第30話

文字数 3,373文字


      その三十

 竹谷真紀の耳もとに執拗に述べまくっていたからだろうけれど、ぼくはひさしぶりに夢精をしてしまっていた。
 ひさしぶりだったので、たしょうあせりはしたが、さすがに昔のようにあわてて引き出しに下着を放り込むほど、もううぶではなくて、シャワーを浴びたのちにあたらしい下着に着替えたぼくは、だから朝のコーヒーを飲みながら、竹谷真紀自身にも感想を執拗に述べさせていた夢の映像をまたぞろ再現させようと懸命になっていたのだけれど、ところで、朝から延々やっているようだった青汁のテレビショッピングを観ていて、
「そうだ」
 と思い出したのだが、ぼくはまだ洋子ちゃんに例の吉報を告げていなくて、とりあえずメールで、
「会長はお色気関連を許可してくれました。ただしバニーガールは不可」
 というようなことを送ると、洋子ちゃんはすぐ、
「もしもし。おはようございます」
 と折り返しの電話をかけてきた。
「ホントにもう会長さん、許可してくれたんですか?」
「おとといの晩にね」
 洋子ちゃんに、これこれこういう事情で、わたくし舟倉環がお色気方面の総責任者になってしまったんだ、とおしえると、
「やっぱり」
 というようなことを彼女はつぶやいていたので、あんがい前々からこちらのスケベ指数の高さを肌で感じ取っていたのかもしれないが、どちらにしても、拒否されたり落胆されたりするよりは、ずっとこちらの志気も上がるわけで、
「稽古どうする? きょうあたりどうですか?」
 とその勢いで誘ってみると、洋子ちゃんは、
「きょうはこれからバードウォッチャーの方たちのシンポジウムみたいなのに呼ばれてるんで。でも午後からなら大丈夫です」
 とのことなのであった。たいへんな向上心である。よっぽど清純派路線に限界を感じているのだろう。
 あれから洋子ちゃんは例の「ノーパンを生きる」というスマイリイ博士の著書を熟読しつづけているらしく、その著書から書き抜きしたいくつかの一種の箴言(?)を、受話器越しに読み上げてくれたが、
「ノーパンとは、捧げることである。捧げることにより、与えられる」
 とか、
「週末だけノーパンになる。これは壇上に立つ人に、遠くからヤジを飛ばしているのとおなじで、卑怯である。こういうと『先生、では、どれくらいのペースで、ノーパンになれば、いいのですか?』ときいてくる生徒がどこにでもいる。そんなときわたしは、こうこたえることにしている。『一週間に十日来い』と。“来い”とは、ノーパンのことである。“来る”や、“来た”もノーパンを指す」
 などのとてつもない箴言の最後で博士はかならず「サセレシア」という意味不明の言葉をつぶやいていて、
「サセレシアって、いってるんだ!」
「はい。そう書いてあります」
 この言葉はたしか栗塚氏も、ときどきつぶやいていたはずだ……。
 現在栗塚氏は放浪の旅を経済的な事情により一時中断して、山城家が経営している打ちっ放しのゴルフ練習場で、はたらいている。
 山城さんちの打ちっ放し練習場には専属のレッスンプロがいて、この人はレッスンだけでなく、掃除や片づけなどもまめにこなしていて、だから山城さんのお兄さんもそのあたりは高く評価していたようだが、しかしこのレッスンプロは、よく練習に来ていたどこかの夫人と、いつごろからか、いい関係になって、いわゆる駆け落ちみたいな感じで、どこかに逃げてしまったらしくて、それで栗塚氏を崇拝している山城さんは、実のお兄さんをどうにか説得して、栗塚氏をゴルフのコーチとして招くことにしたわけなのだ。
「ありがたいお話ですが、わたしはゴルフの経験は、まったくありませんので」
「栗塚先生、そんなのはぜんぜん関係ないんですよぉ。なんといっても、ゴルフはメンタルのスポーツですから」
 山城さんが先のように呼びかけたのは九月の中旬ぐらいだったのだが、その時点で栗塚氏はすでに研ぎ澄まされたおこづかい感覚に突き動かされて、コインランドリーに半ば住んでいた。
 栗塚氏はぼくがあげた〈三途の川〉の無料券もとうに使い果たしていて、だから姿がみえなくなった当初は、
「また放浪に出たのかなぁ」
 くらいに思っていたのだが、九月の長雨の時期にコインランドリーにおもむいた八神さんは、
「あら?」
 と腕を組んで瞑想みたいなことをしていた栗塚氏をたまたま発見していて、後日ぼくがべつに氏の保護者というわけでもなかったが、いちおう引き取りに行ってみると、八神さんがいっていたとおり、栗塚氏はコインランドリー内のベンチにすわって、小さなイビキをかいていたのだった。
「いい本みたいだね。ぼくも読んでみるよ」
「舟倉さん、朝食は?」
「これからだよ」
「朝食もノーパンで食べたほうが健康になるんですって」
 先々週あたりから、ぼくは賞味期限のデッドライン上にある冷凍食品や肉類をなるべく消費するようにこころがけていて、だから茶碗一膳分に小分けしてラップにていねいにかわいく包んで冷凍してある緊急時用のご飯なんかも、あらかた食べてしまったわけだけれど、ご飯ならいまから炊いてもかまわなかったが、おかずがいまいち思いつかなかったし、それに非常時用の食料をあまり用意しておくと、のちのちそれをたいらげるのに精神的にも肉体的にもおもいのほか苦労するということをあらためて思い知っていたので、今朝のぼくは、めったにないことだが、外で朝食を取ることにすでに決めていて、ちなみにこの決断によって、ノーパンでの朝食も結果的に回避することができたのである。
「外じゃ無理ですもんね。それじゃあ午後、そちらにうかがいます」
「二時くらいにしよう」
 竹谷真紀からは依然何の連絡もなかったが、もしかしたらこれは、あちらさんの作戦なのかもしれない。大事をとって、きょう栗塚氏に相談してから、執拗に述べるか述べさせるかの出処進退は決めることにしよう。サセレシアのこととか自給自足村で調査するさいの注意点なんかも、おききしておきたいしね。
 このマンションから山城さんちのゴルフの練習場までの道すがらには評判のいいもんじゃ焼き屋があって、最初ぼくは、
「まだ一回も入ったことがないからな――」
 とそこで朝食を取ろうと思っていたのだが、店の前でいったん自転車を停めて看板をみてみると、営業時間は午前十一時三十分からになっていたし、それによくかんがえてみたら、朝からもんじゃ焼きなんてぜんぜん食べたくなかったので、ぼくはけっきょく何度も利用していて味も値段もぜったいの信頼を置ける〈ほっかほか、ほかほかほかほかほかほかほかほかほかほかほかほかほかほかほかほかほかほかほかほか亭〉でお弁当を買って山城さんちのラウンジで食べることにして、しかしカキフライ弁当をたのむと、ほっかほかサイドは気を利かせて、ことわってもいないのに独断でご飯なしにしてしまう可能性もあったので、今回はそういう心配のない「のりタル弁当」を注文することにしたのである。
「あれならご飯とおかずが一体化しているからな」
 今世紀に入ってから建てられたこの種のお弁当屋さんは、ほとんどが室内式のカウンターになっていると思われるが、こちらの〈ほっかほか、ほかほかほかほかほかほかほかほかほかほかほかほかほかほかほかほかほかほかほかほか亭〉は旧式の、つまり野外型のカウンターの構えになっているので、たとえばお弁当を注文してそれが出来上がってくるのを待っているあいだに急に夕立なんかが来ちゃったりすると、弁当をいよいよ受け取るときには、ただでさえ弁当を待っている姿というのはある種の哀しみがあるのに、濡れねずみ効果の影響でもってさらに哀愁がただよってしまって、自分でもウインドウ越しにその姿をふいに見てしまうと、おもわず二粒くらい涙をこぼしちゃったりもする。
 部屋に帰るまでにまた豪雨に見舞われてお弁当を雨でグショグショにさせないためにビニール袋の持つところをギュッと縛って、でもこれだと結び目から雨が入ってきちゃうかもと思って結び目を弁当の底のほうに移動させることにして、いったん結び目を解いて底のほうで結び直そうとして、
「あっ」
 とうっかりお弁当を道に落としてしまうと、二粒なんてものじゃなくて、あごが歌い終えた演歌歌手のように、ガクガクになってしまったりする。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み