第37話

文字数 3,234文字


      その三十七

 竹谷真紀のいう“こんな世界”から、ぼくを元の世界にもどしてくれたのは、現在二浪中の充男くんで、充男くんは、例の有料式冷蔵庫を小銭を投入することなく取り出せるよう調整しに来てくれたみたいだったが、
「ずいぶんはっきりと寝言いってましたよ」
 と充男くんに冷やかされても、どうしてもぼくには先ほどまで滞在していた世界がただの夢だったとは思えなくて……それにしても、まだ一人も客は取っていないらしいけれども、ああいう肉体労働をしていると、からだの調子を崩すことも大いにあると思われるので、なんとかして研修中のあいだに真紀ちゃんを救出するか、あるいはビンビン怪獣とかを陰で操っている親分みたいな奴に真紀ちゃんがいま自分で貯めようとしている身代金を払わなくてはならない。おいくらなのかは聞きそびれちゃったけれどね。そもそも夢なのだろうけれどね。
 充男くんは、あからさまに刺激の強そうなやつをあてにしていて、といっても今回ぼくはその手のものはとくべつ持参してきていなかったので、最初は四半世紀ちかく財布に入れてある酒井ゆきえのテレホンカードでもあげようかとも思ったのだけれど、それでもハンガーにかけておいたハンテンを指摘されたときにぼくは社長にもらったアルバムを「ああ、そうだ」と思いだすことができて――そんなわけで、充男くんには会員番号32番の衝撃写真を、とりあえず一枚分けてあげることにした。
「こここ、これって、ももも、もしかしてぇぇぇぇぇぇ!」
「まあまあ取っときなよ」
 いずみクンは七時過ぎにもどってきた。腰の調子をきくと、不思議なくらい良くなったという。
「腰のほうは筋肉痛にちかい症状だったらしいんですけど、骨盤がちょっとずれてたみたいで」
「ずれてたの!」
「でも、こんなおっきなお婆ちゃんにボキボキやってもらったら、なんだか、からだぜんたいがスッと軽くなったんです。その整体のお婆ちゃん有名な人で、プロゴルファーとかバレーボールの選手なんかにも頼りにされてるんですって」
「しかし骨盤がずれてたとは……夏から秋にかけて恥ずかしがりやさん改善と称して、かなりアクロバティックなポーズをいろいろ取らせていたからかなぁ」
「アクロバティックというほどじゃなかったですよ。ほとんど四つん這いだったもん」
「そうだったかな? そうだよね。おれの嗜好からして、そうだよね!」
 いずみクンはそのおっきなお婆ちゃんに、今晩はお酒を控えるようにといわれたらしいので、ぼくも今夜は酒を飲まないことにする。骨盤がずれていたのは、もしかしたら四つん這いのしすぎかもしれなかったしね。
 晩御飯はパパがビールを飲んでいた例の食堂で食べてもよかったのだけれど、内線電話の横っちょにひっかけてあった案内書みたいなものをみると、部屋にお食事を持ってきてもらうこともできるみたいだったので、けっきょくぼくたちは、
「おれは親子丼ともりそばをたのむけど、いずみクンは?」
「じゃあ、わたしも舟倉さんとおなじものにします。お腹ペコペコだから」
 というものを内線電話でたのむことにした。
 ぼくは先日これとおなじ組み合わせの店屋物を食べていて、だからほんらいであれば、すくなくとも親子丼のところだけはカツ丼か天丼にしたかったわけなのだが、それでもこうやって親子丼ともりそばを躊躇することなく選択したのはご承知のとおり、さっきの夢で出前持ち怪獣が独断で親子丼ともりそばを事務室に持ってきていたからで、出前持ち怪獣は野口五郎ばりのシークレットブーツをはいていて、怖いといえばまあかなり怖いのだけれども、しかしあの怪獣にはなんとなく人の良さそうな、一三五〇円くらい払って理由を話せば、それなりの情報をリークしてくれそうな、そんな雰囲気もあったので、「親子丼&もりそば大作戦」にひっかかってうまくあいつがあらわれたならば、ぼくはそういう方面から切り込んで行って、真紀ちゃん救出への活路を見出すつもりでいたのである。
「お待たせいたしました」
 親子丼ともりそばをはこんできてくれたのは、だがしかし出前持ち怪獣ではなく、お初にお目にかかるここの若い従業員さんで、若い従業員さんは脚付きブラウン管テレビのある六畳のほうにたのんだものをそそくさとならべると、ちょこんとお辞儀をして、すぐさがっていってしまった。
「作戦失敗か……」
「作戦てなんですか?」
 ぼくは一瞬迷いはしたが、それでもこれは知っておいてもらったほうがやはりいいだろうとおもって、助手のいずみクンに、この作戦を決行するに至った経緯をざっと説明しておくことにした。いずみクンは晩御飯を食べながらも、ときどき手のひらに指でメモを取ったり、大げさに小首をかわいくかしげたりしている。
「けっきょく、ただの夢なのかもしれないけれどね」
「その竹谷さんという方には電話しましたか?」
「してない」
「とりあえず電話してみたらどうですか? 本人に直接確かめてみるのが、いちばんですよ」
「それもそうだね」
 竹谷真紀は帰りのタクシーのなかでも「連絡するね」ということを酔いがまわった口調でくりかえしいっていて、だからぼくはなんとなく連絡が来るまでは待っているべきなのではと思って、それを律儀に守っていたのだけれど、しかしこのような緊急事態においては、そういう個人的な一種のげんかつぎ(自分から連絡するといっている女の子にこちらから連絡するとナニできない。よしんばできることにあいなってもアクシデントに見舞われる)にこだわっている場合ではもはやないわけで、携帯の充電表示を確認したのちに真紀ちゃんのスマホにとにかく電話をかけてみると、九回ほど着信音が響いて、やっぱり出ないかなぁ、
「もしもし」
「ワオワーオ!」
 と竹谷真紀は普通に電話に出たのだった。
「もしもし真紀さん?」
「はい」
「いま、どこにいるの?」
「さっきとおなじ部屋よ。もう着替えちゃったけど」
「休憩中ですか?」
「休憩中といえば休憩中なのかな。ちょっと前にビーフストロガノフ教授が持ってきてくれたお弁当を食べてたの」
「どんな弁当ですか?」
「のりタル。ケチよね。わたしほんとうは、カキフライ弁当がよかったのに」
 ビーフストロガノフ教授はのりタル弁当といっしょにソープランドマニュアル(?)なるものも持ってきてくれたらしく、だから真紀ちゃんは、さっき舟倉さんがマンツーマンで指導してくれたからイメージが沸きやすいというようなことも、おそらくそのマニュアルをパラパラめくりながらいっていたが、
「やっぱり実戦で予習しておくとちがうわね。ありがと」
 と妙に明るかった真紀ちゃんは、あと四五日したら、いよいよお客さんを取ることになっちゃうみたいで、なんでもビーフストロガノフ教授は、きちんと身代金に相当する額を納めれば、元の世界に帰してやると表向きは明言しているようなのだ。
「だけど、いくらくらい納めればいいんだろう」
「三億」
「さささ、三億!」
「ほんとうは三億八千万だったのよ。どうにかまけてもらったの」
「まいったなぁ……とてもじゃないけど用意できる金額じゃない……」
 竹谷真紀自身はちょっとソープランドではたらけば三億くらいは軽く稼げると思っているらしく、おそらくこれは、先ほどのマンツーマン指導のさいにお客様役のわたくし舟倉環が真紀ちゃんの例のむちむちすぎるからだを必要以上に絶賛してしまったからなのかもしれないが、たぶん全身タイツの下っ端の連中が五六時間置きに部屋のようすをチェックしにくることにもどうやらなっているみたいで、
「あっ、足音がきこえる。スマホのこと知られると、没収されちゃうかもしれないから。またね」
 とこのあとの真紀ちゃんは、感想を述べることを再度要求しておきながら、けっきょく一方的に電話を切ってしまったのだった。いずみクンの前で率直な感想を述べるわけにもいかなかったので、たすかったといえば、たすかったのだけれどね。
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