第三話 自分だけの大切な宝石

文字数 3,280文字

 瞼を透る光を感じ、ジェイは薄っすらと目を開けた。カツミは隣でぐっすり眠っている。
 夜明けの色が温室のガラスを染め始めていた。漆黒の闇が濃紺に、やがて薄紫に。朝焼けの緋色を予兆させる、美しいグラデーション。
 冬に支配されているはずの南部の海は、今朝は不思議と凪いでいた。静かな海面が朝陽に照らされ、鮮やかな金色に染まっていく。緋色の空と金色の水面。その色は、まるで天からの祝福のよう。そして消えゆく生命の残照のようだった。

 ジェイは、みずからの残り火を見つめようと瞼を閉ざす。耳に届くのは暖炉の薪が小さく爆ぜる音。もうほとんどが灰となり、熾火の残った暖炉。
 ガサリ。炭の崩れ落ちる音がした。燃え尽きる寸前の、微かな叫びのように。

 残された時間が、あまりに少ないことに嘆息する。
 それでも。最期の時までカツミのなかにいのちの色を映さなければ。それが自分の生きた証なのだから。

 ジェイは寄り添って眠っているカツミに唇を寄せた。頬の傷を癒すように何度もキスを落とす。
 起きてくれないか。カツミ。最後の我が儘を聞いてくれ。お前の瞳が見たい。お前の声を聞きたいんだ。
 やがて、神秘的なオッドアイがゆっくりと開かれた。
 生死を宿す宿命の瞳が。ジェイを魅了し続けた真実を映す鏡が。

「やられたな」
 傷を撫でながら目を細めたジェイに、カツミがいつものようにむくれてみせた。
「油断しただけだよ」
「ほう?」
「ちゃんと一人で解決した。心配いらないよ」
 きっぱりしたカツミの返事に、ジェイは少しだけ寂しさを覚えた。口を閉ざすと、小さな肩を抱き寄せる。

 ジェイは思う。カツミはもう、この手を離れていくのだと。それを促したのは自分自身なのだと。
 共にいられたのは、たったの一年間。しかし、短くて良かったのだとジェイは思う。カツミのなかに、いのちだけを残して去ることが出来るのだから。

「愛してるよ」
 ジェイの囁いた言葉に、カツミが頬を染めて同じ告白を返した。
「俺も。愛してる。誰よりも」

 ──死から生へ。
 時を超え、ジェイに課せられたのは、守る者としての使命。彼はそれを知らない。分かっているのは、カツミという存在が自分の本心を炙り出し、捉えて離さなかったということ。生まれて初めて本気で自分のものにしたいと思った、唯一無二の存在だということ。

 暖炉の熾火。それは間もなく白いだけの灰と化す。
 いのちの奇跡と必然の死を示すように。あれだけ赤々と燃え盛っていた炎が色を失っていく。
 永遠の眠りに誘われながら、ジェイが請い願う。
 あと少しの猶予を。最後の言葉を伝え終わるまで、カツミを送り出すまで、あと少しの猶予を……。

 その時。まるで彼の願いを聞き届けたかのように、風のない温室の葉陰が大きく揺らいだ。

 ◇

 すっかり陽が昇った時刻。カツミが寝室に戻ると、ジェイが瞼を開けていた。天界が愛した者を手招くように、窓から柔らかな光が降り注いでいる。
「ごめん。起こしちゃったね」
 ジェイは満ち足りた顔をしていた。目覚めた時に最愛の人がいる。その至福に身をゆだねるように。
「なにか飲む?」
「ワインがいいな。赤で」
 ジェイのリクエストに呆れながらも、カツミがワインを取りに行く。時刻は正午。グラスに口をつけたジェイは、その時が来たのを悟った。

「カツミ」
 それは、いつもと違う声だった。優しさと慈しみを超えた、厳しさがこもった声。
「必ず、生きて戻ってこい」
 ジェイの強い口調に、カツミがぎりっと表情を引き締める。

 ──必ず生きて戻る。それはジェイからの『至上命令』だった。

「必ずだぞ。誓えるか」
 透明な水面にいのちのクリムゾンが映る。ジェイに、分け与えられた命が。
「誓うよ。必ず戻って来る」
 幻想的な瞳に射貫くような鋭さを宿し、カツミが強く頷いた。頬を緩めたジェイが腕を伸ばす。最後に交わされる羽根のような口づけ。
 ジェイはいつものようにカツミの髪を撫で、ゆっくり肩を押した。光に溶けるような眼差し。ジェイに微笑んでみせたカツミは、想いを断ち切るようにさっと背を向けた。

 足音が遠ざかり、ドアの閉まる音が響いた。やがて車の音が聞こえなくなるまで、ジェイは全ての音を脳裏に刻み続けた。
 再び訪れた静寂のなか、ワイングラスに視線を移す。
 光を受けたグラスの底に赤い影が落ちていた。まるで宝石のような、最愛の人のいのちの色が。
 温め、癒し、守り通した宝石。そしてもう、手のなかから飛び立っていった希望。

 切なさと安堵のなか、再び横たわったジェイを導く光。その瞼の裏には、赤い宝石がいつまでも残っていた。

 ◇

 カツミが特区に戻った時には、すでに出撃前の喧噪が基地を満たしていた。彼は人波を縫うようにして、シドのいる医務室に向かう。

「忙しい?」
 ドアを開けるなりそう訊いたカツミに、シドが大仰に肩をすくめて見せた。
「お前の親父さんがいきなり辞めたんで、大混乱だ」
 カツミの心中を探るようなひと言。しかしカツミは眉ひとつ動かさなかった。その表情を見て、取り越し苦労だったかとシドは安堵する。
「後任はどうなったの?」
「グレイ准将が引き継いだ。順当だろうね。人望も厚いし、上出来だよ」

 ほっとしたように座ったカツミの向かいに、シドが腰を下ろす。
「帰ってきたな」
「当然だよ」
 ジェイの元に行く時、毅然と背を向けたカツミ。それを思い出したシドが、いつもの苦笑を浮かべる。

「出るのは18ミリアだったな」
 頷いたカツミに、シドが短く告げた。
「私は明後日だ。今日、ジェイの所に行く」
「なるべく早く行ってやって」
「悪いのか?」
「行った時に動けなくなってた。自分で鎮痛剤も打てない状態だったよ」
「カツミが打ったのか?」
 叱責にも取れる口調にカツミがそっぽを向いた。まだ何か言いたげにしていた軍医が、それを小さな溜息に代える。

 時計を見てカツミが立ち上がると、シドもまた生還を約束させた。
「武勲を祈るよ。准将にも他の連中にも、お前の実力をたっぷり見せつけてやれ」
 それに笑みで応えたカツミだったが、すぐに唇を結び、ビシリと敬礼を返した。
「ドクターが言うんなら、きっとそうなるね」
 幼さの残る言葉を置き、十年後に特区双璧の一人となる人物がドアを出て行った。

 ◇

 遠くで電話の呼び出し音が鳴り続けている。重い瞼を開けたジェイは、隣の部屋に視線を向けた。しかしもう起き上がる余力は残っていない。
 電話が留守録に切り替わった。そしてジェイの耳に届いたのは、一番大切な人の声──。

 『いないの?』
 戸惑うような確認。わずかな沈黙。
 『すぐに、ドクターがそっちに向かうからね』
 いたわるように囁く声。
 ジェイは、その声に包まれながら瞼を閉じる。至福が彼を満たしていた。

 『今から出るよ。約束は守るからね』
 自分だけの……大切な宝石。
 『ジェイのとこだけだよ。俺の帰る場所は。きっと戻るからね』
 カツミ。いのちの宝石は必ずここに帰ってくる。

 『好きだよ、ジェイ。ずっと好きだよ』
 必ず……必ず帰ってくる。

 今際の際にあって、ジェイがどこまでカツミの声に抱かれていられたのか……知るよしもない。
 カツミのメッセージが途絶えた時には、すでに死出の旅に就いていた。
 眠るように彼は逝った。みずからの生命を、ひとつの希望に置き換えて。

 ◇

 一つの悲劇の終わりが、もう一つの悲劇の幕を開けた。シドは……間に合わなかったのだ。

 呼び鈴を押しても応答がない。ノブを回すと鍵が掛かっていない。そっとドアを開けて邸内に入ったシドは、激しい胸騒ぎに襲われた。足が震えて、真っ直ぐに歩けない。

「ジェイ?」
 琥珀色の夕陽のなか。ベッドに横たわるジェイは、眠っているようだった。
「ジェイ?」
 再び呼びかけた刹那、シドは間に合わなかったことを悟った。

 天からの祝福のような黄金色の光。そのなかでシドの時が止まる。全ての音が途絶え、全ての色が失われた。その場にくずおれたシドの瞳には、もう何も映らない。
 予測していた現実だったはず。しかしシドは、突き付けられた現実に耐えられなかった。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

□カツミ・シーバル

主人公。

男性。十九歳~二十歳。少尉~少佐。飛行隊。

眉目秀麗。幼顔で中性的。身長160センチ。華奢で小柄。

右の瞳がトパーズ色、左の瞳がクリムゾン色のオッドアイ(ヘテロクロミア)。

肩まで伸びたやや癖のあるクリーム色の猫っ毛。

最高位の士官学校を首席卒業した優秀な人物。父親は特区の最高責任者。

母親はカツミを産んですぐに死亡。一人っ子。

育児や教育は使用人によって行われ、父親からネグレクトと虐待を受けて育つ。

拒食症で不眠症。体力は特殊能力で保持している。

超A級特殊能力者だが、子供の頃に父親の本音を知るのが怖くなり、能力のほぼ全てをみずから封印した。

ただし戦地では解放している。

口癖は「ごめん」。自虐的で自罰的。逆に天然な面があり、小悪魔的。

無意識に他人の本音を引き出す言動をする。

必要のない人間だと言われることを極度に恐れている。寂しがり。

□ジェイ・ド・ミューグレー

カツミの恋人。

男性。二十八歳~二十九歳。少佐。研究者。

貴族の家柄。家は財閥系の情報企業。長男で弟がひとりいる。

身長180センチ。すらりとした長身。黒髪。淡い茶色の瞳。眼鏡をしている。

幼い頃から天才と騒がれ跡取りとして大事に育てられる。

幼年学校は二年スキップしたにも関わらず、あらゆる資格を取得。

士官学校も一年スキップで卒業する(ラヴィ・シルバー以来の快挙)。

家の跡を継ぐまでの間という約束で長年の夢であった特区入隊を果たすが、事故により飛行隊任務が出来なくなる。婚約も破棄。任務も研究職に変える。家の跡取りは弟に変わる。

カツミにとっては父親的存在。

優しさと狡さ、独占欲と包容力を持つ。

長いスパンで先を見通すため、他人には理解し難く、アンビバレンツな人物に見える。

□シド・レイモンド

ジェイの元恋人。一年前に別れたが、現在も未練を持っている。

男性。二十八歳。少佐。軍医(外科医)。

実家は開業医。父親は外科医。母親はシドが十歳の時に離婚。一人息子。

肩まで伸びた癖のある栗色の髪。栗色の瞳。女性的な印象。

スキップで入学した医大を首席卒業した切れ者。毒舌家で皮肉屋。挫折を知らない世渡り上手。

カツミの恋敵的存在だが、いい人を演じている。

□フィーア・ブルーム

カツミの同僚。ライバル的存在。

男性。十九歳。少尉。飛行隊。

さらりとしたクリーム色の髪。深く青い瞳。A級特殊能力者。

母親から虐待を受けて育つ。士官学校に入る前からアーロン(ジェイの弟)に見出され、支援を受ける。

温厚で控え目な性格を演じているが、他人に本音で接することを恐れている。

□セアラ・ラディアン

カツミの姉的存在。関係は一度だけあるが実質片思い。

女性。十九歳。少尉。管制塔任務。

さらりとした長い黒髪。栗色の瞳。美少女。

天真爛漫。反面、思慮深く母性が強い。

大きな瞳をくるりと上に向けて微笑む癖がある。

□ユーリー・ファント

カツミの同僚。上官。

男性。二十五歳。少佐。飛行隊。

実家は貿易商。サラの幼馴染み。自称情報通。A級特殊能力者。

社会背景や軍の在り方に強い疑問を持っている。

困った時に頭を掻く癖がある。

□ロイ・フィード・シーバル

カツミの父。特区の最高責任者。

男性。四十七歳。中将。

クリーム色の短髪。トパーズ色の瞳。長身。

実力主義の冷酷な人物。カツミのことは所有物と思っている。

A級特殊能力者。

□ルシファー・セルディス

カツミの同僚。後輩。

男性。十八歳。少尉~大尉。飛行隊。カツミのフライトオフィサ。

実家は百貨店経営や貿易を営む名家。兄と姉がおり、末っ子。

さらりとした黒髪。深い緑色の瞳。身長180センチ。長身。

A級特殊能力者。特に『聞く者』の能力に長けている。

他人の心の裏側が聞けることで、子供の頃は人間不信で攻撃的だった。

聞けることが当然で育っているので、シールドが高く聞けないカツミに振り回される。同時に唯一の分からない相手であるカツミに惹かれる。

口が達者だが奥手。頭脳先行型。俯瞰から物事を見るのは得意だが、他人の気持ちは察するよりも読んできたので、思い図ることが苦手。観察者側に自分を置く。

読書が趣味。常に分厚い本を読み漁っている。愛読書は『廃船の記録』。

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み