第二話 おまえはそれを拒めない

文字数 3,101文字

 たったひとりの決して失えない存在。拒み続ける世界から、唯一守ってくれる人。
 彼がいなければ、カツミは既にいなかった。
 あの冬の日に。初雪の降る寒い夜に。心も身体も手放して、みずから死を選び取っていた。

「ジェイ」
 力なく呟いたカツミの傍に、ジェイが静かに近づく。ふたたび同じ名前が呟かれた。呼び続けていなければ、心が壊れるとカツミは思っていた。
 歩み寄ったジェイが手にした銃をゴトリと置いた。広げられる温かな腕が縋りつくカツミを包んで閉じる。
 ジェイは思う。この腕の中だけでずっと閉じ込めていられたらと。自由も可能性も全て奪い、縛り付けていられたら……。だがその想いが招いてしまったことなのだ。自分の焦りで。自分の恐れによって。最悪の結果を突き付けられるところだった。

 どうしたらいい? ジェイを見上げたカツミが瞳で訊いていた。
 自分はどうしたらいいの? 何をしたらいいの? 生きてていいの? 自責に押し潰されるこころが叫びを上げている。
 自分こそ責められるべきなのに。ジェイはそう思いながらも毅然と言い渡した。

「お前にできることは何もない。フィーアが自分で決めることだ」
 生と死を一対にした光。その瞳から大粒の涙がこぼれ落ちた。ジェイはもう見ていることが出来ずに、再びカツミを抱き締める。

「お前は誰にも殺させない。それができるのは私だけだ」
 独り占めできるのは自分だけだ。自分によってしか、死など与えない。だがジェイは、カツミの懺悔で自分の罪を思い知った。

「ごめんね、ジェイ。怒ってるだろ?」
「……カツミ」
「ほんとは俺を撃って欲しかった。それが一番の幸せだから。そしたら俺は、ジェイのなかでずっと生きていけるから」

 ──何も覚えずにすむ場所に。孤独も、不安も、絶望も。苛立ちも、恐れも、哀しみも。何もない場所に行けるのなら。ジェイの手で。唯一無二の、こころを預ける人の手で。

 ジェイにとって、それは残酷な願いだった。殺せるのは自分だけだと告げたばかりなのに、同じ言葉をカツミに向けられただけで、波立つのを忘れていた心がかき乱される。
 だがジェイには、決して譲れないことがあった。この手を放さなければならない時まで、何があってもカツミを守り通す。そのことだけは。
「お前は誰のためにも生きようとしないんだな」
 悲しげな声がカツミの耳朶を打った。彼は力なくうなだれる。そう。自分は誰のためにも生きようとしていない。今はただ、この唯一を永遠にしたいと思っている。
「私のためにも生きてくれないのか?」
 カツミは無言だった。代わりに低い嗚咽が暗い空気を震わせる。

 ──いのちのクリムゾン。死のトパーズ。
 生死の天秤が、知ってしまった事実を乗せてガタリと大きく傾きを変える。
 コインの裏側。一対の生と死。
 カツミはまるでフィーアの心を映したように、絶望の底で震えていた。

 ◇

 もう深夜も近いというのに来客の合図がした。
 自室のドアを開けたシドは、思いもよらぬ人物を認めて息を飲む。黙ったままのジェイが昨日の続きのようにすっと部屋に入ると、定位置だったソファーに腰を下ろした。

「なにかあったのか?」
 動揺を隠してようやく水を向けたシドに、ジェイが疲れたように弱音をこぼした。
「カツミが殺されるところだった」
「フィーアに?」
 わずかに頷いたジェイが肩を落とす。彼が最も恐れていたことだった。
 だがシドは思う。自分もこの結果を恐れていた。しかし心のどこかで望んでいなかったか? ジェイの望みは自分の望み。それでも逆を願っていなかったか?

「カツミが医務室に来たと知らせてくれたろう? あの後、初めて約束をすっぽかされてね。IDを使った経路を辿って追ったんだよ。危機一髪だ」
 ID経路を辿るなど他の隊員には決して出来ない。この基地のトップと内通しているジェイにしか出来ないのだ。彼が何をしても、ここの最高責任者は黙認する。決して事が表沙汰になることはない。

「どうしたんだ?」
 ドアの前に立ち尽くしたままのシドに、ジェイが問うた。
 自分はもう過去のことか……。ジェイの頭にはカツミのことしかないようだ。シドは、ひどく空しさを覚えた。諦めたように向かいのソファーに座る。

「一年ぶりだと思っただけ。貴方がこの部屋に来たのが」
 シドの皮肉をジェイが無言でかわす。
「報告なら電話でも良かったはずだ。わざわざ出向いて来たことに、わけなんてないんだろうね。もしかして、言われて初めて気づいた?」
「……ああ」
 自嘲を放り投げるジェイを見つめ、シドは自業自得じゃないかと眉をひそめた。
 ジェイがみずからカツミを追い込んだのだ。自分もそれに手に貸した。言われるままフィーアを貶めた。
 シドは思う。なぜ抗えないのだろうと。
 ジェイの前では理性などあまりにたやすく捻じ伏せられてしまう。罪ですら進んで選び取ってしまう。

「なんでここに?」
「見てられなかったんだ。どうにかなりそうで」
「カツミは?」
「寝かせてきた。薬を飲ませて」
「……甘いよ。ジェイ」
 前髪をかきあげるジェイの前に、シドが溜息をこぼした。逃避でしかない。目覚めれば、カツミは自分を責めて泣くのだ。そして軛(くびき)から解放されたものは元には戻れない。
「相変わらず残酷だね。変わらないよ、貴方は」
「だよな」

 開き直って答えたジェイが、他人には見せない弱音をこぼした。シドだけに。他の誰でもなく、シド一人だけに。残酷な弱音を、残酷な本音を、かつての恋人だった者に。

「カツミの気持ちが離れると思うと、狂いそうになるんだ。自分を保てない」
「しょせん貴方は自分だけが可愛いんだよ。捨てた相手を訪ねて来てまで、今の恋人の話ができるんだからね」
 澱のように溜まったわだかまり。それが堰を切ったように溢れだす。いつものシドであれば、決して口にしないことばかりだった。
「どうしたらそんなに残酷になれるんだ? 貴方はなにも分かってない。自分のことしか考えてない」
「じゃあなぜ、お前は私を部屋に入れた? 怒鳴って追い返せばいいじゃないか」

 ジェイがさっと腰を上げた。息を飲む相手を量るような視線で留め置くと、余裕すら感じさせる笑みを浮かべながら、シドの隣に座り直す。
 行き場のない想いがシドの心を苛んだ。だが彼には、これだけでジェイの気持ちが分かってしまう。ジェイですら、頼りたい時があるのだと。

「とんでもない自信家だね」
「お前がそうさせたんだろう?」
 ジェイがシドの背に腕をまわした。その指が癖のある髪を弄ぶ。皮肉は通じなかったが、シドはむしろほっとしていた。自分がジェイに必要とされていることに安堵していた。

「あんな子供の代わりなんて、ごめんだ」
「代わりじゃない」
 皮肉も抗いも虚勢も、全て見抜かれていた。唇が重なる。偽りと逃避。傷つけあうだけの口づけを交わす。
「酷いね。分かっててやってる」
「分かってるよ。ずいぶんと理不尽なことくらいはね。でも、おまえはそれを拒めない」

 ジェイの断言がシドの頬を張った。唯一無二の神は、抗えない者に残酷を強いる。その心が壊れていくことも厭わずに。
「殺したくなったか? どうぞ」
 ジェイの挑発はただの虚勢だ。シドはそう思いながら残酷な胸に顔を埋めた。やるせなさを隠すために。一瞬でも、この時をこぼすことのないように。

 ジェイはいつも見透かしてしまう。そしてシドはどんなことも拒めない。
 一年ぶりの腕のなかでシドは思っていた。
 ジェイから与えられるものがどんな刃であったとしても、自分は進んで受け取ってしまうだろうと。身を焼くような残酷ですら、至福に変えられるのだからと。
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登場人物紹介

□カツミ・シーバル

主人公。

男性。十九歳~二十歳。少尉~少佐。飛行隊。

眉目秀麗。幼顔で中性的。身長160センチ。華奢で小柄。

右の瞳がトパーズ色、左の瞳がクリムゾン色のオッドアイ(ヘテロクロミア)。

肩まで伸びたやや癖のあるクリーム色の猫っ毛。

最高位の士官学校を首席卒業した優秀な人物。父親は特区の最高責任者。

母親はカツミを産んですぐに死亡。一人っ子。

育児や教育は使用人によって行われ、父親からネグレクトと虐待を受けて育つ。

拒食症で不眠症。体力は特殊能力で保持している。

超A級特殊能力者だが、子供の頃に父親の本音を知るのが怖くなり、能力のほぼ全てをみずから封印した。

ただし戦地では解放している。

口癖は「ごめん」。自虐的で自罰的。逆に天然な面があり、小悪魔的。

無意識に他人の本音を引き出す言動をする。

必要のない人間だと言われることを極度に恐れている。寂しがり。

□ジェイ・ド・ミューグレー

カツミの恋人。

男性。二十八歳~二十九歳。少佐。研究者。

貴族の家柄。家は財閥系の情報企業。長男で弟がひとりいる。

身長180センチ。すらりとした長身。黒髪。淡い茶色の瞳。眼鏡をしている。

幼い頃から天才と騒がれ跡取りとして大事に育てられる。

幼年学校は二年スキップしたにも関わらず、あらゆる資格を取得。

士官学校も一年スキップで卒業する(ラヴィ・シルバー以来の快挙)。

家の跡を継ぐまでの間という約束で長年の夢であった特区入隊を果たすが、事故により飛行隊任務が出来なくなる。婚約も破棄。任務も研究職に変える。家の跡取りは弟に変わる。

カツミにとっては父親的存在。

優しさと狡さ、独占欲と包容力を持つ。

長いスパンで先を見通すため、他人には理解し難く、アンビバレンツな人物に見える。

□シド・レイモンド

ジェイの元恋人。一年前に別れたが、現在も未練を持っている。

男性。二十八歳。少佐。軍医(外科医)。

実家は開業医。父親は外科医。母親はシドが十歳の時に離婚。一人息子。

肩まで伸びた癖のある栗色の髪。栗色の瞳。女性的な印象。

スキップで入学した医大を首席卒業した切れ者。毒舌家で皮肉屋。挫折を知らない世渡り上手。

カツミの恋敵的存在だが、いい人を演じている。

□フィーア・ブルーム

カツミの同僚。ライバル的存在。

男性。十九歳。少尉。飛行隊。

さらりとしたクリーム色の髪。深く青い瞳。A級特殊能力者。

母親から虐待を受けて育つ。士官学校に入る前からアーロン(ジェイの弟)に見出され、支援を受ける。

温厚で控え目な性格を演じているが、他人に本音で接することを恐れている。

□セアラ・ラディアン

カツミの姉的存在。関係は一度だけあるが実質片思い。

女性。十九歳。少尉。管制塔任務。

さらりとした長い黒髪。栗色の瞳。美少女。

天真爛漫。反面、思慮深く母性が強い。

大きな瞳をくるりと上に向けて微笑む癖がある。

□ユーリー・ファント

カツミの同僚。上官。

男性。二十五歳。少佐。飛行隊。

実家は貿易商。サラの幼馴染み。自称情報通。A級特殊能力者。

社会背景や軍の在り方に強い疑問を持っている。

困った時に頭を掻く癖がある。

□ロイ・フィード・シーバル

カツミの父。特区の最高責任者。

男性。四十七歳。中将。

クリーム色の短髪。トパーズ色の瞳。長身。

実力主義の冷酷な人物。カツミのことは所有物と思っている。

A級特殊能力者。

□ルシファー・セルディス

カツミの同僚。後輩。

男性。十八歳。少尉~大尉。飛行隊。カツミのフライトオフィサ。

実家は百貨店経営や貿易を営む名家。兄と姉がおり、末っ子。

さらりとした黒髪。深い緑色の瞳。身長180センチ。長身。

A級特殊能力者。特に『聞く者』の能力に長けている。

他人の心の裏側が聞けることで、子供の頃は人間不信で攻撃的だった。

聞けることが当然で育っているので、シールドが高く聞けないカツミに振り回される。同時に唯一の分からない相手であるカツミに惹かれる。

口が達者だが奥手。頭脳先行型。俯瞰から物事を見るのは得意だが、他人の気持ちは察するよりも読んできたので、思い図ることが苦手。観察者側に自分を置く。

読書が趣味。常に分厚い本を読み漁っている。愛読書は『廃船の記録』。

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