼくはこのランドのスポーツクラブをほとんど利用したことがなくて、それはつまり、マシーンを使ったワークアウトは好きではないということなのだろう。
 だから今夜もスポーツクラブに立ち寄るつもりはなくて、体力のつづくかぎり気力のつづくかぎり愛のつづくかぎり愛と夢と神様と幸せを信じてお星さまが眼前にいっぱいになるまで小鳥さんがピヨピヨ鳴くまでさまざまな種類の湯を堪能していこうと思っているのだが、滝湯や泡湯ならともかく、サウナにかんしては、ほとんど負けたことのないこのぼくが(このことを健康診断みたいな場で声高に主張すると、かならずお医者さんに説教される)、一度だけここのサウナで惨敗したことがじつはあって……それにしてもあの大旦那はたいした人だった。
 サウナというのは、通常サウナ室で汗をかき、給水場で水分補給し、水風呂でからだを冷やす、というのをくりかえすのだが、ぼくぐらいになると、普通の人の三往復分くらいの時間を一回の汗かきに費やしていて、だから水風呂でいったんクールダウンして、ふたたびサウナ室にもどってきた人たちは、たいていそんなぼくをみて恐れ多くて距離をおいている。まあ、おいている気がする。
 ぼくは空いていれば、いちばん前のベンチにポジショニングすることになっていて、というのもすくなくとも〈三途の川〉のサウナ室は前がいちばん温度が高いからなのだが、先にあげた実情により一見ぼくのとなりで競い合っているようにみえる人も、じっさいはまあトラック競技でいえば一周も二週も差をつけられているわけで、しかしあの大旦那は試合がはじまってからずっとぼくの横でラジオを聴いていたのである(サウナを試合になぞらえると、お医者さんに説教されるので要注意)。
 ここのサウナ室はいつでもラジオが点けっ放しになっていて、ダイヤルは市に表彰されたからだろうか、たいてい地元のラジオ局に設定されているのだが、このときは人気番組の「電リク流行歌ベスト30」が流れていて、ぼくは二十二位の曲が終わるころから聴き出したのだけれども、大旦那は二十一位の曲が発表されようとしているときにサウナ室に入ってきたのだった。
 ぼくのとなりにすわってきた大旦那に前列は誰もすわっていなかったが、それでもいちおうすこし腰を浮かしてポーズだけ席をつめてあげると、大旦那は手のしぐさだけで“かたじけない”という感じを出して、それから、バスタオルを敷いた檜のベンチにどっかとすわって、腕を組んだ。
「あれ? しまざき由理って、Gメン75の終わりの歌をうたってた子だっけ?」
「そうです。じわじわ順位を上げてきたみたいですね」
 大旦那はこんな感じでけっこうしゃべりかけてきて、ぼくはだいたい十二位くらいの時点で、この人はただ者ではないなと感じはじめていたのだけれど、八位か九位だったキャンディー隊の『ワオやさしい悪魔』を、大旦那が余裕の息づかいで口ずさんでいるころには『ワオやさしい悪魔』の振付を無意識に踊っていたこともあって、こちらはスタミナをかなり消耗していて、で、第六位が発表されるころには、いよいよ辛くなって、ふらふらの状態で、給水場へと直行したのだった。
 水風呂からもどってくると、まだ大旦那は腕を組んでいて、大旦那は第一位が発表されると、
「また『カナダからの手紙』か」
 とつぶやいて、やっと腰をあげた。

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