第6話

文字数 3,308文字


      その六

 シェイクを飲んだあとの栗塚氏は、ぼくにリクエストした桜田淳子の『夏にご用心』を子守歌がわりにして、力尽きたように眠っていた。
 だからぼくはまず〈賀がわ〉まで徒歩でもどって、そのあとは自転車をコロコロ転がしながらマンションに帰ったのだけれど、山城さんには、けっきょくメールなどは送らないでいて――というのは、自室にもどるまで山城さんのことを、わすれていたからである。
 明け方布団に横になって、昼ちかくに目が覚めたぼくは、最初ちょっとあたまが重かったが、それでもMの森総合公園まで歩いてみると、それなりにシャキッとしてきたので、とりあえずジョギングコースを五キロほどスローペースで走ったのだが、その後自室にもどってシャワーを浴び、りんごジュースや牛乳をゴクゴク飲むと、だんだんお腹もすいてきたので、ぼくはいよいよそうめんを茹でることにする。
 思えば近年、そうめんは切らしたことがない。
「キャンディー隊を再結成させる会」に入会したばかりのころ、ぼくは奇跡的に萩原さんがこのマンションをたずねてきた場合を想定して、実家からキャンディー隊のポスターをくすねてきたり、キャンディー隊のスーちゃんのそっくりさんが現在でも広告塔になっている〈やはぎ〉というメーカーのそうめんを大量に買っておいたりしていたのだけれど、当時は〈お食事処清水〉の直美ちゃんのこともかなり好きだったので、そういう熱意はさすがに長くはつづかなかったが、しかしそうめんのほうは、スーパーで安くなっていたほかのやつをてきとうに食べて、
「やっぱり〈やはぎ〉のほうがおいしい」
 と再確認して以来、この〈やはぎ〉一筋ということになっていて、もちろん茹で方にもぼくなりのこだわりがあって、たとえばチャッチャッと水を切るときなんかでも、かならず左手でザルを持って、右手は自転車の手旗信号の右折みたいにしているのだけれど、この日はうかつにもそうめんを茹でている鍋を泡だらけにしてしまって、同時につくっていためんつゆのだしの分量も、分量というか薬味をだしとまちがえて投入していて、とまあなぜこんなにリズムを乱してしまったかというと、つまりとうとうお客さんがウチのインターホンを押して、料金をたずねてきたからなのである。
「人生相談のほうをお願いしたいんですけど、こちらだけだった場合のお値段は……」
「まあ専門家なんでねぇ、ホントは高いんですけど、今回はとくべつにワンコインでいいですよ!」
「ワンコイン! 五十円ですか?」
「五十円かぁ……まあ、それでいいですよ、はじめての方だしね」
 このお客さんはたしかにはじめての方だったけれど、お話するのは、はじめてではなくて、玄関を開けて、
「ああ!」
 とすぐ気がついたぼくは、先日の試飲品にたいして、いちおうお礼をいっておいたのだが、あの一連の短期パートはもう終了したという彼女は、
「麦川いずみです」
 と名乗ると、
「どうぞ。あまり片づいてもいないけど」
 とぼくが手招きしたテレビとコタツテーブルがある居間扱いの部屋で案の定すわることもせずコチコチになっていて、だからさっきネギを入れてしまっためんつゆにだしを入れ直して、
「どうかな?」
 と事情を説明したのちに、まずは味見をしてもらったのである。
「大丈夫。おいしいと思います」
「そう? ネギだから平気だよね。どうせ薬味で入れるんだしね」
 占いをするまえに、
「お茶を淹れてあげたり、下世話な話をしたりして、お客様をまずリラックスさせる。そのあいだに自分の緊張も解きほぐす」
 うんぬんと教えてくれたのは“一見民家にしかみえないカルチャーセンター”に属している裏方の人で、朝食にオムライスを食べたのでお昼はクッキーを二枚かじっただけらしい麦川さんにだからそうめんもすすめてみると、最初遠慮していた彼女は、
「いただきます」
 とそれでも割り箸を緊張した面持ちでパチンと割っていたのだが、はじめから人生相談のほうを希望している麦川さんに、お菓子の缶にしまってあるこのブロマイドは必要ないのであって、
「ふー」
 のっけからジュディ・オングのブロマイドを引いてしまって、完全に言葉を失っていたぼくは、そんなわけで、この大ピンチからはおかげさまで救われたのである。
「これからそうめん食べるのに、なんでおれ、占いやろうとしちゃったんだろ……」
「それにこれ、いきなり夫婦茶碗ですよ」
「あん」
 麦川さんはぼくが九ヶ月ほど通った例のカルチャーセンターに紹介されてここを訪れたらしく、当初「あがり症克服」か「恥ずかしがりやさん改善」の講座を申し込もうとした麦川さんは、パジャマ姿であらわれたセンター長に事情を話すと、
「うーん」
 と三十分ほど考え込んだセンター長に、
「ボクもあがり症なの。だからできない」
 とだけいわれて、
「おもての看板に書いてあるのに……」
 と釈然としないまま、おウチに帰ったらしいのだけれど、しかしツナ缶の手土産を持って後日センターにまたおもむくと、今回もパジャマ姿であらわれたセンター長は、
「ボクがツナ缶好きなの誰かに聞いたの?」
「いいえ」
「合格。運がある」
 と“占い師の舟倉”をなぜか紹介してくれたのだそうで、
「運があるっていうのはわかるけど、なんで、おれなんだろう?」
 あいかわらず大将の発想は、よくわからないことになっているようだ。
「大将?」
「そのセンター長のこと。みんなそう呼んでるんですよ」
〈かねもとカルチャーセンター〉通称“キンカル”にたずさわった人びとは、みんなこのセンター長を「大将」と呼んでいて、ちなみに大将はホントにツナ缶が大好物で、大将に感謝の意を表したいときは手っ取り早くツナ缶を贈るのが良いというのがわれわれのあいだでは定説になっているのだけれど、さらに大将がパジャマ姿なのは、自宅だからあたりまえのように思うかもしれないが、大将に深く関わった人たちにいわせると、インスピレーションを呼び込むためにあえて着ているのだそうで、二階で事務的な作業をしているブレーンみたいな人たちも師に倣ってだろう、年がら年中、寝間着で仕事をしているようなのである。
 ところで、
「舟倉さんは『あがり症克服』とか『恥ずかしがりやさん改善』のアドバイスも裏メニューみたいな感じで、なされているんですか?」
 という麦川さんの素朴な疑問に、
「そうですよ」
 と間髪を容れずこたえたのは、またぞろセンターサイドからの教えを受けてだろうと思われるかもしれないけれど、そうではない。
 いったいに大将は、直線的に物事や会話が進むのを良しとしないところがある。
 だから先のようなことをきかれたら、百歩譲って「はい」とこたえたとしても、そのあとその「はい」をうやむやにするような方向に持っていかなければ、予告なしにおこなわれる大将の鬼指導からは解放されないのだが、ぼくがそういうリスクを負ってまでこう即答したのは、要は麦川さんのかなり細身すぎではあったが、しかしたいへん色の白い容姿にまたしてもグッときていたからで、麦川さんは最初人生相談を希望したのは大将に指示されてそうしたんです、料金をきいたのはわたしのアドリブです、ともう大将という呼び名を使いこなしつつ、そうめんを食べていたけれど、そのつるつるやっている感じも上品でありながらどこかお転婆っぽいところもあって魅力的で、箸を持っているお手手もきれいでショートの髪型のため、かなりよく吟味できるうなじももちろん白くてうぶうぶ感があって、もちろんワンピースで、年齢は最初みたときは二十歳前後かと思ったが、こうやってよくうなじ等を吟味してみると、二十五六くらいのような気もしてきたから、個人的には二つ三つ年上くらいのほうがコンテンツ的には好きなのだけれども、まあ一般的には女ざかりでけっこうなときで、つまりなんていうか、もう〈お食事処清水〉の直美ちゃんなんかわすれちゃうくらい、相当グッときていた。
「舟倉さん、さっきから拳をにぎりしめてますけど、このたまご焼きは食べちゃいけなかったのかしら?」
「食べて食べて。この拳は、ちょっとグッときてたもんでね」
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