第一話 最後の歯止めを

文字数 2,768文字

 手を放したジェイは、テーブルをまわり込むとシドの隣に座り直した。同じ手を今度はシドの頬に添え、意地の悪い笑みを向ける。
「気づいてるか? 自分がどれだけ誘惑してるか」
「そんなの、受け取り方の問題だろ?」
 狼狽で返事が上擦っていた。確かにシドには自覚がなかったのだ。

「どうする?」
「殺すよ」
 困惑が拒絶の言葉に変わる。
 シドにはジェイの真意が分からない。つい先ほどまで、ジェイはカツミに対する苦悩を口にしていたのだ。なのになぜ、自分を試すような真似をするのか。
「いまさら命なんか惜しくないよ」
 ジェイの言葉はいつも通りに乾いていた。不条理とも言える現実。だがジェイには受容済みのことらしい。当面の興味は自分に向いているらしい。

「キスされたくないか?」
 ジェイの物言いは昔と少しも変わらない。自分の返事を既に分かっているように、顔を横に向けると眼鏡を外した。
「今の恋人に殺されたくないよ」
「じゃあ、今だけの恋人ってのは?」
 皮肉ったつもりが逆手に取られた。これほど一方的に押し切られたことがあっただろうか。見つめたジェイの淡い瞳の中に、困惑と期待の入り混じった自分がいた。

「お前の困った顔が気に入ってると言ったらどうする?」
「困らせるためだけに、そういう言葉を並べるもんじゃないよ」
 期待をしてしまうから──。
 瞼を閉じると、ジェイが甘く唇を噛んでから口づけた。逃れる舌をとらえると痺れるほど吸い上げる。どうかしてる。残酷に切りつけてしまった魂があることを知りながら、欲望に身を任せているなんて。
 ──でも、お前はそれを拒めない。
 思い出したのは先日のジェイの言葉。とうに見抜かれている。自分が彼の言葉に、なに一つ背けないことを。

 柔らかなジェイの黒髪が頬をくすぐる。耳朶に滑った唇がカチリとピアスを噛んだ。
「赤い石だな」
「ザクロ石。豊穣のしずくとも言うんだよ」
 これまでピアスなど気にしたこともなかったのに、カツミの瞳でも思い出しているのだろうか。だったら明日から、右をトパーズにしてやる。
 自虐的な企みを思いついて、ようやくシドはジェイのしぐさに身を任せると決めた。

 口づけは瞼に眉に、昔のそれよりも穏やかに続く。カツミに対する施し方が分かるような気がして、シドが薄く瞼を開けた。思った通りにじっと覗き込んでいたジェイが、ベッドに視線を送る。
 これは逃避だよ。拒絶の言葉は口に出す前に飲み込まれた。たとえひと時の慰めに過ぎなくても、それに喜びを感じられるほど自分はこの日を待ち侘びていた。ならば、それを拒絶する理由などどこにもない。

 立ち上がったシドが部屋の灯りを落とす。そして、薄暗がりのなかにいる相手にしか聞かせて来なかった甘い声をもらした。
「困った顔なんて見せたくないからね」
 基地の闇を巡るサーチライトの光がブラインド越しに射し込んだ。斜めに切られた光が、獣が獲物に向かって放つような眼差しを炙り出していた。

 ◇

 猥褻な音をたてて舌を噛まれたシドが眉を寄せた。強く瞼を閉じ、あふれ出す快楽を必死に抑え込む。だがシドの抵抗はすぐに崩された。ふっと目を細めたジェイが、今度は胸に歯をたてるとシドから嬌声を引き出す。
 ジェイの頬が柔らかな腹部に押し当てられる。焦らしているのか甘えているのか分からないしぐさ。次の行為への期待を煽るような。
 やがてシドは、どんな痛みも快楽にされてしまう。どんな屈辱も欲すように。支配されることが陶酔となり、翻弄されることが歓喜となる。

 ジェイの背に手を伸ばしたシドが、布越しに背骨を辿る。しかし指に触れた感触が気になり、高揚した意識がすっと遠のいた。
「ずいぶん痩せたね」
 シドが思わず漏らした悲嘆。動きを止めたジェイから慈しむような口づけが戻された。小さな問いとともに。

「あと、どれくらいだ?」
「分からないよ。そんなの」
 残された時間を問うこと。もちろん問う側が辛いに決まっている。だがそれは、聞かされたシドにとってあまりにも残酷な仕打ちだった。

 見えない何かにシドは願う。今だけは、欲に駆られる自分を赦してほしい。それが、身の置き所のない苦しみに耐える光になるからと。

 ジェイはいつも快楽に翻弄されるシドを見て楽しむ。注がれるのは冷たい視線だ。シドはこれまでずっとそう思ってきた。しかし今は違う。その眼差しのなかに形容しがたい感情が見て取れるのだ。迷いなのか、哀しみなのか、慈しみなのか。ジェイが変わったのか、それとも自分が変わったのかは分からないが。

 ジェイに抱かれることは、こんなに切ないことだったのか? 欲望に溺れる身体から引き剥がされた意識は、遠くの闇に連れ去られていった。
 嘲笑う声がする。この愚か者めと責める声が。身体を一つにしていても、その断罪はずっと止むことがなかった。

 ◇

「シド」
 ひと時の熱が冷めた頃。ジェイの小さな声が響いた。
 振り向いたシドの横でしばらく黙り込んでいたジェイが、何か言おうとしてはその度に口をつぐむ。
「どうしたの?」
 焦れたシドの問いに追い詰められ、ジェイがためらいがちに口を開いた。

「もう退官願いを出した。受理されれば、今月中に特区を出て南部に移る」
「今月? 南部って、入院はしない気なんだね」
 特区のある中央区。そこから南に下った地域にミューグレー家の別邸があった。別邸はいわばジェイの家。しかし、別荘地である南部に終末医療のできる入院施設はない。
「シド。頼みがある」
「なに?」
 次の言葉をシドは知っていた。だが、ジェイの口から聞きたいと思っていたのだ。

「カツミのことを頼む」
 思った通りだった。ジェイは自分の死期を確信した時から、カツミを生に引き留める楔(くさび)を探していたのだろう。カツミが生きていく意義をみずから見出せるまで、そのいのちを守る者を。そしてジェイはもう延命治療をしないと決めているのだ。

「他に頼める相手がいないんでね」
「むしがいいね」
「だよな。狡いな」
 残酷な言葉だ。そう思いながらも、シドには拒むすべがない。自嘲をこぼしながら、ジェイが言い訳のように再びキスを落とす。

「好きだよ、ジェイ。愛してる」
 これが最後の告白になるだろう。そう思いながらシドが告げた。返事はない。しかし背にまわされた腕にわずかに力が込められたのをシドは感じていた。

 ◇

 カツミの部屋に戻ったジェイは無人の部屋を一通り見回すと、床の上に電話の子機を見つけた。履歴を残さない機種だが、端末から操作すれば確認できる。表示された相手は、ロイ・フィード・シーバル。

 ジェイは迷う事なくロイの宿舎のある中央管理棟に向かった。誰にも渡さない。それがたとえカツミの父親であっても。自分の想いは誰にも遮ることはできない。
 ジェイには立ち止まっていられる時間など片時もなかった。
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登場人物紹介

□カツミ・シーバル

主人公。

男性。十九歳~二十歳。少尉~少佐。飛行隊。

眉目秀麗。幼顔で中性的。身長160センチ。華奢で小柄。

右の瞳がトパーズ色、左の瞳がクリムゾン色のオッドアイ(ヘテロクロミア)。

肩まで伸びたやや癖のあるクリーム色の猫っ毛。

最高位の士官学校を首席卒業した優秀な人物。父親は特区の最高責任者。

母親はカツミを産んですぐに死亡。一人っ子。

育児や教育は使用人によって行われ、父親からネグレクトと虐待を受けて育つ。

拒食症で不眠症。体力は特殊能力で保持している。

超A級特殊能力者だが、子供の頃に父親の本音を知るのが怖くなり、能力のほぼ全てをみずから封印した。

ただし戦地では解放している。

口癖は「ごめん」。自虐的で自罰的。逆に天然な面があり、小悪魔的。

無意識に他人の本音を引き出す言動をする。

必要のない人間だと言われることを極度に恐れている。寂しがり。

□ジェイ・ド・ミューグレー

カツミの恋人。

男性。二十八歳~二十九歳。少佐。研究者。

貴族の家柄。家は財閥系の情報企業。長男で弟がひとりいる。

身長180センチ。すらりとした長身。黒髪。淡い茶色の瞳。眼鏡をしている。

幼い頃から天才と騒がれ跡取りとして大事に育てられる。

幼年学校は二年スキップしたにも関わらず、あらゆる資格を取得。

士官学校も一年スキップで卒業する(ラヴィ・シルバー以来の快挙)。

家の跡を継ぐまでの間という約束で長年の夢であった特区入隊を果たすが、事故により飛行隊任務が出来なくなる。婚約も破棄。任務も研究職に変える。家の跡取りは弟に変わる。

カツミにとっては父親的存在。

優しさと狡さ、独占欲と包容力を持つ。

長いスパンで先を見通すため、他人には理解し難く、アンビバレンツな人物に見える。

□シド・レイモンド

ジェイの元恋人。一年前に別れたが、現在も未練を持っている。

男性。二十八歳。少佐。軍医(外科医)。

実家は開業医。父親は外科医。母親はシドが十歳の時に離婚。一人息子。

肩まで伸びた癖のある栗色の髪。栗色の瞳。女性的な印象。

スキップで入学した医大を首席卒業した切れ者。毒舌家で皮肉屋。挫折を知らない世渡り上手。

カツミの恋敵的存在だが、いい人を演じている。

□フィーア・ブルーム

カツミの同僚。ライバル的存在。

男性。十九歳。少尉。飛行隊。

さらりとしたクリーム色の髪。深く青い瞳。A級特殊能力者。

母親から虐待を受けて育つ。士官学校に入る前からアーロン(ジェイの弟)に見出され、支援を受ける。

温厚で控え目な性格を演じているが、他人に本音で接することを恐れている。

□セアラ・ラディアン

カツミの姉的存在。関係は一度だけあるが実質片思い。

女性。十九歳。少尉。管制塔任務。

さらりとした長い黒髪。栗色の瞳。美少女。

天真爛漫。反面、思慮深く母性が強い。

大きな瞳をくるりと上に向けて微笑む癖がある。

□ユーリー・ファント

カツミの同僚。上官。

男性。二十五歳。少佐。飛行隊。

実家は貿易商。サラの幼馴染み。自称情報通。A級特殊能力者。

社会背景や軍の在り方に強い疑問を持っている。

困った時に頭を掻く癖がある。

□ロイ・フィード・シーバル

カツミの父。特区の最高責任者。

男性。四十七歳。中将。

クリーム色の短髪。トパーズ色の瞳。長身。

実力主義の冷酷な人物。カツミのことは所有物と思っている。

A級特殊能力者。

□ルシファー・セルディス

カツミの同僚。後輩。

男性。十八歳。少尉~大尉。飛行隊。カツミのフライトオフィサ。

実家は百貨店経営や貿易を営む名家。兄と姉がおり、末っ子。

さらりとした黒髪。深い緑色の瞳。身長180センチ。長身。

A級特殊能力者。特に『聞く者』の能力に長けている。

他人の心の裏側が聞けることで、子供の頃は人間不信で攻撃的だった。

聞けることが当然で育っているので、シールドが高く聞けないカツミに振り回される。同時に唯一の分からない相手であるカツミに惹かれる。

口が達者だが奥手。頭脳先行型。俯瞰から物事を見るのは得意だが、他人の気持ちは察するよりも読んできたので、思い図ることが苦手。観察者側に自分を置く。

読書が趣味。常に分厚い本を読み漁っている。愛読書は『廃船の記録』。

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