第二話 棘の壁と空気の壁

文字数 2,873文字

「カツミくん!」
 自室のある階にようやく辿り着いたとたん、カツミは背後から声をかけられた。彼のことを『くん』呼ばわりするのは彼女くらいのものだ。
 廊下にいた他の隊員から、カツミに冷ややかな視線が向いた。それを振り払うように、カツミはむっとした顔のまま声の主を無視して大股で歩き続ける。
「待ってよ!」
 艶やかな黒髪を揺らし、カツミの態度などお構いなしに追いかける少女。まるで子犬のように、無邪気に。
 他の隊員から失笑が漏れた。最高責任者の息子という鼻持ちならない人物と天真爛漫な美少女。絵に描いたような美男美女の組み合わせだが、カツミへの反感が増すばかりである。

「ちょっとぉ!」
 無視されたままの彼女が追いつくと、カツミの後ろについて一緒に部屋に入った。カツミはいまだ無言である。目も向けずにソファーに腰を下ろす。
「なに、怒ってんのよ」
 ぷぅと頬を膨らませた彼女の名は、セアラ・ラディアン。管制塔勤務のオペレーターで、カツミとは同期。恋人ではあるが、実際はセアラの片思いである。
「なにか言ってよ。お呼びでないの?」
 寂しそうな声を聞き、カツミがようやく顔を向けた。彼はセアラのことが嫌いなわけではない。気を許しているからこそ、部屋にも入れるのだ。
「ちょっとね」
 ふてくされた態度のカツミに、セアラが肩を竦める。
 彼女は、カツミの苛立ちの原因を本人よりも理解していたのだ。

「なにか飲む? 作ってあげるよ」
 カツミの返事を待たず、セアラが簡易キッチンの冷蔵庫を開ける。
「新しいの、右の棚」
 しぶしぶ承諾したらしいカツミからの返事。棚には封が切られていない蒸留酒の瓶があった。
「なによ、これ。こんないいのを飲んでるの?」
「もらったんだよ」
「誰よ、未成年にこんな高級品寄越すの」
「ドクターだよ。セアラも飲むくせに」
 カツミが子供のように言い訳をすると、不出来な弟をあしらう姉のような顔でセアラがくすっと笑う。
 テーブルの上にグラスと氷が並ぶと、すかさずカツミが手を伸ばした。

「眠れないって言ったら、これが処方されたんだよ」
「ずいぶんとひいきするのね。抗議しに行かなきゃ」
 かなり濃い目の一杯目をカツミが一気に飲み干す。眉をひそめたセアラのことは再び無視している。
 カツミはさっさと潰れてしまいたいのだ。酔い潰れるのは逃避の手段だった。何から逃れたいのかは、問われても答えられそうになかったが。

「フィーアのこと?」
 セアラの指摘は不意打ちだった。苛立ちの原因をカツミはあっさりと突き付けられる。
「知ってんのかよ」
 カツミの尖った声を非難の視線で押し返したセアラが、グラスに口をつけた。
 フィーアはカツミのライバル。所属は違うが、それくらいのことはセアラも知っていた。他の隊員と一緒にされたことにむっとした気分となる。

 フィーア・ブルーム。彼もまたカツミと同い年の新人である。
 小柄なカツミより少しだけ背が高いが、どこか少女を思わせる優しい容姿。さらりとしたクリーム色の髪と青い瞳を持つ、優れたパイロットだった。

 新人の彼らはいつも模擬訓練をしている。現在は休戦中。実戦がないのだ。飛行訓練はシミュレーション装置で行う。地上にいながら実際の戦闘と同等の訓練ができる装置である。
 カツミとフィーアの実力は互角。というよりもカツミがわずかに負けている。二人に勝てる新人はいなかった。その点で言えば群を抜いた実力だが、二番手に甘んじているカツミにしてみれば面白いはずもない。
 任務中のカツミは他人の挙動など眼中にない。自分のことで手一杯なのだ。そんな彼が、どうしても意識してしまうのがフィーアだった。

 ただ、最近カツミはフィーアに違和感を覚えていた。常に見ていることで気づいたと言ってもいい。
 フィーアは優秀でありながら注目されることを避けるような態度をとっていた。彼の持つ独特の雰囲気は、カツミとどこか共通する。
 棘を剥き出しにして他人を拒絶するカツミと、密度のある空気のような壁をつくるフィーア。
 二人は根本にあるものが同じだった。周りの評価は正反対ではあったが、他人に踏み込まれるのを拒絶している部分は、まるで変わらないのだ。

「また、シミュレーションで負けたの?」
「その言い方!」
 セアラには悪びれた様子がない。カツミの悪態など可愛いものだと思っている。出来の悪い弟の方も、自分の攻撃など通用しないことは分かっていた。

「今日は勝ったんだよ。でもあいつ、本調子じゃなかったと思う」
「えっ。どういうこと?」
 身を乗り出すセアラに、今度はカツミのほうが肩を竦めた。その手は既に二杯目をつくっているのだが。

「他の奴には分からないよ。でもいつもと違うんだ。うわの空でさ。違うこと考えてるみたいで。なのに5ポイント差でしか勝てなかったんだ」
「おやおや。そういうことね」
 セアラの小さな笑いが、カツミの気分を逆なでした。態度や視線で苛立ちを示しても、まるで効果がないのだ。勢い、手にしたグラスが一気に傾いて空になる。

 カツミは気を許した相手には誠実だった。嘘で誤魔化すようなことはしない。それにはいい面もあれば、当然のように逆もある。
 相手を傷つけないための白い嘘をつけるのが大人と言うのなら、カツミはまだまだ子供だった。

「で、セアラ。なんか用だったの?」
 素っ気ない物言いである。想い人にこんな言葉をぶつけられ、傷つかない女性などいないだろう。だがセアラはもう慣れてしまっていた。別にとはぐらかし、残りの酒をすうっと飲み干す。

「今日は先約があるんだけど」
 セアラはカツミの言葉の真意を察すると同時に、やり切れない思いになった。恋人と呼ぶには、あまりに距離のある相手なのだ。
 自分ではカツミを満たせないと、セアラは知っていた。だが相手の変化を待っている。カツミが心を開き、少しでも生きやすくなるのを待っているのだ。
 カツミの手にした三杯目が見る間に空になった。渋い顔をしているセアラのことはまるで無視である。当てつけのような態度に、さすがの彼女もきつい口調に変わった。

「いい加減にしなさいよ! 飲まないと、やってられないわけ?」
「……かもね」
 ぽつりとこぼしたカツミが、自虐的な行為をやっと中止した。確かにその通りだったからだ。
 しかしセアラの追撃は止まなかった。泰然を装っていたが、本当はひどく傷ついていたのだ。

「カツミくん。私、貴方の恋人なのかな」
「そうとも言うんじゃない?」
 冷めきった返答にセアラの心がぎゅっと凍る。本来は思慮深い彼女だったが、嫉妬と寂しさが言ってはならない言葉を引っ張り出してしまった。
「じゃあジェイは? 恋人?」
「非公式には、そう言うかもね」

 その名前はカツミの聖域。決して無くしたくない唯一無二の存在である。恋人とはセアラのためにある言葉ではない。ジェイこそがカツミの最愛の人なのだ。
 カツミはもう疲れたように瞼を閉じていた。黙り込んだ彼から伝わるのは、拒絶に隠された苦悩。
 セアラは、一時の感情でカツミを傷つけてしまったことを深く悔いていた。
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登場人物紹介

□カツミ・シーバル

主人公。

男性。十九歳~二十歳。少尉~少佐。飛行隊。

眉目秀麗。幼顔で中性的。身長160センチ。華奢で小柄。

右の瞳がトパーズ色、左の瞳がクリムゾン色のオッドアイ(ヘテロクロミア)。

肩まで伸びたやや癖のあるクリーム色の猫っ毛。

最高位の士官学校を首席卒業した優秀な人物。父親は特区の最高責任者。

母親はカツミを産んですぐに死亡。一人っ子。

育児や教育は使用人によって行われ、父親からネグレクトと虐待を受けて育つ。

拒食症で不眠症。体力は特殊能力で保持している。

超A級特殊能力者だが、子供の頃に父親の本音を知るのが怖くなり、能力のほぼ全てをみずから封印した。

ただし戦地では解放している。

口癖は「ごめん」。自虐的で自罰的。逆に天然な面があり、小悪魔的。

無意識に他人の本音を引き出す言動をする。

必要のない人間だと言われることを極度に恐れている。寂しがり。

□ジェイ・ド・ミューグレー

カツミの恋人。

男性。二十八歳~二十九歳。少佐。研究者。

貴族の家柄。家は財閥系の情報企業。長男で弟がひとりいる。

身長180センチ。すらりとした長身。黒髪。淡い茶色の瞳。眼鏡をしている。

幼い頃から天才と騒がれ跡取りとして大事に育てられる。

幼年学校は二年スキップしたにも関わらず、あらゆる資格を取得。

士官学校も一年スキップで卒業する(ラヴィ・シルバー以来の快挙)。

家の跡を継ぐまでの間という約束で長年の夢であった特区入隊を果たすが、事故により飛行隊任務が出来なくなる。婚約も破棄。任務も研究職に変える。家の跡取りは弟に変わる。

カツミにとっては父親的存在。

優しさと狡さ、独占欲と包容力を持つ。

長いスパンで先を見通すため、他人には理解し難く、アンビバレンツな人物に見える。

□シド・レイモンド

ジェイの元恋人。一年前に別れたが、現在も未練を持っている。

男性。二十八歳。少佐。軍医(外科医)。

実家は開業医。父親は外科医。母親はシドが十歳の時に離婚。一人息子。

肩まで伸びた癖のある栗色の髪。栗色の瞳。女性的な印象。

スキップで入学した医大を首席卒業した切れ者。毒舌家で皮肉屋。挫折を知らない世渡り上手。

カツミの恋敵的存在だが、いい人を演じている。

□フィーア・ブルーム

カツミの同僚。ライバル的存在。

男性。十九歳。少尉。飛行隊。

さらりとしたクリーム色の髪。深く青い瞳。A級特殊能力者。

母親から虐待を受けて育つ。士官学校に入る前からアーロン(ジェイの弟)に見出され、支援を受ける。

温厚で控え目な性格を演じているが、他人に本音で接することを恐れている。

□セアラ・ラディアン

カツミの姉的存在。関係は一度だけあるが実質片思い。

女性。十九歳。少尉。管制塔任務。

さらりとした長い黒髪。栗色の瞳。美少女。

天真爛漫。反面、思慮深く母性が強い。

大きな瞳をくるりと上に向けて微笑む癖がある。

□ユーリー・ファント

カツミの同僚。上官。

男性。二十五歳。少佐。飛行隊。

実家は貿易商。サラの幼馴染み。自称情報通。A級特殊能力者。

社会背景や軍の在り方に強い疑問を持っている。

困った時に頭を掻く癖がある。

□ロイ・フィード・シーバル

カツミの父。特区の最高責任者。

男性。四十七歳。中将。

クリーム色の短髪。トパーズ色の瞳。長身。

実力主義の冷酷な人物。カツミのことは所有物と思っている。

A級特殊能力者。

□ルシファー・セルディス

カツミの同僚。後輩。

男性。十八歳。少尉~大尉。飛行隊。カツミのフライトオフィサ。

実家は百貨店経営や貿易を営む名家。兄と姉がおり、末っ子。

さらりとした黒髪。深い緑色の瞳。身長180センチ。長身。

A級特殊能力者。特に『聞く者』の能力に長けている。

他人の心の裏側が聞けることで、子供の頃は人間不信で攻撃的だった。

聞けることが当然で育っているので、シールドが高く聞けないカツミに振り回される。同時に唯一の分からない相手であるカツミに惹かれる。

口が達者だが奥手。頭脳先行型。俯瞰から物事を見るのは得意だが、他人の気持ちは察するよりも読んできたので、思い図ることが苦手。観察者側に自分を置く。

読書が趣味。常に分厚い本を読み漁っている。愛読書は『廃船の記録』。

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