第2話

文字数 3,888文字


      その二

 ポッキーを何本か食べると、れい子先生は、
「タクシー待たせてるの」
 と資料のようなものをこちらに手渡して帰っていった。いつもなんの連絡もなしにいきなりたずねてくるのだけれど、長居はしない人なのである。
 れい子先生はなんでも若いころに自宅の電話を盗聴されたことが幾度かあったらしく、だから美容室やエステの予約なども電話はぜったい使わない、とも一部の顧客たちのあいだではまことしやかにささやかれているのだが、以前先生に遠回しにおうかがいしたところ、この盗聴疑惑は、
「わたしが友だちと長電話してたら急に変な声がきこえてきたの」
 という類のものだったので、おそらく割り込み電話だか留守番電話だかの機能を先生は過剰に怪しんでしまったのだとひそかに弟子は推理している。
 つまり先生はいったいに機械類が苦手なのである。
 そして裏奉仕の仕事をいいつけるときには情報流出を防ぐために電話はやはり使わないのだ。といっても、このようにマネージャーの山城さんに平気で資料を作成させたりしているのだけれどね。
 手渡された資料をざっとみてもいまいち意味がわからなかったので、あとでこの山城さんに問い合わせてみようと思った。
 山城さんとは個人的にもたいへん親しい。というか、もともとよく遊んでいた山城さんを通じてれい子先生と面識を持ったのである。
 山城さんとの付き合いは、かれこれ十年くらいになるのだろうか。
 知り合った当初山城さんは、
「今年三十歳になるから、そろそろ嫁さんもらいたいですよぉ」
 とよくいっていたが、いまだにかれは独身である。
 ぼくはその当時もう完全に別居はしていたがまだいちおう妻帯の身で、だから山城さんに、
「独身のほうがいいですよ」
 だとか、
「色が白くてぽっちゃりしてるからって、結婚しちゃうとあとで苦労しますよ」
 だとか、
「この娘は色が白くないからあまり魅力を感じないなぁ。こっちのワンピースの女の子のほうが、ぽっちゃりしててよさそうじゃないですか」
 だとかと自分の心情を吐露しているも同然のアドバイスを贈っていたのだけれど、しかしそのぼくもけっきょく正式に離婚して現在は独り者という境遇で悶々としていて、山城さんは、
「今年四十歳になるから、そろそろ嫁さんもらいたいですよぉ」
 と先日またぞろいっていたが、ぼくも近年とくに色が白くてぽっちゃりした女性を目の当たりにすると、そう思うときがないでもない。
 今晩は兄貴に呼び出されているので山城さんに問い合わせるのはあしたにすることにした。どうせなら飲みながらのほうがいいしね。
 十歳ちがいの兄貴は親父が他界した直後から急激に家長面するようになっていて、このマンションのオーナーでもある兄貴は先月も家賃の交渉をしに実家に実弟がおもむくと、
「おまえなぁ、このオレが兄貴じゃなかったら、とっくに追い出されてるんだぞ。もうチラシも配ってないだろ」
 とセンセーショナルにオープンしただけの占いの仕事について偉そうに苦言を呈していたのだが、しかし実業家気取りのおっきいお兄ちゃんは自分の愛人をこのマンションに囲っているので(一階のテナントでこの愛人さんに店もやらせている)、事実上チェック機関として機能しているこのぼくの要求を最後にはかならず呑んでくれることになっていて、このときも母との関係があまりよくない兄貴は、
「おふくろ元気なのか?」
 といいながら最後にはお願いした金額を茶封筒に入れて手渡してくれたのだった。
 おふくろは現在地元のM地区の高台にある「ウルスラタウン」という自立型のかなり高級な老人ホームで悠々自適な生活を送っている。
ウルスラタウンにはもともとおふくろの実の姉が先に入っていて、だからおふくろは春子伯母さんに、
「夏子もおいでよ」
 と誘われて三年ほど前にこの老人ホームと契約したのだけれど、義理の姉さん(つまりおっきい兄ちゃんの本妻)とどうしてもそりが合わないおふくろは、ときどきぼくが顔を出すと、
「だから旦那によそに女をつくられちゃうんだよ」
 とけっきょく嫁を批判する発言をくりかえしていて、ちなみにこの愛人問題をリークしたのはほかでもない、おふくろに一族の情報を逐一提供している末っ子のわたくし舟倉環なのである。
 なにかというと末っ子はわがままだからうんぬんといわれて面倒なときもあるのだが、とにかくぼくは四人きょうだいの末っ子で、先にもあげた家長気取りの兄貴の下にもうひとり兄がいて、それから四歳ちがいの姉がいる。
 姉の京子はやはりこれも地元の老舗旅館の家に嫁いでいて、まあ老舗といってもただ老朽化しているだけというご意見もあるので、べつにいいところに嫁入りしたわけでもないのだが、まだ前妻といっしょに暮らしていたころ、ぼくもこの旅館ですこしばかり働いていたことがあるから六代目(京子にとっては舅)の人使いの荒さなどはそれはもうよく知っていて、だからただ老朽化してるだけじゃんというご意見は、そもそもはこのぼくがいいだしたことなのかもしれなかった。
 とはいえ、この見解にはよくよく考えるといまでも舟倉家で一番権力を持っているおふくろも賛同してくれている。
 おふくろは愛人さんにたいするぼくの見解にもおなじく賛同してくれていて、お隣の部屋に住んでいる加代さんは愛人といっても兄貴と歳もあまり変わらないのでリークした当初は、
「なんでまたそんな年増にいれあげてるんだろう、あのバカは」
 とおふくろも首をかしげていたのだけれど、しかし加代さんの几帳面な暮らしぶりや使っている従業員のことを報告すると、
「たいした子だねぇ。うちの嫁よりずっと利口じゃん」
 とそのうち愛人さんの肩をむしろ持つようになっていって、で、水面下では加代さんに、
「お客様の介添え役としてわたしも今回行きますし、あと、たまきさんも臨時スタッフとして同行しますから、ぜひ」
 と誘われて大型バスでの日帰り旅にもじつはいっしょに行っているのだ。もちろんぼくがなかに入ったからこそ実現した夢の共演なのだけれどね。
 ここで加代さんがいっている“介添え役”というのは、まあ仕事みたいなもので、つまり加代さんはフォトスタジオでカムフラージュされた一種の結婚相談所兼逢い引き相談所を営んでいる。
 加代さんはお見合い用あるいは逢い引き用の写真を撮る段階でだいたいその人に合うタイプがわかるらしく、
「でも和服はすくなくて、最近はおもいきったコスプレっていうのかな? ああいうのでお見合いに臨む方もけっこういらっしゃるんです。でもね、そういう方たちって、ほんとうによくお金をつかってくださるの」
 ともいつだったか声をひそめておしえてくれたが、加代さんはかつて着付け教室も兼ねた着物屋をつぶしているくらいだから着物にたいする思い入れはかなりあるようで、ご自身も普段からよく着物を着ているし、それから着物にかんすることを話題に出すとけっこう乗ってくることが多い。
「たまきさん、お着物お好きなの?」
「そりゃあもう大好きですよ。とくに色が白くてぽっちゃりした娘さんは和服が似合うでしょ。あっ、あの怖いやつの八つ墓村の古谷一行のやつのテレビのやつでいい女なのに行かず後家の、ええと、なんていったかなぁ?」
「春代?」
「そうそう春代。あの春代さんの和服姿なんか、たまんないですね」
「まあ、たまきさんてお上手ね」
 ぼくが加代さんとこのようにおしゃべりしたのは加代さんの店のとなりのテナントを借りている「かざみ」という指圧マッサージなどをやっているところにいっしょに入ったときで、これはふたりともこのお隣のことをなにも知らなかったので、じゃあ一度ためしにということで団結して入ってみたのだけれど、加代さんも引っかかるような感じだったらしい左の肩が、
「なんだか軽くなったわ」
 といっていたし、ぼくも徹夜接待ドンジャラで痛めていた腰が、
「ああああああああああ」
 とすっかり良くなっていて、だから風見さんのおしゃべりのテンポは独特でちょっと接しにくいといえば接しにくいのだけれど、それでも利用する機会は今後もそれなりにあると思われる。
 一階のテナントはこの二店だけで、二階は「201」が加代さんの部屋で「202」がぼくの部屋で「203」がちかくの健康ランドではたらいているダンスのインストラクターの八神さんの部屋で「204」がたぶん風見さんの事務所だか自室だかで「205」は子どものいない若夫婦が住んでいる。
 三階にもたぶん五部屋か四部屋かそれくらいあるはずだけれど、屋上にあがることはあっても三階に立ち寄ったことはないので、くわしいことは兄貴かおふくろにきいてみないとわからない。
 お三時のあとのぼくは今夜会う兄貴にたいしてすこしでも弁明できる要素をつくっておこうと思って、まだダンボール十箱分くらい残っている宣伝用のポケットティシューを駅前とかそこらへんの道でともかく配ることにしたのだけれど、五六個受け取ってもらうのに一時間くらいかかっていいかげんうんざりしていたぼくは、きっと大きめの自転車で無理な曲がり方をして転倒したのだろう、ひざを擦りむいて血をにじませていた太った少年に、
「大丈夫かい」
 と手に持っていたポケットティシューを一つ渡してあげて、それから残りのティシューも少年の変形してしまった自転車のカゴに半分くらい入れて引き上げることにした。
「ご親切にありがとうございます。気前のいい大旦那」
「大旦那ってぼくのこと? いやぁ、あはははは、ポケットティシュー、もう二個あげちゃう」
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