第七話 水面の泡

文字数 3,623文字

 次の瞬間、ジェイが手加減なしにシドの頬を張った。
 表情も言葉も凍り付いたジェイを見て、シドは悟る。
 ──もう全て終りだと。

 この一年。自分を偽りながら、必死に堰き止めていた憎しみの濁流。
 しかしもう限界だった。これまで築いてきたものを、自分の手で突き崩してしまったのだ。
 ジェイの脇をすり抜けたシドは、逃げるように部屋を出た。全てを失くし、死者よりも色のない顔をして。

「カツミ!」
 解放とともに何度も咳き込んでいたカツミに、ジェイが手を伸ばす。だがその手は激しく振り払われた。

 目を見張ったジェイを拒絶するように、色の違う双眸が鋭く突き付けられた。まだ痺れが残っているらしい。身体を震わせながら、カツミがジェイから距離をおく。
 しばらく肩で息をしていたカツミが、ヒュウと喉を鳴らすとようやく声を絞り出し、困惑したままのジェイを急かすように鞭打った。

「行けよ!」
 重ねて、必死の懇願が向けられた。
「行ってよ。頼むから」

 咳き込んだ時にあふれた涙が、色の違う瞳からこぼれ落ちた。言葉もなくジェイがただ首を振ると、カツミもまた、頑なに首を振る。

「俺なんかよりずっと傷ついてる。分かってんだろ? なんでそんなに冷たくなれるんだ。俺を殺したいほど、ジェイのことが……好きなのに」
「でも」
 ようやく言葉を見つけたジェイが口を開いた。
「でも私はお前しか見えない。お前しか愛せない。お前が死ねば、私は生きる意味を失くしてしまう」
 途方に暮れたジェイの顔を見て、カツミは冷たいなどと言い放ってしまったことを後悔した。

 ──でも今だけは。
 みずからの身体を抱え込み、カツミはうずくまった。ジェイを見てしまえば気持ちが揺らぐのは分かっていた。カツミの脳裏に浮かんでいたのは、この寮の屋上から飛び降りてしまったフィーアの顔。
 今だけは拒まなきゃいけない。もう誰の心も身体も殺したくない!

「行ってあげて」
 震える声がこぼれ落ちた。拒絶と懇願が。
「頼むから……行って」
 声を絞り出すたびに、うずくまったままのカツミが、身体を硬くする。

 ジェイにはもうカツミの行為の意味が分かっていた。自分の想いとの折り合いはつかない。しかしカツミを抱き締めると彼を追い詰めることになる。却って罪悪感を強めることになってしまう。
 返事の代わりにジェイが立ち上がった。そして無言のまま、すっと部屋を出て行った。

 ◇

 自室の床にシドは茫然と座り込んでいた。視界は薄闇の中にあり、そこからプツプツと小さな音が聞こえ続けている。
「どうして」
 自分に向けられた苦い問い。どうして、あんなことをしてしまったのか。だがシドは思い直す。自分はこの日を恐れながらも、心のどこかで望んでいたのでは? 全てを捨てて解放されたいと願っていたのでは?
「言い訳だ」
 思った端からシドは否定した。それは単なる自己保身じゃないか、と。

 来客を告げるブザーが鳴った。一瞬びくりと顔を上げたシドだったが、再び膝に頬をもたせた。
 二度。そして三度目のブザーが急き立てるように鳴った時、仕方なく身体を起こしてドアに向かった。一呼吸をおいてから、いつもの顔をつくる。
 外の人物が誰なのかシドは知らない。だがドアを開けた時、思いもよらぬことが現実となった。外に立っていたのはジェイだったのだ。

 困惑と動揺に立っていられず、シドがその場にくずおれる。慌てたようにジェイの腕がその肩を抱きとめた。
「すまなかった」
 シドに巣食っていた暗い澱みは、その言葉で瞬く間に引いていった。
 意識の奥底にある水面から泡粒のように浮かび上がった狂気。なにがそれを引き出してしまったのか、シドには分からない。しかし今はもう泡は全て鎮められ、鏡面のように静寂を取り戻している。

 ジェイの肩口に顔を埋めたシドは、涙がシャツを濡らすのを感じていた。顔を上げることも声を出すこともできずに、強く瞼を閉じる。
 だが。シドはすぐに平静を取り戻し、いつもの苦笑を浮かべた。狂気が去った後には、居心地の悪さしか残っていない。

 顔を背けながらシドがジェイから身体を離す。そして小さく息を落とすと、馴染んだ口調で皮肉をぶつけた。
「カツミに追い出されたんだろ? 貴方はこんなに気のまわせる人じゃないものね」

 涙の痕の残るうちに、そんな皮肉を言うとは。戸惑ったようにジェイが瞬く。だが彼もまた深追いはせずに、いつものように軽口を叩いた。

「当たりだ。よく分かったな」
 そこにいるのはいつもの二人。本音を知りながらも、感情の一部だけを取り出してやり取りする二人がいた。

「当然だよ。それくらい分かる」
 皮肉を重ねながらシドは心で呟く。分からないはずがない。ずっと貴方だけを見てきたのだから。自分は貴方を入れる殻。そこに貴方を満たすことだけが、自分の生きる意味なのだから。
 シドの向けた苦笑いを、ジェイがそのまま押し戻した。再びぽつりと浮かんだ泡は、その笑みに全て潰されていった。

 ◇

 珈琲(カッファ)の香りが部屋を満たしていた。
 瑠璃色の珈琲は元々オッジで作られたものだ。
 シドが簡易キッチンから戻ると、ジェイはソファーで煙草を喫っていた。カツミの前では決して喫わないくせに。そう思いながらも、シドは以前と変わらない紫煙の香に安堵していた。

「カツミにね、俺は親父の代わりなのかと聞かれたよ」
 事のあらましを告げながら、シドが向かいのソファーに腰を下ろす。手渡されたカップの湯気がジェイの溜息で流れた。
「結局は騙してたんだと責められた」
「……」
「見えてないんだ。貴方も、もっと言葉を尽くさないとカツミには分からないよ。不安になるだけ」

 カツミが心を閉ざすわけ。なんでも悪い方に捉えて、自分を追い込んでしまうわけ。シドの助言に、ジェイが話すのを迷っていた事実を切り出した。

「昨日の夜、カツミは墓地でロイに会っていた」
「墓地? 雨が降ってたのに」
「そう。その雨のなかでカツミはロイに犯されたんだ。しかもフィーアの墓の上で」
 驚愕したシドの脳裏にカツミの顔が蘇る。言葉の裏にあった絶望に自分はまるで気づけなかった。

「カツミが言ってた。初めての相手は父親だったとね」
 畳み掛けられた事実が、シドの罪悪感を煽った。

「カツミはどこまで自分を追い詰めれば気が済むんだ。あれは生きながらに死のうとしている。私が死ぬのを許すまで、抜け殻になるのを待っているんだよ」
 煙草を揉み消すジェイの指は震えていた。

「誰の声もカツミには届かない。耳を塞いで泣くだけだ。どんなに酷い扱いを受けても当然の罰だと思っている。笑うことも食べることも眠ることも、自分を慰めることを全て拒んで、ただ待っているんだ。私がもう死んでいいと言うのを。そんなこと言えるはずもないのに」
 ジェイの苦悩を黙って聞いていたシドが、そっと制止した。

「追い詰められているのは、貴方の方だよ」
 ジェイの唇の前に手をかざし、微かな笑みを向ける。

「貴方はカツミに聞こえるように、こう言い続けてればいいんだ。私のために生きてほしいとね。簡単なことだ。どんなに迷って遠回りしても、その言葉があの子を生かすんだよ。貴方がその火を消さない限り、カツミはいつか気がつくよ」

 これは同情なのだろうか。それとも償いか。ジェイがカツミを案ずる言葉が鋭い棘のように突き刺さる。なのにシドはもうカツミを恨むことが出来ない。恨みたいのに恨めない。

 心からは血が流れている。その痛みに悲鳴を上げている。しかしシドは思っていた。もしジェイがカツミを傷つけただけで捨てていたとしたら、自分はこんなにも彼に執着したのだろうかと。

 自分のなかに二つの気持ちがあることをシドは知っていた。ジェイを取り戻したいという欲と、彼を支えたいという理性。しかしその二つは相容れない。対極にある想いが常にせめぎ合う。欲に引かれれば狂気に、理性に引かれれば苦悩に。そこに安寧などない。それなのに自分は動けない。逃げ出してしまえば、全てを失ってしまうのだから。

 自分の欲をジェイはとうに見抜いているだろう。数日前のキスを思い出し、シドは唇に指を触れた。
 他人を責める資格などないのだ。みずから望んで、選んでいる今なのだから。
「帰ったら?」
 なるべく穏やかにと思いながら、シドが口を開いた。その気持ちに反して、滑り出た言葉は辛口だった。

「こんなことしている間に、カツミは死ぬかもよ」
「そうなったら自分も死ぬだけだ」
 臆面もなく切り返したジェイが、テーブルの上の煙草に手を伸ばした。その手をシドの手が押さえる。目を合わせたジェイにシドが問うた。

「ジェイ。自分はどういう存在なのかな?」
 貴方にとっての……。
 瞬きをしたジェイが乾いた答えを放った。シドにいつもの苦笑を浮かべさせるに足る答えを。
「昔の恋人だよ」
「そうだったな」

 押えていた手をシドが引こうとした。だがその手は、今度はジェイによって捕らえられた。
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登場人物紹介

□カツミ・シーバル

主人公。

男性。十九歳~二十歳。少尉~少佐。飛行隊。

眉目秀麗。幼顔で中性的。身長160センチ。華奢で小柄。

右の瞳がトパーズ色、左の瞳がクリムゾン色のオッドアイ(ヘテロクロミア)。

肩まで伸びたやや癖のあるクリーム色の猫っ毛。

最高位の士官学校を首席卒業した優秀な人物。父親は特区の最高責任者。

母親はカツミを産んですぐに死亡。一人っ子。

育児や教育は使用人によって行われ、父親からネグレクトと虐待を受けて育つ。

拒食症で不眠症。体力は特殊能力で保持している。

超A級特殊能力者だが、子供の頃に父親の本音を知るのが怖くなり、能力のほぼ全てをみずから封印した。

ただし戦地では解放している。

口癖は「ごめん」。自虐的で自罰的。逆に天然な面があり、小悪魔的。

無意識に他人の本音を引き出す言動をする。

必要のない人間だと言われることを極度に恐れている。寂しがり。

□ジェイ・ド・ミューグレー

カツミの恋人。

男性。二十八歳~二十九歳。少佐。研究者。

貴族の家柄。家は財閥系の情報企業。長男で弟がひとりいる。

身長180センチ。すらりとした長身。黒髪。淡い茶色の瞳。眼鏡をしている。

幼い頃から天才と騒がれ跡取りとして大事に育てられる。

幼年学校は二年スキップしたにも関わらず、あらゆる資格を取得。

士官学校も一年スキップで卒業する(ラヴィ・シルバー以来の快挙)。

家の跡を継ぐまでの間という約束で長年の夢であった特区入隊を果たすが、事故により飛行隊任務が出来なくなる。婚約も破棄。任務も研究職に変える。家の跡取りは弟に変わる。

カツミにとっては父親的存在。

優しさと狡さ、独占欲と包容力を持つ。

長いスパンで先を見通すため、他人には理解し難く、アンビバレンツな人物に見える。

□シド・レイモンド

ジェイの元恋人。一年前に別れたが、現在も未練を持っている。

男性。二十八歳。少佐。軍医(外科医)。

実家は開業医。父親は外科医。母親はシドが十歳の時に離婚。一人息子。

肩まで伸びた癖のある栗色の髪。栗色の瞳。女性的な印象。

スキップで入学した医大を首席卒業した切れ者。毒舌家で皮肉屋。挫折を知らない世渡り上手。

カツミの恋敵的存在だが、いい人を演じている。

□フィーア・ブルーム

カツミの同僚。ライバル的存在。

男性。十九歳。少尉。飛行隊。

さらりとしたクリーム色の髪。深く青い瞳。A級特殊能力者。

母親から虐待を受けて育つ。士官学校に入る前からアーロン(ジェイの弟)に見出され、支援を受ける。

温厚で控え目な性格を演じているが、他人に本音で接することを恐れている。

□セアラ・ラディアン

カツミの姉的存在。関係は一度だけあるが実質片思い。

女性。十九歳。少尉。管制塔任務。

さらりとした長い黒髪。栗色の瞳。美少女。

天真爛漫。反面、思慮深く母性が強い。

大きな瞳をくるりと上に向けて微笑む癖がある。

□ユーリー・ファント

カツミの同僚。上官。

男性。二十五歳。少佐。飛行隊。

実家は貿易商。サラの幼馴染み。自称情報通。A級特殊能力者。

社会背景や軍の在り方に強い疑問を持っている。

困った時に頭を掻く癖がある。

□ロイ・フィード・シーバル

カツミの父。特区の最高責任者。

男性。四十七歳。中将。

クリーム色の短髪。トパーズ色の瞳。長身。

実力主義の冷酷な人物。カツミのことは所有物と思っている。

A級特殊能力者。

□ルシファー・セルディス

カツミの同僚。後輩。

男性。十八歳。少尉~大尉。飛行隊。カツミのフライトオフィサ。

実家は百貨店経営や貿易を営む名家。兄と姉がおり、末っ子。

さらりとした黒髪。深い緑色の瞳。身長180センチ。長身。

A級特殊能力者。特に『聞く者』の能力に長けている。

他人の心の裏側が聞けることで、子供の頃は人間不信で攻撃的だった。

聞けることが当然で育っているので、シールドが高く聞けないカツミに振り回される。同時に唯一の分からない相手であるカツミに惹かれる。

口が達者だが奥手。頭脳先行型。俯瞰から物事を見るのは得意だが、他人の気持ちは察するよりも読んできたので、思い図ることが苦手。観察者側に自分を置く。

読書が趣味。常に分厚い本を読み漁っている。愛読書は『廃船の記録』。

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