第五話 死から生へ

文字数 2,666文字

 喉の奥が疼くような、いたたまれない焦燥感。何が願いで、何が欲しくて、何を伝えたいと思っていたのか。望みが焦りにかき乱されて霧散する。
 ジェイの顔を見たとたん、カツミは自分の気持ちが切なさだけに染まるのを感じた。
 こんなことを言いたいわけじゃない。困らせるようなことは言うまい。思いやって少しでも安心させたい。そうすることで自己暗示をかけたいと……思っていたはずなのに。

「ごめん。ジェイ」
「分かってるよ」
 口ごもったカツミにジェイがふっと目を細めた。だから言葉にしなくていい。そう聞こえた気がして、カツミは声が出せなくなる。
「自分を虐めるな。私はここにいるだろう?」
 カツミの瞳が見る間に潤んでいく。
「私はお前がいてくれるだけでいい。他はいらないよ。ずっとこうして、触れて見つめて存在を確かめて、甘えていてほしい。勝手だろう?」

 美しい瞳に涙を滲ませ、カツミが本音をこぼす。
「連れていってくれる?」
 ジェイがわずかに眉を寄せた。それこそが本当の望み。しかし同時に、決して受け入れられないこと。

 カツミの双眸が本心を炙り出す。隠しても誤魔化しても一番の望みを映し出す。カツミは、まるで鏡のように相対する者の本心を暴く。
 真実を映す鏡。ジェイはその鏡に魅了されたのだ。

 ──ずっと側にいて。離れないで。忘れないで。
 それはジェイがカツミに願っていることだった。だがこの言葉は、生者にしか意味がない。死者には無価値なのだ。

 ジェイは思う。自分の言葉が──カツミというフィルムに映す色が──彼を生かすのだと。
 カツミはまだ透明なままだ。自分が死という色を突き付ければ、それをそのまま映しとる。そして生という色を与えれば、それもまたそのまま投影される。
 向ける言葉のひとつひとつが、カツミのなかに沁みとおる。この口に上らせる言葉ひとつで、愛するものをどちらにも振り向けることができる。

 ──死から生へ。カツミを生かすために言わなければならないこと。
 ジェイには分かっていた。カツミはもう決意しているのだと。ただその決意を自分に認めてほしいのだ。背中を押してほしいのだ。

「俺が一人でいられるなんて思ってた? たった一人でいられるなんて思ってた?」
「カツミ」
「俺の一番望んでたこと知ってた?」
 ジェイがカツミの首の痣に手を触れた。シドの指痕がまだ残る首筋。その痕に指を添わせると、カツミが細く息を飲む。

「知ってたよ。けれど私はお前に生きててほしい」
 独占欲は相手を殺す。それはフィーアによって裏付けされていた。ジェイは自分の独占欲が満たされないことに落胆しながらも、みずからの死によってカツミの持つ可能性を殺さずに済むことに安堵する。
 もし自分にまだ時間が残されていたら……。しかし、ジェイはそこで思考を打ち切った。無意味な仮定に思いを巡らす意味など、どこにもなかったからだ。

「私はカツミに生きててほしい。それだけが願いだ」
 葛藤を押し殺してジェイが告げる。いのちそのものである美しい瞳から涙が零れ落ちるのを見つめながら。

「それが望みなの?」
 ジェイの本当の望みは、この寮の屋上から命を投げ捨ててしまった魂が持ち去っていた。
 フィーアはジェイに教えていたのだ。愛情と欲との違いを。与えることと求めることの違いを。差し出すことと奪うこととの違いを。そして、ほんのわずかの生と死の隙間に、どれだけ多くのものが隠されているのかを。

 本当の望みを超えて、視点を自己から相手に向けて。相手を生かすためになにが必要か。それだけを思う。
 ジェイは自身の本心を捨てて、それを超えたものに置き換えた。カツミを生かすために。それだけのために。

「そう。それが望みだ。これは終わりじゃない。始まりなんだよ」
「始まり?」

 流れる涙を拭おうとせず、ジェイを仰ぎ見るカツミ。その顔を優しく見下ろしながらジェイが微笑む。告げる言葉のひとつひとつをカツミのなかに映し込むために。

 透明で無垢なこころの水面に、自分が一滴のインクを落とすだけで、カツミの魂はその色に染まっていく。
 透明な大気がいのちのクリムゾンに染まる。
 この幼い魂は自分の向ける言葉ひとつで、いかようにも染まっていく。終わらせるわけにはいかないのだ。

「死は消滅じゃない。一つの通過点だ。お前がいなければ、私がいた意味はなくなってしまう。そこで終わってしまうんだよ」
「ジェイのいた意味?」
「カツミは私がいたことで知ったことがあるだろう?」
 ──これは終わりではない。全ての始まり。
 ジェイのいた意味は自分のなかにある。死によってしか得られない生。ジェイの死という通過点を通らなければ、繋いで行けないいのち。

「終りじゃないの? なくならないの?」
「そうしてしまいたいのかい?」

 問い返されて、カツミは心の中でかぶりを振る。
 やっと掴み取れたこの想いを失くしてしまうことなど、決して出来ないと思っていた。
 想いを残す。それは自分が生きることでしか叶わないのだ。

「私はお前のことしか見えないんだ。お前のことしか愛せない。こんな想いが消えると思うかい? 永遠に無くなってしまうと思うかい?」

 カツミは、あの黄昏に溶ける墓地で死に問われたことを思い出していた。生と死がどれだけ近くにあるのかということを。死はどんなに抗おうと必ずこの身に訪れることを。
 与えられている時間は無限ではないのだ。そのわずかな時間の中で、いま自分を包む人が向けてくれるもの。それがどれだけ貴重かを、カツミはようやく知ることが出来た。

 ──いのちのクリムゾン。
 ジェイがカツミに映したものは、言葉にならない。
 だが、カツミはそれをどうにかして言葉に変えようとした。

「好きだよ。ジェイ」
 切ない告白にジェイの問いが重ねられた。
「自分のことも好きかい? 私が好きなお前のことを、私と同じくらい好きかい?」
「ジェイ」
「そう思ってくれることが、私の一番の望みだ」

 今ならば、カツミはジェイの真意を理解できる。ジェイが差し出してくれる想いは温かく優しい。しかしとても厳しいのだ。
 カツミは身震いした。自分のことを好きになる。自分のことを受け入れる。それはとても難しいことだった。でも少なくとも今だけは、ジェイの想いに応えなければ。少なくとも今だけは……。

 自分を抱きしめる肩が震えている。カツミは、今まで一度もそれを感じたことがなかった。
 ジェイが涙を堪えている。自分以上の葛藤の中で、心の叫びの中で、涙を堪えている。
 その叫びが、カツミには聞こえるようだった。
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登場人物紹介

□カツミ・シーバル

主人公。

男性。十九歳~二十歳。少尉~少佐。飛行隊。

眉目秀麗。幼顔で中性的。身長160センチ。華奢で小柄。

右の瞳がトパーズ色、左の瞳がクリムゾン色のオッドアイ(ヘテロクロミア)。

肩まで伸びたやや癖のあるクリーム色の猫っ毛。

最高位の士官学校を首席卒業した優秀な人物。父親は特区の最高責任者。

母親はカツミを産んですぐに死亡。一人っ子。

育児や教育は使用人によって行われ、父親からネグレクトと虐待を受けて育つ。

拒食症で不眠症。体力は特殊能力で保持している。

超A級特殊能力者だが、子供の頃に父親の本音を知るのが怖くなり、能力のほぼ全てをみずから封印した。

ただし戦地では解放している。

口癖は「ごめん」。自虐的で自罰的。逆に天然な面があり、小悪魔的。

無意識に他人の本音を引き出す言動をする。

必要のない人間だと言われることを極度に恐れている。寂しがり。

□ジェイ・ド・ミューグレー

カツミの恋人。

男性。二十八歳~二十九歳。少佐。研究者。

貴族の家柄。家は財閥系の情報企業。長男で弟がひとりいる。

身長180センチ。すらりとした長身。黒髪。淡い茶色の瞳。眼鏡をしている。

幼い頃から天才と騒がれ跡取りとして大事に育てられる。

幼年学校は二年スキップしたにも関わらず、あらゆる資格を取得。

士官学校も一年スキップで卒業する(ラヴィ・シルバー以来の快挙)。

家の跡を継ぐまでの間という約束で長年の夢であった特区入隊を果たすが、事故により飛行隊任務が出来なくなる。婚約も破棄。任務も研究職に変える。家の跡取りは弟に変わる。

カツミにとっては父親的存在。

優しさと狡さ、独占欲と包容力を持つ。

長いスパンで先を見通すため、他人には理解し難く、アンビバレンツな人物に見える。

□シド・レイモンド

ジェイの元恋人。一年前に別れたが、現在も未練を持っている。

男性。二十八歳。少佐。軍医(外科医)。

実家は開業医。父親は外科医。母親はシドが十歳の時に離婚。一人息子。

肩まで伸びた癖のある栗色の髪。栗色の瞳。女性的な印象。

スキップで入学した医大を首席卒業した切れ者。毒舌家で皮肉屋。挫折を知らない世渡り上手。

カツミの恋敵的存在だが、いい人を演じている。

□フィーア・ブルーム

カツミの同僚。ライバル的存在。

男性。十九歳。少尉。飛行隊。

さらりとしたクリーム色の髪。深く青い瞳。A級特殊能力者。

母親から虐待を受けて育つ。士官学校に入る前からアーロン(ジェイの弟)に見出され、支援を受ける。

温厚で控え目な性格を演じているが、他人に本音で接することを恐れている。

□セアラ・ラディアン

カツミの姉的存在。関係は一度だけあるが実質片思い。

女性。十九歳。少尉。管制塔任務。

さらりとした長い黒髪。栗色の瞳。美少女。

天真爛漫。反面、思慮深く母性が強い。

大きな瞳をくるりと上に向けて微笑む癖がある。

□ユーリー・ファント

カツミの同僚。上官。

男性。二十五歳。少佐。飛行隊。

実家は貿易商。サラの幼馴染み。自称情報通。A級特殊能力者。

社会背景や軍の在り方に強い疑問を持っている。

困った時に頭を掻く癖がある。

□ロイ・フィード・シーバル

カツミの父。特区の最高責任者。

男性。四十七歳。中将。

クリーム色の短髪。トパーズ色の瞳。長身。

実力主義の冷酷な人物。カツミのことは所有物と思っている。

A級特殊能力者。

□ルシファー・セルディス

カツミの同僚。後輩。

男性。十八歳。少尉~大尉。飛行隊。カツミのフライトオフィサ。

実家は百貨店経営や貿易を営む名家。兄と姉がおり、末っ子。

さらりとした黒髪。深い緑色の瞳。身長180センチ。長身。

A級特殊能力者。特に『聞く者』の能力に長けている。

他人の心の裏側が聞けることで、子供の頃は人間不信で攻撃的だった。

聞けることが当然で育っているので、シールドが高く聞けないカツミに振り回される。同時に唯一の分からない相手であるカツミに惹かれる。

口が達者だが奥手。頭脳先行型。俯瞰から物事を見るのは得意だが、他人の気持ちは察するよりも読んできたので、思い図ることが苦手。観察者側に自分を置く。

読書が趣味。常に分厚い本を読み漁っている。愛読書は『廃船の記録』。

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