第36話

文字数 4,721文字


      その三十六

 朝のお見送りのときに例の衝撃写真をこちらに手渡せなかったのは、社長夫人が今朝はなかなか起きなくて、寝室のクローゼットの奥に隠し扉がある、いわゆる“秘密部屋”に入るチャンスがまったくなかったためらしいが、
「女房は午前中、たいていウォーキングに出るんです。だからそのときに秘密部屋に入って、おニャン子クラブの衝撃写真を取り出します」
 とバスに乗り込むさいに耳打ちしてきた社長は、小売商アイテム一式とあわせて、この衝撃写真もクッキーの缶でカムフラージュして送ってきてくれて、
「むむむ?」
 しかしこの衝撃写真のアルバムの表記は、よくみると「おニャン子クラブ」ではなく、小さい「ヤ」が脱けていて、かつ「ニ」のところが誤字になっているという、つまりとんでもない題名になっていた。
「しかもどの写真も全部局部ドアップで、松坂慶子のやつもそうだったけれど、誰が誰だか、ぜんぜんわからないじゃん。まあ会員番号はそれぞれに打ってあるけれどね」
 アルバムの裏表紙には三万円の値札がまだ貼られてあって、もしかしたら社長は、これ以外にもいわゆるバチモンをけっこう買ってしまっているのかもしれないが、それでも小売商セットのほうのインスタント焼きそばは昔の駄菓子屋にあったようなバチモンではなく、ちゃんと日清の「UFO」だったし、衣装もたぶんこれはペヤングのほうと間違えたのだろうけれども本物の柔道着ということになっていて、とはいえ、この柔道着を着て自給自足村に出向いても、はっきりいって、よけい警戒されるだけだと思うので、ぼくはインスタント焼きそばを売りに行くときは、もう一つのダンボールに入っていたハンテンを着ることにして、そしてチキンラーメンの「ひよこちゃん」の着ぐるみのほうは、ビニールをはがさずに、そのまま持ち帰って、ノン子か小絵ちゃんに、おっつけることにした。
 いずみクンはこれから旅館の送迎車でとなり町の整体院に行くことになっているのだが、これは幻想のなかで、たじたじにしすぎちゃって罪の意識が芽生えたために自粛することになった夢のスポーツマッサージの補てんとしてぼくが女将さんにたのんだために、そうなっているのである。
 いずみクンは遅くとも八時までには帰ってこられるとのことだったので、ぼくはそれまで晩御飯は食べないで待っていることにする。日が落ちてしまうと露天風呂で異性に遭遇する確率はかなり低いので、混浴での活動はまた後日がんばることにした。
 ぼくは夏に来たときもたしかこちらの和室だったのだが、宿泊していた四五日のあいだに部屋のテレビを点けた記憶、というか、テレビが部屋にあったかどうかもおぼえていなくて、これは旅先においても大勢の異性に想いをめぐらせていたためではないかとかんがえられる。
 三面鏡のある部屋のほうには、レトロな脚付きのブラウン管テレビが、独特の存在感をかもしだしていた。こんなものを新たに設置するはずはないから、前回宿泊したときも、おそらく部屋にあったのだろう。
 地デジチューナーのようなものも見当たらなかったので、どうかなぁと思いつつ電源を入れてみると、
「あっ、出てきた」
 ブラウン管テレビはかなり時間はかかったが、それでもNHKのアナウンサーをぼんやり映し出していて、チャンネルをガチャガチャ文字通りまわしてみると、これは地元の放送局なのだろうか、古い土曜ワイド劇場らしきドラマが放送されていた。
 ぼくは松尾嘉代が出演していることを期待して、とりあえずこのドラマを、しばらく観ることにする。
 しかしどうやら松尾嘉代はこのドラマには出ていないみたいで、しかもときどき電波の関係なのか、映像がザラザラッと乱れることがあったので、ぼくはだんだん注意が散漫になって、そのうちまたぞろ、うとうとしてしまったらしいのだけれど、夢のなかの脚付きブラウン管テレビにもけっきょく松尾嘉代は出てきてくれなかったが、そのかわり、あの高松和貴子さまが、めずらしく黒縁のトンボ眼鏡をかけた地味な事務員として、そろばんなんかをパチパチはじいていらして、そしてそのハリボテばればれの事務室にやがて出前持ちに扮した変な怪獣があらわれると、和貴子さまはもよりの黒電話でピーチパイダーに助けをもとめていた。
「もしもし」
「はい」
「もしもし、きこえて?」
「きこえます」
「あなたピーチパイダーですか?」
「いえ。わたしは舟倉環です」
「じゃあピーチパイダーじゃないの」
「ピッ」
「もう、ふざけて」
「ピーチパイダーなんですか? ぼくが」
「当たり前でしょ。とにかく早く助けに来てよ。いま事務室に変な出前持ちが来ちゃってるの」
「暴れてるんですか?」
「そうじゃないんだけど、たのんでもいない親子丼ともりそばを、勝手に持ってきちゃってるのよ」
 和貴子さまは事務所までの道順をテレビ越しにこちらにおしえてきて、なんとなく和貴子さまは事務的な作業をこのようにボールペンとコピー用紙でシャシャッとおこなえることを自慢しているようでもあったのだが、しかし、
「〈時の間〉の掘ゴタツから、一直線」
 という指示はあまりにも大雑把すぎて、たとえ和貴子さまでも、そうそう褒めるわけにもいかなくて、というか夢でなかったら、こんな道順をいわれたとおり律儀に通る人は、まずいないだろう。〈時の間〉は何階にあるのかすらも、コピー用紙に走り書きされていないしね。
 とはいえ〈時の間〉は、おもいのほかすぐにみつかった。夢なので、いつのまにか場面が切り替わっていたからである。
 部屋のドアをコンコンとノックしてみても誰も出てくる気配はなく、だからぼくは、かまうもんか、夢なんだし、と思って勝手にドアを開けて、なかに入って行ったのだけれど、二間ある和室の布団を敷いてあるほうの八畳では、マイクロバスでとなりだったあの一人いざなぎ景気の翁が、まんまるおでこの四十前後の女の宇宙的な部分を執拗に吟味していて、ぼくはしばらく吟味の仕方を勉強させてもらおうかなともかんがえたのだが、まんまるおでこの女が体勢を変えるさいに人がいることに気づいて、
「あら、冷蔵庫の修理の方かしら?」
 と襖越しにきいてきたので、ぼくは恐ろしくなって、急いで掘ゴタツのなかへ本能的にもぐり込んでしまった。
「ワーオワーオー」
 掘ゴタツのなかは滑り台のように傾斜になっていて、ぼくは小学校の火災訓練のときなどを思いだしながらその斜面をかなりのスピードで滑り落ちていったのだが、
「ワーオワーオー」
 と着地したところは、やはり火災訓練のときとおなじように、ふわふわのマットみたいなものが、ちゃんと敷かれてあることになっていて、
「そりゃあ、そうだよ。お客さんにケガでもさせたらたいへんなことになっちゃうもん……あれ?」
 といってもこちらのものは例のふわふわのマットみたいなやつではなくて、ぼくはぜんぜん知らないのだけれど、たぶん、ソソソ、ソープランド、というのかな、で、もちいられている、つるつるの、防水の、ゴム製の、いかだ然とした、あのマットだった。
「誠実ぶってるけど、ちゃんとわかってるじゃない」
 奥の暗闇から、たらいを持って出てきた女性はこう声をかけてきて、ちなみに女性はトンボ眼鏡こそかけていたが、ぼくをここに呼んだ和貴子さまではなく、もっとさらにむちむちのあの竹谷真紀だったのだけれど、その真紀ちゃんに、とりあえず和貴子さまのことをたずねると、なんでも和貴子さまはさっきのシーンだけの特別出演らしいから、もう登場することはないらしくて、いちおう出前持ち怪獣のことも義理できいてみると、あちらのほうは話し合いに応じそうもなかったので、けっきょく親子丼ともりそばの代金一三五〇円を支払って、すると怪獣はわりとあっさり帰ってくれたらしい。
「だけどこんなところで、なにやってたんだい? 連絡待ってたんだよ」
「そのことはホントにごめんなさい……萩原さん、なにかいってましたか?」
「とくになにも……でもやっぱり心配してたよ。ところで、どうだった? おもちゃ発表会の仕事は」
「もちろん大失態よ。だって、ここにいるんだもん」
 竹谷真紀の説明するところによると、ぼくと〈秘密クラブ〉で飲んだ晩、ZATの隊員スーツを持って自室にもどると、無くしたはずのダイナピンクの変身スーツは紙袋ごと部屋の入口の前に普通にあって、どうやら竹谷真紀は、出かけるさいに鍵をバッグからがさごそ探したり、それでロックをかけたりという作業をおこなっているうちに、うっかりこの紙袋をわすれて、それを電車内だかバスのなかだかに置き忘れてしまったと思い込んでいたみたいなのだが、どちらにしても主催者側のほうから事前に手渡されていた衣装、より正確にいうと、
「わたしダイナピンクって、いっちゃってたけど、よく見たら、ゴーグルピンクのコスチュームだった」
 という、その変身スーツで仕事に臨めることは結果的にはいちばん良かったわけで、しかし真紀ちゃんはあの晩は相当飲んだり食べたりしていたし、もともと見栄を張って、かなりぎりぎりのサイズを主催者側だかおもちゃメーカーサイドだかに提示していたので、こちらのゴーグルピンクの衣装も、すくなくともぽっこりお腹をひきしめてくれるテレビショッピングで購入した特別の腹巻やヒップをかっこ良くしてくれるスペシャルなブルマなどの助けを借りないと、とてもじゃないけれども着れそうになく、といってもショッピングモールの控え室は従業員さんたちと共同で、あとで噂の種になったり場内アナウンスで迷子のお知らせにかこつけて、
「ぽっこりお腹をかくすお腹巻をしていらっしゃいます、たけやまきちゃんという若づくりをしていらっしゃいますが、おそらく三十ちかい女の子が――」
 とやられてしまう可能性もないこともなかったので、真紀ちゃんは少年野球の選手がユニフォームとスパイク、場合によってはグローブまではめて自宅を出るように、ゴーグルピンクのスーツを最初から身につけて、おもちゃ発表会がおこなわれるショッピングモールに向かうことにした。このあたりの自意識は、ラジオなんかの仕事をしている人特有のものなのかもしれない。
 その朝はビン缶ペットボトルの回収の日だったので、真紀ちゃんは出掛けにビンや缶を指定の場所に出しておくことにした。彼女は大酒飲みなので、一回でも出しわすれると、やはりたいへんなのだろう。
 専用の袋に詰め込めるだけビンや缶を入れてアパートの階段を慎重に降りると、ビン缶ペットボトルを出しておく指定の場所には、抜き打ち検査の季節でもないのに“ビンビン怪獣”がなにげにたたずんでいて、ビンビン怪獣は真紀ちゃんに気がつくと、
「出たなゴーグルピンク!」
 と大見得を切った。
「市民の平和を守りたかったらゴーグルピンクよ、おまえが人質になれ!」
「なにをしようというの?」
「市民のみなさまが野良猫対策としてあちこちに置いてある水入りペットボトルをも回収しちまうぞ!」
 真紀ちゃんは実家の近所のタイル屋のおばさんにあの水入りペットボトルは猫よけにはほとんど効果がないときいていたので、ビンビン怪獣に反論しようかとも思ったらしいが、ビンビン怪獣が、
「さあ乗れ!」
 とドアを開けたそのライトバンの横腹には玩具メーカーの社名が入っていて、ラジオの仕事などをやっていた真紀ちゃんは、
「演出かな? それともドッキリかな?」
 とうすうす感づいていたので、空気の読めるところをみせつけておこうとも思って、あえてビンビン怪獣との取引に応じたのだった。
「で、こんな世界に、たたきこまれちゃったの」
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