第5話

文字数 3,350文字


      その五

 たぶん強い焼酎を飲んだせいだと思うのだが、この夜のぼくは、
「ねえ今晩は、付き合ってくださいよぉ」
 という山城さんのお誘いに乗ってしまっていた。
 三十を過ぎたあたりからその志向が強くなったのだが、とにかくぼくはカラオケが苦手で、これはおそらく例の密室で選曲するためにカタログを吟味している寡黙な人びとを観ていて、ハッとその状況のおぞましさに気づいたためである。
 ただし、この説はのちのち捏造した可能性も大いにあって、というのは、去年の秋だったか、姪のノン子の職場の友だちの引っ越しの手伝いをしたときに、その小絵子という子にカラオケに誘われて、
「行く行くぅ」
 とよろこんでお供していたからなのだけれど、それでも自分の歌唱力にあらためてうんざりしたぼくは、その後はひたすら小絵ちゃんの色の白いうなじ等を寡黙に吟味しながらタンバリンなんかをカムフラージュとして叩いていて、ノン子は後日、
「お正月のときも偉そうにいってたけどさ、おたまさん、自分が歌超下手だから、そうやって、カラオケ自体を嫌ってんじゃないの」
 と鋭い指摘を叔父にしてきたけれど、まあじっさいノン子の説のほうが、ずっと説得力があるだろう。
〈賀がわ〉から歩いて十分くらいで行けた〈うなぎの寝床〉というカラオケボックスは、ビルとビルのあいだというか隙間にある駐輪場の二階部分にあって、おそろしく奥に細長い構えになっていた。
 重たいドアを開けて店内に入ると、
「いらっしゃいませ」
 とビールケースにすわっていた受付の人がすぐ応対してくれて、受付の人は、ぼくと山城さんの腕にダッコちゃん人形みたいなものをくっつけると、
「ごゆっくりどうぞ」
 と眠たそうな笑顔で送り出してくれたけれど、しかしその名のとおり“うなぎの寝床”のように奥に長いこの店は、日本家屋の続きの間のように奥の部屋に行くのにその手前の部屋を通らなければならなかったので空いている部屋がみつかるまで、われわれは三畳くらいの各部屋を、
「失礼しまぁす」
 などと後頭部あたりを撫で撫でしながら通過せざるを得なくて、で、シーシー揉み手をしまくったり、熱唱中のお客さんにお世辞を贈ったりしていると、
「ここはどこ? わたしは誰?」
 最後部のお部屋まで、やがてわれわれはたどり着いてしまった。
「空いている部屋は、なかったですね」
「おのおの黙ってスマホをやってた人たちの部屋も、空き部屋扱いじゃないんですか?」
 空き部屋がなかった場合、こちらの店は個々の責任で相部屋を打診するシステムになっているらしく、どうやらこのシステムが山城さんを惹きつけている一番の要素みたいだったが、
「ここで相部屋になったのが縁で、結婚したカップルもいるんですよぉ」
 と息巻いていた山城さんは最後部のこの部屋に来るまでにおそらく目をつけておいた、お一人で能瀬慶子の『アテンションプリーズ』をうたいつづけていた三十前後の女性の部屋にさっそく相部屋の打診をしに行ってしまって、取り残されるかたちになったぼくも、ここでもじもじしていてもはじまらないので、軽食コーナーでバニラシェイクを注文したのちに交渉をしに、来た道をもどることにした。
 素性のよさそうな人がいなかったためか、あるいはバニラシェイクをチューチューやっていた関係で揉み手を怠っていたためか、ぼくは相部屋の交渉におもいのほか苦戦していたのだが、おのおのが黙ってスマホをみつめている例の部屋で、おのおのに合わせるようにカタログをみていると、またぞろぼくは変なクイズ番組にスペシャルゲストとして出演していたからおそらくいつのまにか眠ってしまったようで、それで田宮二郎だと思われる司会者が問題を読み上げている流れでとつぜん『アテンションプリーズ』をうたいだしたので、ぼくは素早くボタンを押して、
「『愛は心の仕事です』」
 と『アテンションプリーズ』をも陵駕するほどの衝撃力を持った楽曲をあげてみたのだけれど、その自分の声だか富永先生と鈴木先生の取っ組み合いだかにおどろいて目を覚ますと、スマホ三人組はもう部屋にはいなくて代わりに伝説の評論家栗塚歳三氏が、たらいのお湯で足を洗ったり揉んだりしていた。
「よく眠られていたので声はかけなかったのです。相部屋よろしいでしょうか?」
「ももも、もちろん」
「ありがとうございます。いまおっしゃった曲、この機械で呼び出しますか?」
「いえいえ、いまちょっと夢をみてまして、ありがとうございます」
「寝言でしたか」
 山城さんの情報はガセネタではなくて、栗塚氏は現在も放浪の旅をしつづけているとのことだったが、この過酷な旅は宇宙のなにかをつかむためにあえて厳しいルールを自分に課しておこなわれているらしく、だから放浪資金のようなものも最初からほとんど用意していないと栗塚氏はおっしゃるのだった。
「この店には、ある方のご好意で、入ることができたのです。サセレシア」
 なるほどそういえば、左腕についているダッコちゃん人形みたいなものの色が、われわれとはちがう(ぼくのはピンク。栗塚氏のはゴールド)。
 お話をうかがっていると、栗塚氏が顔パスになるよう手配したのは「キャンディー隊を再結成させる会」の幹部候補だった人らしく、
「じつはぼくも、再結成させる会の会員だったんですよ」
 というと、栗塚氏は瞳をカッと見開いて、
「そうでしたか、それはサセレシアですな」
 と表情を途端にくずしていたけれど、しかしぼくがこのとき持ち合わせていたものは、いくらかのお金と健康ランドの無料券くらいしかなかったので、とりあえず免許証の裏に小さく折り畳んで入れてある自転車パンク時用の千円札とその無料券を氏に渡すことにした。栗塚氏はぼくのことを、大旦那みたいに呼んでくれていたしね。
「すこしですけど、放浪資金のたしに」
「そんな」
 栗塚氏はお金のほうは受け取らなかったけれど、無料券のほうは滝湯なんかもありますよ、仮眠室なんかもカプセル状になっていて宿がわりになっちゃいますよと説明すると、恐縮しながら受け取ってくれた。
「二〇〇八年にかならずキャンディー隊は降臨する」
 と断言し、それを前提に物事を進めていた「キャンディー隊を再結成させる会」は、その年になにごともおこらなかったのを期に活動休止というか大幹部たちも一二回小規模のバーベキューをやったくらいで、そのあとは完全に消息を絶っているのだけれど、栗塚氏がまた会報に論文を書いてくれるなら、そして萩原さんがふたたび半ズボンをはいてくれるなら、ぼくはよろこんで集会にも出席するし、会費だって、たぶん大旦那然とした物腰で払っちゃう。
 しかし栗塚氏はもうキャンディー隊にはほとんど期待していないようだった。
 ぼくがスーちゃんのことに言及しても苦笑いをしているだけだし、ランちゃんの容姿を大げさにほめても、乗ってくるどころか、遠回しに本当は天地真理ちゃんが一番好きみたいなことを、ぼそぼそいっている。
「真理ちゃんのほうが、好きだったんですか?」
「真理ちゃんのプレミアムボックスは迷わず買いましたが、キャンディー隊のは、ベスト盤しか持ってないのです。サセレシア」
 この栗塚氏の潔さに感銘を受けたぼくは、じつはぼくもキャンディー隊にたいする思い入れはそれほどでもなくて、萩原さんとおっしゃる半ズボンの女性に好意をよせていて、それであの会に潜入していったんです、サセレシア、と文末にいつも付けているこの「サセレシア」の意味もいまだわからぬままに告白してしまったのだけれど、
「なるほど、サセレシア」
 と瞳を閉じていた栗塚氏は、
「その子はきっとレイちゃんだな。髪型がまるっちい感じでしたか?」
 と逆にこちらにきいてきて、ぼくが「そうですそうです」と身を乗り出してこたえると、栗塚氏は、もし放浪の最中に彼女に会えたらよろしく伝えておきますサセレシアと、バニラシェイクを物欲しそうに一瞬見たのちにいってくれた。
「よよよ、よろしくお願いします。あっ、バニラシェイクもう一杯飲みたいなー。ちょっと買ってきますけど、栗塚さんもどうですバニラバニラ。そうだ、ぼくの姉の嫁ぎ先が老舗の旅館でしてね、老舗といっても、老朽化しているだけなんですけどね――」
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