第二話 混沌に染まれないプリズム

文字数 2,926文字

 気密性の高いドアが閉まると、部屋は無音となった。その中で、カツミはじっとうずくまったままでいる。
 息苦しかった。限界のなかで堪えている嗚咽が、大きな鉛の塊となって息を詰まらせていた。身の置きどころのないジリジリとした感覚がこころを追い詰めていく。意識の奥から暗い澱みが手招きをしていた。

「フィーア」
 無意識に口から出た名前に驚いて、カツミが顔を上げた。こんな気持ちだったのだろうか。あの日、自分を見送った時のフィーアは。
 もう何もかも終わりにしてしまいたい。自分などいなければいいのだ。ひとつ息をするたびに誰かを傷つけてしまう。自分がいることで。生きていることで。

 生死の天秤が再びガタリと傾いた。振りほどいたはずの手が、さらに強く死の淵へと引きずり込もうとする。
 ジェイ……生に繋ぎとめるものにカツミは縋る。縋りながらも、ほんの小さな疑いを拭いされない人に。
 ロイとジェイとの間にどんな想いがあったとしても、それは色褪せた写真だというのに。

 この世界は混沌の中にある。生きるものはその色に染まる。だがここに、決して染まることを許されない存在がいた。彼は透明なプリズム。この世のあらゆる想いを色に変えるプリズム。混沌を洗う鏡である導く者。
 だが今のカツミは運命を担うための資質を御せず、逆に押し潰されていた。

 いまやジェイはカツミの血肉の全てだった。失くしてしまえば生きていけないほどの。
 こんなに弱いんじゃ話にならない。そう思いながら、カツミはデスクににじり寄った。自分の幼さがジェイの重荷となり呪縛となる。自分の弱さがジェイを傷つけてしまう。
 こんなことではいけない。こんなことを繰り返していては。もうジェイを悲しませてはいけない!

 カツミが一番下の引き出しに手を触れた。掌紋に反応して開くここだけは、ジェイですら何が入っているのか知らない。取り出したのは黒いセミオートピストル。警察が使っている実用性の高いハンドガンだった。

 事故防止のため、自室への銃器の持ち込みは禁止されていた。しかしカツミは確実に自分を殺せるものを常に必要とした。
 いつでも自分で自分を終わりにできる。その安心感で心の平静を保っていたのだ。しかし危険な歯止めは、今や最悪の凶器になろうとしていた。

 弾丸の装填を確認し、銃口をくわえ込む。もう何も考えなくていい。トリガーを引けばそれで済むこと。
 生き続けることは、途方もなく辛く先の見えない苦行だった。そんな日々には、さっさと幕を下ろしてしまえばいい。

 顎を引き、瞼を閉じる。指がトリガーに力を込めようとした──その時。ベッドサイドに置かれている電話が鳴りはじめた。

 びくりと身体を震わせたカツミが電話に目を向ける。呼び出しが止まると同時にトリガーを引こうと思った。だがコールは責め立てるように鳴り続ける。どれだけ待っても不在を悟る気配がない。

 カツミの意識がすっと冷え、諦めたように銃を下ろした。ゆらりと立ち上がり、部屋の隅にある電話に足を向ける。コールはまだ続いていた。

「……はい」
 平静を取り繕ってなんとか応じたカツミの耳に、聞き覚えのある皮肉まみれの声が流れてきた。
「ずいぶん遅いな。とりこみ中か?」
 電話をかけてきたのは彼の父親だった。聞きたくない声を聞き溜息をついたカツミは、張り詰めていた糸が切れたように床に座り込んでしまった。

「カツミ?」
 受話器から流れる声がいぶかるような響きに変わる。
「なんだよ」
「今から来なさい」
 きっぱりした命令口調だが、どこか異変を感じさせる声だった。

 ◇

 カツミは銃を引き出しに戻し、重い身体に鞭打つようにして部屋を出た。一度も訪ねたことはないが、父の部屋が中央管理棟にあるのは知っていた。

 自走路を乗り継いで棟内に入り、案内ボードで確かめる。父親の部屋に行くのに、わざわざ探さなきゃいけないのかよ。自身を嘲りながら、厳重な監視下に歩を進めた。
 幹部区画には認識カードひとつで入って行けた。父が手をまわしたのだろうと思いながら、ようやく辿り着いた部屋のブザーを鳴らす。すぐにドアが開いて、ロイが姿を現した。

「来たか」
 父から向けられる疑念のこもった視線。顔にはまだ鬱血の痕があるはずだ。何か言われるのだろうか。カツミは身構えたが、ロイは何も問わなかった。

「座りなさい」
 言われるままソファーに腰を下ろしたカツミに、ロイが封筒を差し出した。父と封筒を交互に見たカツミに、目だけで中を見るように促す。

 封筒の中に入っていたのは、ジェイ・ド・ミューグレーと記された退官願いと診断書だった。
 診断書には、悪性新生物、免疫機能不全、造血機能障害と病名が連記されていた。どれ一つを取っても命に関わる重篤なものばかりで、ステージは最悪である。
 しかしカツミには、それらの医学用語がよく理解できない。

「退官願いは受理せざるをえない。いずれにせよ、延命治療が必要だからな」
 延命? 父の言葉にカツミの顔から血の気が引いた。
 ジェイから話を聞かされた時に、病状が深刻なのは分かった。でも、すぐに命が脅かされるレベルとは思っていなかった。

「死ぬのか?」
 カツミの詰問にロイがわずかに眉を寄せた。
「そう。数か月以内に。確実にな」

 ──確実にジェイは死ぬ。あとほんの少しで。
 死ぬ? いなくなってしまう? 時を押しとどめる間もなく、自分を置いて。

「言っただろう? ジェイといれば、お前は追い詰められるばかりだと。そして死にたくなると」
 淡々と事実だけを告げたロイに、カツミが氷のような視線を向けた。彼の心は完全に打ち砕かれていた。

「そうさせたのは、お前だ」
 カツミの口から怒りが漏れ出た。
 傍にいて欲しい人は全て、全て自分から去っていく。残された者の想いなど知らずに。求めたとしても掴んだとしても、全てが手のひらからこぼれ落ちていく。
 自分が求めてやまない死に魅入られたように、この身を置いて去っていく。

 熱砂の風が荒れ狂う砂漠に捨てられたようだった。
 無情なモアナは中空に居座り続け、この世界のものを、全て焼き尽くしてしまう。
 叫び声はどこにも届かない。どんなに叫んでも孤独だけが突き付けられる。
 ──百年前の、あの日のように。

「中将」
 起立したカツミは、もう部下の顔に戻っていた。
「明日から任務に復帰させて下さい」
 どこにも向けようのない怒りが、そう言わせていた。一刻も早く現実から目を背けたかった。

「……分かった。許可する」
 他の言葉を飲み込み指令だけを放ったロイが、一礼して背を向けるカツミをそのまま見送った。
 言わなければならない言葉、言うべき言葉はいくらでもあった。だが彼はなにも言わない。相反する思いの中でなにも言えなかった。

 カツミがドアの開閉ボタンに手をかけると、自動ドアがスライドする。瞬間、彼の肩がびくりと大きく揺れた。
 ブザーを押そうとドアの外に立ったジェイと鉢合わせたのだ。

「カツミ」
 呟いたジェイに刺すような視線を向けたカツミは、呼びかけに答えないまま横をすり抜け、歩き去った。その背を見送ったジェイが室内に視線を戻す。
「久し振りだな」
 煙草に火をつけながら、ロイが声をかけた。
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登場人物紹介

□カツミ・シーバル

主人公。

男性。十九歳~二十歳。少尉~少佐。飛行隊。

眉目秀麗。幼顔で中性的。身長160センチ。華奢で小柄。

右の瞳がトパーズ色、左の瞳がクリムゾン色のオッドアイ(ヘテロクロミア)。

肩まで伸びたやや癖のあるクリーム色の猫っ毛。

最高位の士官学校を首席卒業した優秀な人物。父親は特区の最高責任者。

母親はカツミを産んですぐに死亡。一人っ子。

育児や教育は使用人によって行われ、父親からネグレクトと虐待を受けて育つ。

拒食症で不眠症。体力は特殊能力で保持している。

超A級特殊能力者だが、子供の頃に父親の本音を知るのが怖くなり、能力のほぼ全てをみずから封印した。

ただし戦地では解放している。

口癖は「ごめん」。自虐的で自罰的。逆に天然な面があり、小悪魔的。

無意識に他人の本音を引き出す言動をする。

必要のない人間だと言われることを極度に恐れている。寂しがり。

□ジェイ・ド・ミューグレー

カツミの恋人。

男性。二十八歳~二十九歳。少佐。研究者。

貴族の家柄。家は財閥系の情報企業。長男で弟がひとりいる。

身長180センチ。すらりとした長身。黒髪。淡い茶色の瞳。眼鏡をしている。

幼い頃から天才と騒がれ跡取りとして大事に育てられる。

幼年学校は二年スキップしたにも関わらず、あらゆる資格を取得。

士官学校も一年スキップで卒業する(ラヴィ・シルバー以来の快挙)。

家の跡を継ぐまでの間という約束で長年の夢であった特区入隊を果たすが、事故により飛行隊任務が出来なくなる。婚約も破棄。任務も研究職に変える。家の跡取りは弟に変わる。

カツミにとっては父親的存在。

優しさと狡さ、独占欲と包容力を持つ。

長いスパンで先を見通すため、他人には理解し難く、アンビバレンツな人物に見える。

□シド・レイモンド

ジェイの元恋人。一年前に別れたが、現在も未練を持っている。

男性。二十八歳。少佐。軍医(外科医)。

実家は開業医。父親は外科医。母親はシドが十歳の時に離婚。一人息子。

肩まで伸びた癖のある栗色の髪。栗色の瞳。女性的な印象。

スキップで入学した医大を首席卒業した切れ者。毒舌家で皮肉屋。挫折を知らない世渡り上手。

カツミの恋敵的存在だが、いい人を演じている。

□フィーア・ブルーム

カツミの同僚。ライバル的存在。

男性。十九歳。少尉。飛行隊。

さらりとしたクリーム色の髪。深く青い瞳。A級特殊能力者。

母親から虐待を受けて育つ。士官学校に入る前からアーロン(ジェイの弟)に見出され、支援を受ける。

温厚で控え目な性格を演じているが、他人に本音で接することを恐れている。

□セアラ・ラディアン

カツミの姉的存在。関係は一度だけあるが実質片思い。

女性。十九歳。少尉。管制塔任務。

さらりとした長い黒髪。栗色の瞳。美少女。

天真爛漫。反面、思慮深く母性が強い。

大きな瞳をくるりと上に向けて微笑む癖がある。

□ユーリー・ファント

カツミの同僚。上官。

男性。二十五歳。少佐。飛行隊。

実家は貿易商。サラの幼馴染み。自称情報通。A級特殊能力者。

社会背景や軍の在り方に強い疑問を持っている。

困った時に頭を掻く癖がある。

□ロイ・フィード・シーバル

カツミの父。特区の最高責任者。

男性。四十七歳。中将。

クリーム色の短髪。トパーズ色の瞳。長身。

実力主義の冷酷な人物。カツミのことは所有物と思っている。

A級特殊能力者。

□ルシファー・セルディス

カツミの同僚。後輩。

男性。十八歳。少尉~大尉。飛行隊。カツミのフライトオフィサ。

実家は百貨店経営や貿易を営む名家。兄と姉がおり、末っ子。

さらりとした黒髪。深い緑色の瞳。身長180センチ。長身。

A級特殊能力者。特に『聞く者』の能力に長けている。

他人の心の裏側が聞けることで、子供の頃は人間不信で攻撃的だった。

聞けることが当然で育っているので、シールドが高く聞けないカツミに振り回される。同時に唯一の分からない相手であるカツミに惹かれる。

口が達者だが奥手。頭脳先行型。俯瞰から物事を見るのは得意だが、他人の気持ちは察するよりも読んできたので、思い図ることが苦手。観察者側に自分を置く。

読書が趣味。常に分厚い本を読み漁っている。愛読書は『廃船の記録』。

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