第19話

文字数 3,579文字


      その十九

 実質ノーガードのいずみクンに肩を貸してあげたからだと思うけれど、ぼくはこの晩、たいへんな寝汗をかいて、シャツを何枚も着替えていた。
 寝汗をかいて着替えたさい、ぼくは汗だくになったTシャツの一枚を部屋の戸棚みたいなところにどうやら押し込んでいて、これは十代のころ、うっかり夢精をしてしまったときに、応急処置として学習デスクの棚に下着を放り込んでおいた習性が、寝ぼけた状態だったために、そして和室の感じが夢精時代にあてがわれていた旧祖父部屋と若干似ていたためについ出てしまったのだろうが、数日後、このTシャツに気がついたらしい旅館の女将は、自分が不在だったことを詫びたのちに、
「シャツ、そちらにお送りしましょうか?」
 とわざわざ電話をかけてきて、ぼくのほうはキャンディーTシャツなんてまだ下ろしていないのもたくさんあるから処分してもらってもかまわなかったのだけれど、しかしそれだと、なんとなく味気ないし、女将さんの声の感じも生娘みたいで、ちょっとよかったので、
「また秋に、そちらにおうかがいしますんで、そのときにでも」
 といって、電話を切ったのだった。
 夏の終わりのその時点で旅費はまだ工面できていなかったけれど、ぼくは社長に接待を受けたり、れい子先生にご褒美をもらったりしていた関係で、かなり大物気分でいたから、秋までには、いくらでも都合がつくだろうとかんがえていた。
 ちなみに旅費のほうはというと十月になってもまだぜんぜん用意できていなくて、こんなことならチイアニからアンテナ立替金のせめて半分でも強引にふんだくっておけばよかったが、旅費がなかなか貯まらないのは、こちらもこの大物気分というか大旦那気分の影響で、いつのまにかそう収まってしまった〈Mの森部屋〉のいわゆる“タニマチ”としての出費もけっこう響いているからで、先日もぼくは部屋に、大量の「チキンラーメン」をけっきょく贈ってしまったのである。
 この“Mの森部屋”というのは、小学五年生で早くもチビッコ横綱に昇進したあの須藤くんが属しているチビッコの相撲部屋のことで、須藤ママも部屋のお手伝いを当番制で務めている。
 須藤さんが色が白くてぽっちゃりしているところから、一部ではこの須藤ママにイイカッコをするためにぼくは部屋のタニマチになっているといわれているのだけれど、じっさいはそうではない。いくらなんでもそこまで広範囲に“色白ぽっちゃり系”を探求してはいない。須藤ママは、ちょっとぽっちゃりしすぎだしね。
 ぼくがタニマチをしぶしぶやっているのは、ここの部屋の親方に義理があるからである。というのも、この親方の力添えがなかったら、もしかしたら、あの長寿マシーンは回収できていなかったかもしれないのだ。
 さおりさんのぶら下がり健康器に怪しげなレバーが付いていることを見出したぼくは、いくらか色をつければ、あんなものはすぐ譲ってくれるだろうと最初は高を括っていたのだけれど、出だしは二千円くらいからはじまって、
「じゃあ今回はとくべつに三万、三万五千円、えーい四万!」
 とふつうではありえないほどの買い取り額を提示しても、さおりさんは首を縦には振らなくて、八神さんが、
「なにか事情でもあるんですか?」
 とたずねてみると、なんでもこの長寿マシーンは、火野きよしからはじめてプレゼントされた記念すべき品とのことなのであった。
「中古にみえるかもしれないけれど、これはある星の外務官僚から個人的にプレゼントされたものなんだって、主人はいってました。そんな貴重なものを、わたくしにプレゼントしてくれるなんて……わたくしは、ほんとうに主人に溺愛されていたのです」
 火野きよしは十中八九、邪魔になった長寿マシーンをさおりさんにおっつけていて、これはかつて姪のノン子に、
「めちゃめちゃウエストがくびれるぜ」
 とギッタンバッコンくん(あのスタイリーによく似た一種の健康器具)を、おっつけているぼくがいっているので、まちがいない。八神さんもおなじ見解だった。
 八神さんは帰りの車内で、
「あれじゃ一生喪に服していて、お見合いどころじゃないわね」
 ともう完全にあきらめムードになっていて、ちなみに当初心配していた自殺うんぬんというのはこの日を境にいっさい話題になっていないのだが、マンションにもどって八神さんといっしょに加代さんの部屋をたずねると、加代さんは、
「やっぱり人柄は良さそうね」
 とさおりさんをなぜか高く評価していて、加代さんはいったん奥に引っ込むと、
「なるべく早く会えるようにしましょう」
 となにやら手帳のようなものをパラパラめくりだしていた。
 さおりさんを狙っている加代さんのところの会員は、佐分利さんとおっしゃる五十歳の方だった。先にあげたチビッコの相撲部屋の親方は、この佐分利さんである。
 佐分利さんには、もう成人している立派な息子さんがいるらしく、その息子さんを産んだ人はどうなっているのかは、そのときぼくたちはきかなかったが、ぶつかり稽古をしたあとに入る大きめの浴室を自宅の敷地内に増設するさいに、さおりさんが勤めている会社に基礎のほうを頼んだ佐分利さんは、部屋のチビッコ力士の昇進祝いのときに、この会社の人たちも律儀に招待していて、
「そのとき、さおりさんとお話したみたいなの」
 とまあそんな感じで、加代さんのところに相談にきたようなのだ。
 佐分利さんは昇進祝いの席で「デビルマン」の歌をうたったらしく、これはチビッコを考慮しなければならない立場と自身の人生哲学との折り合いがつく領域に、ちょうどデビルマンがあったということなのだろうが、このデビルマンの歌をきっかけに、さおりさんとお話することになった佐分利さんは、大人だけの二次会の席で、
「あきらさんはこの歌のように、真の姿をずっと隠しつづけていました。わたくしは、そんな主人を誇りに思っています」
 とさおりさんがいっていたのをかなり気にしているみたいで、ぼくと八神さんはそれをきいて、お酒を飲みすぎて、デビルマンのあきらと火野きよしとを混同してしまったんじゃないかとかんがえたのだけれど、加代さんはぜんぜんちがう捉え方をしていた。
「わかったわ。真の姿を隠して生活している人が、さおりさんにとっての“主人”なのよ」
 加代さんは、それだったら佐分利さんはピッタリだわ、ともいっていて、こちらのほうはどうもむかしは米を真面目につくっていた農家だったが、十年くらい前の例の区画整理バブルでぜんぶ田畑を売って先祖からの恩恵を独り占めにしているという負い目があるために非営利的な活動を積極的におこなって体裁を取っている佐分利さんのことを指しているようだったが、ところで、私事ではあるが、肝心の長寿マシーンの回収のほうはというと、佐分利さんに誰も知らない知られちゃいけない極秘の任務なんだとかいって買い取ってきてもらえば、と加代さんに助言されていて、ぼくは最初、
「もう、私事だと思って……」
 と不満だったのだけれど、佐分利さんは二日後にすぐ長寿マシーンを引き取ってきてくれた。しかもたったの二千円で。
 きのうぼくは山城さんとしばらくぶりに飲んでいて、ちなみに落ち合った場所は、いまでもときどきいずみクンに激しく追及されているあの〈秘密クラブ〉だったのだけれど、二度ほどタニマチの連れとしてチビッコ相撲部屋の稽古を見学している山城さんは、
「そういえば、こないだ親方みましたよ」
 とペギーちゃんにビールのおかわりをしながらいっていて、一週間だか十日間だかに一遍のペースでおおむねコインランドリーで洗濯している山城さんは、なんでもそこで佐分利さんとさおりさんを目撃したという。
「なにやってたんですかね、ふたり」
「とうぜん洗濯ですよ。あの痩せてる女が親方に一枚一枚思わせぶりに洗い上げたものをみせつけながら紙袋に、紙袋っていうか、表面がつるつるしてるやつの紙袋みたいなのってあるじゃないですか、ちょっといいやつの紙袋、でかいやつの」
「はい」
「ああいうのに放り込んでましたね」
「そのままですか?」
「いや、軽く畳んでましたけど、かなり雑に畳んでたから、あとでまたきちんと畳み直すんでしょうね」
「さおりさんち、洗濯機あったけどな……」
「ここんとこ、晴れですもんね。だからわたしも、乾燥機は使わなかったんですよ」
「洗濯機が故障したのかな?」
「それか親方に、自分の下着関係をみせるためでしょうね。黒のすごい角度のやつとか、親方の目の前で、かなりヒラヒラさせてましたから」
「ぜんぶ黒ですか?」
「ほかの色のもいっぱいありましたよ。赤とかピンクとか、たしか緑も。派手なグリーンのやつでしたけど、角度はたぶんなかったな……親方、黒のときほど、デレンデレンになってなかったし」
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み