第20話

文字数 3,517文字


      その二十

 加代さんから、
「きょう一日クルマつかいたいんだけど、いいかしら?」
 と電話がかかってきたので、
「いいですよ」
 とこたえたついでに佐分利さんとさおりさんのその後の様子をきいてみたのだけれど、加代さんいわく、あのふたりは、
「昨日も食事したみたい。年明けには結婚するんじゃないかしら」
 ということらしくて、ちなみにお食事のほうは、きっと佐分利さんの真の姿(代々受け継がれてきた田畑を売り払ってそのお金を独り占めにしている人)を隠すためだろう〈ぐるぐる三昧〉という庶民的な趣の回転寿司でたのしまれたとのことだった。
「結婚か、しめしめだな」
 火野きよしへの想いが復活して「長寿マシーン返してください」なんてことになったら、またたいへんだもん。私事だけれどね。
 きょうのぼくはクルマを使う用事があることはあるのだが、こちらは事前に、
「ちょっと貸せよ」
 とチイアニに先約してあるので、問題ない。チイアニは骨董屋みたいなことをやっている関係で軽トラを持っているのだ。
 先にぼくはギッタンバッコンくん(スタイリーのバッタもん)を姪のノン子におっつけた、と豪語したが、じつは先月あたりからノン子に何度もそれをおっつけ返されそうになっていて、先週いちおうネクタイを締めて兄貴のところに経済的な相談をしに行ったさいなどは、あやうく、
「いつも足腰強いって自慢してるじゃん。運べるでしょ」
 と、おっつけ用のリヤカーを手配されるところだったのだ。
「チイアニに引き取ってもらえよ」
「だめなの。チイ叔父さんの店にも数えきれないくらい在庫が残ってるんだって」
 今年の夏もこの界隈は例によって各所で夏祭りやら盆踊りやらがいちいち盛大におこなわれていたのだが、そのほとんどに新人歌手の洋子ちゃんは出演していることになっていて、これは洋子ちゃんサイドにしてみれば宣伝になるし、主催者側にしてみればお金がかからないということで、どこでも話はすんなり決まっていたらしい。
 ところが、どこでも話はすんなり決まってしまったがために、洋子ちゃんのスケジュールは、ふと気がつくと、
「きょうは正午から三時までにスーパーを四軒もまわらなくちゃならないわ」
 とたいへんタイトなものになっていて、そしてとうとう洋子ちゃんは、炎天下の駐車場ステージで気が遠くなって、その場で倒れてしまったのだけれど、搬送先で熱中症と診断された洋子ちゃんのお見舞いに行くと、洋子ちゃんは、
「やっぱり、もっとからだを鍛えないとダメですね……」
 とそれでもしきりに反省していて、で、夏は午後の一時二時くらいにわざわざ走っているというぼくの偉業(?)を搬送先のナースにきいたらしい葉子ちゃんは、退院すると、さっそくそのぼくにアドバイスをもとめてきたのだった。
 洋子ちゃんが運び込まれた病院は、毎年ぼくが健康診断を受けているMの森北病院で、これは少額の負担で診断を受けられるので、そして兄貴や義姉さんやおふくろからも、
「やっときなさいよ」
 といわれるので、波風を立てないために三十代半ばごろから受けているのである。サウナのことで説教されるから今年はまだ受けていないけれどね。
 このときぼくは軽く走ってみて、走るのが向いていないようだったら自転車になるべく乗るとか歩くとかすればいいんじゃないかな、だいたいあの駐車場の炎天下ステージで、うたいつづけたら、誰だって倒れちゃうよと助言したのだが、ランニングのほうは三日つづけて走って膝を痛めて以降、日々のスケジュールから自然消滅しているようで、そのあと〈三途の川〉のスポーツクラブにもすこし通っていたらしいのだけれど、こちらも一度、
「あのう、太平さんですか?」
 と誰かにサインをねだられて以来、逆に行きづらくなってしまったみたいだ。
 洋子ちゃんの今度の楽曲は『花嫁はリヤカーに乗って』というタイトルらしく、だからそのへんの流れで、ぼくはもうすこしで姪にリヤカーを手配されそうになったことをメールで送ったわけなのだが、すると洋子ちゃんは、メールではなく、今度は通話でこのギッタンバッコンくんを譲ってくれませんかと哀願してきて、もちろんぼくは日々のおっつけ返しの恐怖から解放されるわけだから、よろこんで、
「いいですよ。送料? いらないいらない、そんなの持ってってあげるよ」
 とこたえたのである。
 つまりきょうは洋子ちゃんちにギッタンバッコンくんをお届けすることになっているのだ。まずチイアニに軽トラを借りて、そのあと実家でノン子の代理として待っている義姉さんからブツを引き取り、そしていよいよ洋子ちゃんにギッタンバッコンくんを渡すわけである。
 チイアニと会うのは九月のはじめにこっちのマンションのほうにチイアニがたずねてきたとき以来で、そのときぼくは白髪混じりのぼさぼさあたまだった二番目の兄にたいし、
「おい、なんでもいいけど、髪の毛くらい切っとけよ。汚らしいぞ」
 と注意しておいたのだけれど、あれからひと月以上経っているにもかかわらず、そしてあれほど高圧的にけなされたにもかかわらず、二番目の兄貴はぼさぼさあたまのままぐずぐずしていて、だからぼくはそのあたりのことを軽トラの鍵を受け取ったのちに再度警告することとなった。
「そんなぼさぼさ野郎だから、いつまでたっても独り者なんだよ、兄ちゃんは」
「環も独身じゃないか」
「ぜんぜんわかってないな。これからおれは若い女の子のところに行くんだぜ」
「軽トラで行くわけないだろ。それくらいオレだってわかるよ」
 ぼくはわりとひんぱんに理髪店に行っているのだが、これは一番上の兄貴とおふくろが長い髪を嫌っている、というか、ほとんど神経症的に縁起の悪いものとして捉えているからである。
 チイアニは幼少のころからいったいに理髪店が苦手で、これは成人後もほとんど変わりがないようなのだが、一度三十くらいのときにおもいきって耳が出るほど髪を切ってすぐ風邪をひいてからは、さらにチイアニは散髪を渋るようになっていて、だからチイアニはいちおう店もやっているにもかかわらず、実業家気取りの兄貴にも、それから隠居したようにみえてじつはいまだに院政をふるっているおふくろにも、つねに過小評価されているのだ。まだ環のほうが髪をきちんとしているからマシだ、という感じでね。
「さっぱりして気持ちいいぞ」
「だけど顔をあたってもらうときとかさ、よく切れそうなカミソリで、こう、やるじゃん。ああいうのがちょっと怖くてさ」
「最初に剃らなくていいって、ことわるんだよ」
「そんなこといえないよ。あとほら、オレが行ってた理髪店知ってるか?」
「あそこだろ、文房具屋の先の」
「そうそう。あそこのオヤジさん。もう店やってないんだよ」
「なんで?」
「脳梗塞で倒れて、手がうまく動かなくなっちゃったらしいんだ」
「そうなんだ」
「だから髪を切ろうにも切れないんだよ」
「ほかの店に行けばいいだろ」
 チイアニはそれでも白髪のほうは気にしているようで、一度だけ自分で髪を染めたこともあるみたいだったが、しかしそのときはやたらに頭皮がかゆくなってしまったり、
「洗い流すとき、黒いお湯がバァーって流れてさ。あとビニールの透明の手袋、箱に入ってたんだけど、はめるの忘れたから手がベタベタになっちゃって……」
 と染髪のほうにもみずから恐怖心を植え付けてしまったらしくて、だからけっきょく白髪のほうも先のパニック以降は、実質野放しにしてあるみたいなのだ。
 そういえば、チビッコ相撲部屋の親方は先日稽古を見学に行ったときに、
「いやぁ、なにもしなかったら、わたしなんか真っ白ですよぉ」
 とチャンコをつつきながらいっていて、なんでも親方はいろいろ検討した結果、ずいぶん遠い場所にある美容室でわざわざ予約を取って髪を染めてもらっているとのことだったけれど、頭髪のほうの悩みはいまのところないので、その座ではいいかげんにあいづちを打っていたのだが、たしかかゆくならないとか、染め方が上手いとかそういう評価も佐分利さんはしていたはずで、だとすれば、チイアニにとっては理髪店よりも美容室のほうが一見こちらのほうが敷居が高そうだけれどもあんがい目的に適っているということができるのかもしれなくて、じっさい美容室では顔も剃らないだろうし、顔剃りがなければ、あごにクリームを擦り込まれることもないだろうから、きっといちばん苦手としている「うーん、マンダム」もつまり決めなくていいわけなのだ。顔剃り直前にはこう発するのが礼儀なんだと年上のイトコに刷り込まれたのを、いまだにチイアニが信じているかどうかは知らないけれどね。
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