第34話

文字数 3,277文字


      その三十四

 マイクロバスに同乗していた十組のプレミアム会員さんたちも、やはり例の温泉旅館に泊まることになっていたのだけれど、到着するなり、すぐ直行した混浴の露天にも、食堂にも、かれらはまったく姿をみせなくて、
「どうしたんだろうね」
 とぼくが吸い物をすすると、いずみクンは、
「みなさんきっと、お部屋でハマグリを堪能していらっしゃるんですよ」
 と涼しい顔で、いわゆる寿司隠語をつかいこなしているのだった。
「おいしいですね。ハマグリのお吸い物。わたし大好きなんです」
「そういうことか――いや、びっくりした。いまどき小津安二郎信者でも、こんな隠語つかってないからね」
 遅めの昼食を取ったあとのぼくは、つぎの露天まで体力を温存しておこうと思って、あてがわれた和室でゴロゴロしていたのだが、夏のときにはお会いすることができなかったここの女将さんが、例の置き忘れたキャンディーTシャツを持って、わざわざあいさつしにきてくれて、
「すみません。ちゃんと洗濯までしていただいちゃって」
「キャンディー隊、お好きなんですか?」
「表向きはいちおう好きです」
「わたし若いころ、キャンディー隊のランちゃんに似てるって、よくいわれたんです」
 そういえばたしかに、目もとの感じがちょっと似ているといえば似ている。藤吉久美子にはもっと似ていたけれどね。
 女将さんと入れ替わるかたちで、
「舟倉さん、お久しぶりです」
 と部屋に入ってきたのはここの一人息子の充男くんで、充男くんは若干声をひそめながら、
「おふくろ、舟倉さんのTシャツ持ってきましたか?」
 とぼくにたずねてきた。
「持ってきてくれたよ。すみません」
「とうとう見れる……」
 充男くんは現在二浪中らしいのだが、二浪目に入った今年の四月から母親にあたる先ほどの女将さんの命により、テレビ、ネット等の娯楽関連を、すべて禁止にされてしまっている。
 充男くんはこの旅館で働いている従業員さんたちにもつねに監視されていて、だから前回ぼくが宿泊した夏のときでも、
「コラッ、ミツオちゃん!」
 と大広間でのテレビ鑑賞も古株っぽいおばさんにブロックされていたのだが、それでも機械関係に精通している充男くんは、各部屋に備えられてある二百円くらい入れないとなかのチビっちゃいビンのコーラとかが取れないあのミニ冷蔵庫の調子がおかしいときだけはそれを直すためにお客さんの部屋に入ることはあるらしくて、しかしそのわずかなチャンスも男の客限定ということのようだから、せいぜい客が点けっぱなしにしているテレビやパソコンをチラッと盗み見ることくらいしかできないみたいなのだ。
 充男くんとこうやってしゃべるようになったのも思えばこの修理がきっかけで、充男くんはそのとき、チビっちゃいビンのコーラとミネラルウォーターをサービスしてくれたのだが、有料制ミニ冷蔵庫の調子はあれ以来一台もおかしくなっていないらしいから充男くんもあの日以降たぶん異性がすごいポーズを取っちゃったりしている姿などは鑑賞していないはずで、勉強や体調をきいたついでにそちらのほうもいちおう気にかけてあげると、やはりこの二三ヶ月で拝むことができたのは、女将さんが自宅のほうで干していたぼくのキャンディーTシャツのお三方だけとのことなのであった。
「舟倉さん、この女の子たち、名前なんていうんですか?」
「この子がランちゃん。この子がスーちゃん。で、こっちの子がミキちゃん」
 充男くんは、このTシャツのとくにミキちゃんを見ながらあからさまに恍惚となっていたので、ぼくは、
「よかったらどうぞ」
 とシャツをあげることにした。
「そうとわかってれば、あたらしいの持ってきてあげたんだけど」
 充男くんは各従業員の行動パターンをだいたい把握していて、
「そろそろおばさんが通る時間だ」
 とぼくに何度もお礼をいいつつ部屋を出て行ったが、そういえば充男くんは予備校で顔を合わせていたなんとかちゃんという女の子にお熱になって受験に失敗した関係で、二浪目からは家庭教師というかフリーの赤ペン先生(?)みたいな人に勉強を教わっていて、そしてその家庭教師みたいな人はここの従業員さんたちに「山男」だか「山先生」だかというあだ名をたしかつけられていたはずなのだ。
「自給自足村の連中となにか関係があるのかなぁ」
 この素朴な疑問はいずれ聞くことにして、いまはとにかく風呂である。
 先ほどはすくなくとも異性は露天におられなかったし、いずみクンも今回はあがり症改善のためではなく、卯祖山調査の助手として、いちおう同行しているので、いきなりの露天風呂は、まあぼくも鬼じゃないから免除してあげていた。
 つまり混浴の醍醐味は、まだいっさい味わっていないのである。
 いずみクンにたいし露天での課題をこのようにゆるめているのには、もう一つじつは理由がある。
 いずみクンは先日、れい子先生宅での恐怖のドンジャラ大会に初参戦し、そしてあまりにも長時間れい子先生にドンジャラを付き合わされたがために膝と腰を予想通り若干痛めたわけなのだが、ばあやに紹介された指圧院にも山城さんに紹介された〈かざみ〉にも、やはり恥ずかしがりやさんだけにまだ行けずにいるらしくて、だからぼくは走ってるから膝とか腰とかのマッサージ法はよく知ってるんだよ、などとてきとうなことを四時間ほどゆられていたマイクロバスのなかでいずみクンにいって、
「しめしめ」
 ということになっていたのである。
 ところがここの露天風呂は腰痛などの関節痛にも効果があると謳っていて、といっても豊胸にも効果があると謳っているにもかかわらず前回目がまわるほど入浴したいずみクン自身はぜんぜんその効果のほどを実感していないとのことだったので、それほど神経質になる必要はないのかもしれないが、しかし万が一露天に二三回浸かって腰と膝がすっかり良くなってしまったら今晩おこなわれる予定の自称スポーツ占いマッサージを決行する意味がなくなってしまうわけで、だからすくなくとも初日くらいは露天を控えめにして、せめて一回くらい先の予定を実現させたいとぼくは瞬時にかんがえたのである。
 そんなわけで、きょう二回目の露天風呂にもいずみクンを誘わないことにする。今度こそ、先ほどのマナーうんぬんの女性が入っている予感もするしね。
 ぼくといずみクンはマイクロバスの最後部座席にすわっていたのだが、この最後部にはもう一組のカップルが席を取っていて、そのカップルの女性のほうは男に、
「これから行く旅館には露天風呂があるんだよ」
 とおしえられると、そういうところでバスタオルなんかをからだに巻いて入浴するのはマナー違反だからわたしは手拭い以外持ってかないわ、と明言していた。
 これは、
「やっぱりマナー違反なんですかね?」
「そうよ」
「そうですよね。いけないことですよね。けしからんですよね」
 とぼく自身もしっかり確認を取っているので、まず実行されると思われる。
 男の人のほうは四十前後のその女性よりもおそらく倍以上年をとっていて、それでも道の駅にバスがとまって、
「なにか飲みますか?」
 と女性にきかれると、サントリーの「伊右衛門」かキリンの「生茶」を買ってきてもらうだけのために三万か四万くらい女性に渡していたから、よもや親子ということも逆にないだろうけれど、ちなみにこの一人いざなぎ景気の翁は、ある理由により、パブリックな場での入浴は自粛しているみたいなので、手拭いのみの女性は、しゃべり相手がいなくておそらくたいくつしているはずで、そんなとき、先ほど軽く言葉を交わしたぼくが登場してきたら、
「あら、先ほどの」
「どうも。あっ、やっぱりマナー守ってますね」
 とおもいのほか長湯に浸かることになって、富士額のあのかなりまるっちいおでこあたりに汗をかいて、その汗を手拭いでぬぐって、すると手拭いだけしか女性は持参してきていないわけだから、頭隠して尻隠さずみたいな趣になって、いよいよ混浴の真の醍醐味を、わたくし舟倉環は味わえることになるのである。
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