第四話 唯一の例外

文字数 2,747文字

 我にかえったシドが時計に目をやると、すでに真夜中だった。秒針が時を刻む音だけが静かな室内に響く。消し忘れた仄かな灯りが、シドと、そしてジェイの顔を照らしていた。
 飲み残された赤い酒の反射光。ぬらぬらと狂気に誘う色を目にしたシドが、診察鞄に手を伸ばした。取り出されたのは、薬包紙に包まれたあの劇薬。致死量のきっちり二倍。間違いなく死ねる量だった。

 身体を起こしたシドが、ジェイの顔を覗きこむ。
「ジェイ」
 そっと囁く。愛しげに。ただ一人の自分の神に。その耳に、瞼に触れる。そして唇に。
 『お前は死なないよ』
 そんなことを言ったね。貴方のいない日々など、私には拷問でしかないのに。
 シドの頬に静かに涙が伝い落ちた。冷たい唇に口づける。自分だけのものにしたくて。自分だけを愛してほしくて。抑えに抑えていた想いを込めて。
 今ならば、この想いは誰にも止められない。誰にも。ジェイにすら。ずっとこうしたかったのだ。

 飲み残されたワインの上で薬包紙が広げられた。ペーパーナイフを取り上げたシドが毒の粉をかき混ぜる。
 しかし、シドの手は突然鳴った呼び鈴の音に押さえつけられた。そこに、見えない意思が働いたかのように。

 ◇

「遅かったか……」
 そう呟いたのはロイだった。
 ロイは、ジェイの遺体の前でじっと瞼を閉じていた。シドの心が哀しみから憎悪に切り替わる。もっとも憎むべき男が、いま目の前にいるのだ。
 全てを失ったシドのなかに、ぽつりと誘惑が浮かんだ。
 これは私に与えられた復讐のチャンスかもしれない。ロイの前で死ぬ。これほど残酷で魅力的な終わらせ方があるだろうか。
 すっと振り返ったロイは、なにも言わずに居間に足を向けた。グラスを手にしたシドがその後を追う。
 彼の心はもう、完全に狂気に支配されていた。

「ワインでもいかがですか?」
 感情を映さないシドの声。それが居間の奥からゆっくりと近づく。テーブルには二つのグラスが置かれた。一つは、解放に向かう切り札だった。
 グラスではなく、ロイはシドの顔を見た。その表情はどこか哀れみを含んでいる。
「間にあったのか?」
「いえ……」
「そうか。嫌な予感ほど当たるものだな」
 独り言のように呟いたロイが隣の寝室に目を向ける。

 その瞬間をシドは逃さなかった。そっと、自分でも驚くほど冷静にグラスに手を伸ばした……が。手はグラスの手前で止まった。いや、押さえつけられていた。
「死ぬのは簡単だ。少佐」
 特殊能力で抑え込まれ、シドは微動だに出来なかった。顔を逸らしたまま、ロイが説明を付け足す。
「君が自殺を考えていることは知ってたよ。あんな目立つ棚に、劇薬の瓶を置くべきではないな」
 シドは瞼を開けていることしか許されず、声を出すことすら出来ない。

「いい事を教えてやろう」
 ロイの低い声が、容赦なくシドの耳に捻じ込まれる。
「ジェイは要領がいいように見えて、本当は馬鹿がつくほど不器用なんだよ。何か一つを手にしようと決めると、未練も一緒に他を切り捨てる。そうしなければ本物を手に出来ないと信じ込んでいたんだ。その彼が、なぜ最後まで君を捨てなかったと思うか?」

 シドの心は激しい怒りで煮え滾っていた。沸騰する憎悪が視界を血の色に染め上げる。
 なぜこいつに、こんな話を聞かされなければならないんだ! なぜ卑怯な手段で、最後の望みすら取り上げるんだ!
 だが。ロイはシドの心情など一切無視した。冷徹で非情な最高司令官そのままに、淡々と事実を告げる。
「出来なかったんだよ。あの頑固者の完璧主義者が、『唯一の例外』をつくってしまったんだ」

 唯一の……例外?
 あまりの衝撃に、シドの思考が止まった。

 ──さあ、認めなさい。あなたが最後の浄化する者です。彼に託しなさい。これまでずっと、あなたの祖先がしてきたように。

 ロイの脳裏に、あの『声』が反響した。
 束ねるものの意思を伝えるのは、かつての王女。最初の生贄の声である。
 彼女の名はアーリッカ。どんなに優れた画家でも描き出せなかった美の化身。この星の海に泡と消えた『告げる者』。
 ロイはその声に従うと決めた。抵抗が無意味であることを認めるしかなかったのだ。しかし、彼には最後にしなければならないことがあった。導く者を生かすために、しなければならないことが。

「少佐。いや、ドクター」
 ロイのトパーズの瞳が潤んだように見えて、凍り付いていたシドの感情が動いた。
「人を診るよりも、まずは自分に訊いてみるのだな。その結果がこの方法しかないのなら、私はもう止めない。ジェイの魂のために生贄が必要なら」
 そう言うなり、ロイがシドの側に置かれたグラスを手にした。意味を察したシドの顔から、一瞬で血の気が引く。

 百年目の最後の生贄。ロイが一気に毒をあおった。
 顔を背けることすら出来なかったシドが力から解放されたのは、ロイが息絶えてのちのことだった。
 欲しいものは奪う。ロイは己の望むままに死を奪い取った。安息の地は、ロイの最後のよすが……彼のことをずっと待っていてくれたジェイのもとだった。

 ◇

 シドはロイ毒殺の容疑で拘束されたが、ロイの弁護士から提出された遺書によって嫌疑が晴れ、釈放された。
 そしてシドの辞意を認めなかった軍は、彼に基地での地上任務を命じた。
 いまシドは、医務室の窓から閑散とした滑走路を眺めている。冬の日には珍しいほど空は綺麗に晴れていた。

 あの日からシドのなかでずっと鳴り響く言葉がある。
 ──唯一の例外。ロイが置いていった遺言。

 シドの大きくえぐれてしまった心では、その意味は理解できない。退屈すぎる時間が、欠けた心の上を無為に通り過ぎてゆく。

「ジェイ」
 呟いたシドの顔は笑っていた。それはいつもの苦笑ではなく、どこか幸せに満ちた歪んだ笑みだった。

 ◇

 航行中の空母に搭乗していたカツミのもとに、二つの訃報が届いた。覚悟していた訃報と、あの日の微かな警鐘を裏付けた訃報が。皮肉なことに、父の死に場所がジェイの別邸だったため、ジェイの死も併せて知らされたのだ。
 少しのあいだ彼は泣いた。しかしすぐに全ての悲しみを捻じ伏せて顔を上げた。

「ジェイ」
 その名は生きるための希望。呟くだけで行く手が示される羅針盤。道具ではなく人として無条件に愛された記憶は、カツミの生きる拠り所となった。

 ──束ねるものと出会いなさい。これから連綿と続く、この国を束ねてゆくものと。そのものの指し示す事々に従いなさい。この混沌を救う神に出会いなさい。

 ──導く者。カツミが自己を受け入れ能力の封印を解く時、その声は彼に届く。
 本心を炙り出す鏡。百年かけて磨かれた鏡に、最初にいのちを映した人物。

 それが、ジェイ・ド・ミューグレーだった。



──『ONE』第一部 了──

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登場人物紹介

□カツミ・シーバル

主人公。

男性。十九歳~二十歳。少尉~少佐。飛行隊。

眉目秀麗。幼顔で中性的。身長160センチ。華奢で小柄。

右の瞳がトパーズ色、左の瞳がクリムゾン色のオッドアイ(ヘテロクロミア)。

肩まで伸びたやや癖のあるクリーム色の猫っ毛。

最高位の士官学校を首席卒業した優秀な人物。父親は特区の最高責任者。

母親はカツミを産んですぐに死亡。一人っ子。

育児や教育は使用人によって行われ、父親からネグレクトと虐待を受けて育つ。

拒食症で不眠症。体力は特殊能力で保持している。

超A級特殊能力者だが、子供の頃に父親の本音を知るのが怖くなり、能力のほぼ全てをみずから封印した。

ただし戦地では解放している。

口癖は「ごめん」。自虐的で自罰的。逆に天然な面があり、小悪魔的。

無意識に他人の本音を引き出す言動をする。

必要のない人間だと言われることを極度に恐れている。寂しがり。

□ジェイ・ド・ミューグレー

カツミの恋人。

男性。二十八歳~二十九歳。少佐。研究者。

貴族の家柄。家は財閥系の情報企業。長男で弟がひとりいる。

身長180センチ。すらりとした長身。黒髪。淡い茶色の瞳。眼鏡をしている。

幼い頃から天才と騒がれ跡取りとして大事に育てられる。

幼年学校は二年スキップしたにも関わらず、あらゆる資格を取得。

士官学校も一年スキップで卒業する(ラヴィ・シルバー以来の快挙)。

家の跡を継ぐまでの間という約束で長年の夢であった特区入隊を果たすが、事故により飛行隊任務が出来なくなる。婚約も破棄。任務も研究職に変える。家の跡取りは弟に変わる。

カツミにとっては父親的存在。

優しさと狡さ、独占欲と包容力を持つ。

長いスパンで先を見通すため、他人には理解し難く、アンビバレンツな人物に見える。

□シド・レイモンド

ジェイの元恋人。一年前に別れたが、現在も未練を持っている。

男性。二十八歳。少佐。軍医(外科医)。

実家は開業医。父親は外科医。母親はシドが十歳の時に離婚。一人息子。

肩まで伸びた癖のある栗色の髪。栗色の瞳。女性的な印象。

スキップで入学した医大を首席卒業した切れ者。毒舌家で皮肉屋。挫折を知らない世渡り上手。

カツミの恋敵的存在だが、いい人を演じている。

□フィーア・ブルーム

カツミの同僚。ライバル的存在。

男性。十九歳。少尉。飛行隊。

さらりとしたクリーム色の髪。深く青い瞳。A級特殊能力者。

母親から虐待を受けて育つ。士官学校に入る前からアーロン(ジェイの弟)に見出され、支援を受ける。

温厚で控え目な性格を演じているが、他人に本音で接することを恐れている。

□セアラ・ラディアン

カツミの姉的存在。関係は一度だけあるが実質片思い。

女性。十九歳。少尉。管制塔任務。

さらりとした長い黒髪。栗色の瞳。美少女。

天真爛漫。反面、思慮深く母性が強い。

大きな瞳をくるりと上に向けて微笑む癖がある。

□ユーリー・ファント

カツミの同僚。上官。

男性。二十五歳。少佐。飛行隊。

実家は貿易商。サラの幼馴染み。自称情報通。A級特殊能力者。

社会背景や軍の在り方に強い疑問を持っている。

困った時に頭を掻く癖がある。

□ロイ・フィード・シーバル

カツミの父。特区の最高責任者。

男性。四十七歳。中将。

クリーム色の短髪。トパーズ色の瞳。長身。

実力主義の冷酷な人物。カツミのことは所有物と思っている。

A級特殊能力者。

□ルシファー・セルディス

カツミの同僚。後輩。

男性。十八歳。少尉~大尉。飛行隊。カツミのフライトオフィサ。

実家は百貨店経営や貿易を営む名家。兄と姉がおり、末っ子。

さらりとした黒髪。深い緑色の瞳。身長180センチ。長身。

A級特殊能力者。特に『聞く者』の能力に長けている。

他人の心の裏側が聞けることで、子供の頃は人間不信で攻撃的だった。

聞けることが当然で育っているので、シールドが高く聞けないカツミに振り回される。同時に唯一の分からない相手であるカツミに惹かれる。

口が達者だが奥手。頭脳先行型。俯瞰から物事を見るのは得意だが、他人の気持ちは察するよりも読んできたので、思い図ることが苦手。観察者側に自分を置く。

読書が趣味。常に分厚い本を読み漁っている。愛読書は『廃船の記録』。

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