第四話 支配者

文字数 3,788文字

 ギイと小さな悲鳴をあげる錆びた鉄の門。それを押し開いた時には既に陽は落ちていた。ここは特区の広大な墓地。人影はない。

 ──森に一番近い場所。言い渋るシドからフィーアの眠る場所を聞き出したカツミは、ドクターストップを無視して部屋を抜け出していた。

 冷たい霧雨が降っていた。陽が落ちてしまうと寒さは一段と厳しくなる。だがカツミは傘すらさしていない。
 墓地は夜に来る場所ではない。街灯は少なく、寒さとは別の冷気が漂っている。前方に見える森だけが真っ暗で、濃紺の空との境界線がくっきりしていた。

 目的の墓標に向かって真っすぐ歩いていたカツミが、人影に気づいて足を止めた。向こうも気づいたのか、振り返ったのが分かった。顔すら見えない距離をカツミが埋める。相手は動かない。
 やがて影の正体を知ったカツミがほっと息をついた。仄暗い場所に佇んでいたのはユーリー・ファントだったのだ。

「驚かさないで下さいよ」
「はははっ。悪かったね」
「ここなんですね」
 同罪と言いたげに笑ったユーリーだったが、沈んだカツミの表情を目にすると声を落とした。

「ああ。どうしても足が向いてしまってね。偽善と言われても仕方ないけど」
「いえ。ありがとうございます」
「えっ?」
 礼の真意が分からず疑問の視線を向けたユーリーに、カツミが秘密をうちあけた。
「義理の兄なんです。別にいいですよ。他人に言っても。もうこの世にいませんから」
 言葉をなくしたユーリーだったが、かぶりを振ると立っていた場所をカツミに譲った。

 広大な墓地には平らな墓石が整然と並び、ぽつりぽつりと淡い街灯が灯っていた。全てが特区に所属した者の墓である。隊員も、その家族も、特区の住人であれば同じように埋葬される。ここにはもう、階級も過去の栄誉もない。同じ形の石に名前だけが刻まれるのだ。

 分厚い石盤が地中の棺に蓋をしていた。カツミはフィーアの墓の前にひざまずき、指で名前をなぞる。
 墓石を囲む死者を送る花。白い花弁に滲む黒い染みが、決して変えることの出来ない事実を黙したまま告げていた。時計を逆回しには出来ないように、もうフィーアには二度と会えないのだ。
 あまりに唐突な別れだった。自分の何がいけなかったのだろう。悔恨のなかでカツミが墓石のしずくを拭う。

「ごめんね」
 こぼれ出た謝罪は、フィーアが最後にカツミに向けたものと同じだった。
「ごめんね。フィーア」
 張り詰めていたものが弾けたように、カツミが石に取りすがった。

 視線を外したユーリーは、その場からゆっくりと離れた。今までの印象をことごとく覆された思いでいた。
 自信家で生意気な新人。父親の庇護のもとで将来を約束されたエリート。カツミに対して良い印象など欠片もなかったのだ。
 それどころか、彼があっさりクローンの息の根を止めたのを見て恐怖すら感じた。……だが今のカツミは、人目もはばからず泣きじゃくっている。
 ユーリー・ファント。彼もまた悔恨を抱えていた。招いてしまった悲劇を受け入れることが出来ずに。

 ◇

 滑らかな墓石に頬を押し当て、カツミはじっとうずくまっていた。まるで地下からフィーアに抱きとめられているように、動くことが出来なかった。
 このまま雨に溶けてしまえば。そうすればフィーアの隣に行ける……。それが本当の願いかも分からずにカツミは瞼を閉じた。白く変わる息の熱だけを感じる。ずぶ濡れとなった身体が細かく震えだす。

 ザクッ──。カツミの耳に敷石を踏む音が届いた。
 誰だろう。ユーリーならもう帰ったはず。ザクリザクリと響く靴音に引き上げられ、カツミがようやく身体を起こした。じっと目を凝らして暗闇から人の輪郭を切り取ろうとする。
 やがて浮かび上がった背の高い男。それが父であることを知ったカツミは、無意識に一歩あとずさった。

「こんな時間に墓参りか?」
 ロイの声は濡れた墓石よりも冷たかった。大きな花束が無造作に放られると、死者を送る甘い香が鮮やかに小雨の中に舞った。ロイは怒りに満ちた息子の視線をこともなげに跳ね返す。

「ずいぶん濡れてるな。死ぬ気か?」
 地の底に引きずり込まれるような感覚に陥っていたのは確かだ。傷つき脆弱となっている心を踏みつけられたカツミが、その痛みに唇を引きつらせた。
「それに今日は、体調不良の欠勤と聞いていたが」
「俺が頼んだわけじゃねえよっ!」
 ロイは、噛み付いたカツミを冷徹な視線だけで押さえつける。同時に返された言葉は、カツミの疑念を確信に変えた。

「その分では、ジェイは苦労していることだろうな」
「……あんたはジェイと、どういう関係なんだ?」
「ジェイに聞くんだな」
 突き放したロイの言葉は、回答に等しかった。
 フィーアの墓石に顔を向けたロイが、固く口を閉ざす。

 ──百年かけた浄化。不条理な定めにロイはずっと抗ってきた。だが、人知の及ばぬ所で動いている歯車を止めることは出来ない。
 ロイは思っていた。自分も同じなのだ。自分もまた、カツミのために用意された生贄。フィーアは知っただろうか。あの声を聞いただろうか。たったひとつの命のために、その鏡を磨くために、供物が必要なことを。
 自分は『束ねるもの』の道具ではない。自分の手によってこの国を変えることで、運命に抗いたいと思ってきた。そのためにカツミを支配し、能力を封印させ、王女の『声』から遠ざけた。
 しかし結果はどうだ。予言通りにフィーアは死んだ。次は自分の番なのか? 抵抗など無意味だというのか。
 『導く者』はこの国を変える。意識の底を洗い清める。導く者だけは生かさなければならない。しかしなぜ、自分が最後の生贄なのか!

 カツミに視線を移したロイが再び釘を刺す。フィーアはジェイに貶められた。次がないとは限らない。
「カツミ。繰り返すようだが、もうジェイに関わるな」
「かっ」
 関係ないだろうと叫ぼうとしたカツミは、その叫びを捻じ伏せられた。前回とは比較にならない力。瞬きひとつ出来ない。

「ジェイといれば、お前は追い詰められる。愛情を受け取ることも出来ずに罪悪感ばかり覚える。そして死にたくなる。違うか? それに、お前はジェイの愛情の意味を誤解している。あいつは、代償と憎しみと自分のエゴでお前を抱いてるだけだ」

 ──代償と憎しみとエゴ。残酷な言葉にカツミの心が軋む。その理由を自分はジェイに問わなければならないのだろうか?
 父の言葉を否定する強い感情と、指摘を拒めない弱気が、カツミのなかで拮抗する。父のわずかな放言が、ジェイを信じる気持ちを無残に突き崩す。

 身動きの取れないカツミの顎に、ロイが指をかけた。唇が重なる。我が子に向けるものには程遠い激しさで。舌を滑りこませたロイが、まるで初めてみたいだなと嘲笑した。
 カツミの初めての相手。それはいま目の前にいる人物だった。七歳の時。戦慄を伴う禍々しい記憶。カツミの記憶の始まりは凌辱の痛み。ロイはあの日、カツミの心に刻印を施した。彼が父親の所有物だという刻印を。

 冷たい墓石の上にカツミは押し倒された。むせかえるような甘いリリウムの香。まさかこんなところでと顔を強張らせたカツミに、ロイが冷笑を向けた。
「下からフィーアが見てるな」
 満足気に目を細めたロイは、カツミの耳朶を噛み、濡れた上着を剥いで肩にも歯をたてた。背に触れる石の冷たさと、向けられる愛撫の熱。カツミには、拒むことも舌を噛むことも出来ない。
 気持ちとは裏腹に身体だけが反応する。羞恥と嫌悪に投げ込まれ、カツミの瞳から涙がこぼれた。
 それは十二年前の再現だった。しかしカツミの身体はもう子供のものとは違う。
「ずいぶんと仕込みがいいな」
 皮肉に頬を張られ、カツミの顔が紅潮した。
「お前は私のものだ。誰にも渡さない。ジェイにも、もちろんフィーアにも」
 射すくめるトパーズの双眸。絶対的支配者。拒絶を許さぬ意思がカツミを押し潰そうとする。

 幼い日の記憶が呼び戻された。どんなに泣き叫んでも、懇願しても、許されることなく蹂躙された記憶が。
 そこにいたのは無慈悲な悪魔だった。逃げることを許されず、服従を強要され、少しでも抗おうものなら、意識が遠のくまで暴力的に犯される。
 カツミは父の沈黙が恐ろしかった。無視されるくらいなら、痛めつけられるほうがまだ安心できた。自分が必要とされていると思えていた。

 ありありと浮かび上がる支配の刻印。もう戒めは解かれている。だがカツミには、抵抗する気力などない。

「元に戻るだけだ」
 言い聞かせるように呟くロイに、カツミはすっかり身を委ねていた。虚ろな瞳を見開いたまま、遠い日の呪縛に支配され、濡れた石の端に指をかける。
 その時、カツミのなかに確信が流れ込んだ。フィーアが見てる。見られている。背中に視線が突き刺さる。フィーアが涙をこぼして見つめている。けれどもう、自分は拒めない……。
 愛情と憎しみの対象をカツミは受け入れた。されるがまま。もうなぜとも思わない。この現実の意味をカツミは知っていた。

 ──父の支配からは逃れられない。自分は父を憎んでいた。しかしずっと愛情を求めていた。だがこれが現実だ。父は自分を憎み、どんな手段を使っても支配する。そして自分もまた、支配に抗えない。
 カツミの背に血が伝う。それはフィーアの墓石に落ちると、雨に流されて地中に消えて行った。
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登場人物紹介

□カツミ・シーバル

主人公。

男性。十九歳~二十歳。少尉~少佐。飛行隊。

眉目秀麗。幼顔で中性的。身長160センチ。華奢で小柄。

右の瞳がトパーズ色、左の瞳がクリムゾン色のオッドアイ(ヘテロクロミア)。

肩まで伸びたやや癖のあるクリーム色の猫っ毛。

最高位の士官学校を首席卒業した優秀な人物。父親は特区の最高責任者。

母親はカツミを産んですぐに死亡。一人っ子。

育児や教育は使用人によって行われ、父親からネグレクトと虐待を受けて育つ。

拒食症で不眠症。体力は特殊能力で保持している。

超A級特殊能力者だが、子供の頃に父親の本音を知るのが怖くなり、能力のほぼ全てをみずから封印した。

ただし戦地では解放している。

口癖は「ごめん」。自虐的で自罰的。逆に天然な面があり、小悪魔的。

無意識に他人の本音を引き出す言動をする。

必要のない人間だと言われることを極度に恐れている。寂しがり。

□ジェイ・ド・ミューグレー

カツミの恋人。

男性。二十八歳~二十九歳。少佐。研究者。

貴族の家柄。家は財閥系の情報企業。長男で弟がひとりいる。

身長180センチ。すらりとした長身。黒髪。淡い茶色の瞳。眼鏡をしている。

幼い頃から天才と騒がれ跡取りとして大事に育てられる。

幼年学校は二年スキップしたにも関わらず、あらゆる資格を取得。

士官学校も一年スキップで卒業する(ラヴィ・シルバー以来の快挙)。

家の跡を継ぐまでの間という約束で長年の夢であった特区入隊を果たすが、事故により飛行隊任務が出来なくなる。婚約も破棄。任務も研究職に変える。家の跡取りは弟に変わる。

カツミにとっては父親的存在。

優しさと狡さ、独占欲と包容力を持つ。

長いスパンで先を見通すため、他人には理解し難く、アンビバレンツな人物に見える。

□シド・レイモンド

ジェイの元恋人。一年前に別れたが、現在も未練を持っている。

男性。二十八歳。少佐。軍医(外科医)。

実家は開業医。父親は外科医。母親はシドが十歳の時に離婚。一人息子。

肩まで伸びた癖のある栗色の髪。栗色の瞳。女性的な印象。

スキップで入学した医大を首席卒業した切れ者。毒舌家で皮肉屋。挫折を知らない世渡り上手。

カツミの恋敵的存在だが、いい人を演じている。

□フィーア・ブルーム

カツミの同僚。ライバル的存在。

男性。十九歳。少尉。飛行隊。

さらりとしたクリーム色の髪。深く青い瞳。A級特殊能力者。

母親から虐待を受けて育つ。士官学校に入る前からアーロン(ジェイの弟)に見出され、支援を受ける。

温厚で控え目な性格を演じているが、他人に本音で接することを恐れている。

□セアラ・ラディアン

カツミの姉的存在。関係は一度だけあるが実質片思い。

女性。十九歳。少尉。管制塔任務。

さらりとした長い黒髪。栗色の瞳。美少女。

天真爛漫。反面、思慮深く母性が強い。

大きな瞳をくるりと上に向けて微笑む癖がある。

□ユーリー・ファント

カツミの同僚。上官。

男性。二十五歳。少佐。飛行隊。

実家は貿易商。サラの幼馴染み。自称情報通。A級特殊能力者。

社会背景や軍の在り方に強い疑問を持っている。

困った時に頭を掻く癖がある。

□ロイ・フィード・シーバル

カツミの父。特区の最高責任者。

男性。四十七歳。中将。

クリーム色の短髪。トパーズ色の瞳。長身。

実力主義の冷酷な人物。カツミのことは所有物と思っている。

A級特殊能力者。

□ルシファー・セルディス

カツミの同僚。後輩。

男性。十八歳。少尉~大尉。飛行隊。カツミのフライトオフィサ。

実家は百貨店経営や貿易を営む名家。兄と姉がおり、末っ子。

さらりとした黒髪。深い緑色の瞳。身長180センチ。長身。

A級特殊能力者。特に『聞く者』の能力に長けている。

他人の心の裏側が聞けることで、子供の頃は人間不信で攻撃的だった。

聞けることが当然で育っているので、シールドが高く聞けないカツミに振り回される。同時に唯一の分からない相手であるカツミに惹かれる。

口が達者だが奥手。頭脳先行型。俯瞰から物事を見るのは得意だが、他人の気持ちは察するよりも読んできたので、思い図ることが苦手。観察者側に自分を置く。

読書が趣味。常に分厚い本を読み漁っている。愛読書は『廃船の記録』。

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