第七話 コインの裏

文字数 2,728文字

 部屋の灯りは既に落とされていた。ベッドに上がったカツミがバスローブを放り投げる。子供っぽく、乱暴に、照れ隠しのように。向き合う二人は子猫に見えた。こころも身体も幼い、二匹の子猫に。
 フィーアの手が、すっとカツミの腕に伸びた。残された痕を見つけたのだ。確かめるように指先で触れる無言のままの儀式。カツミにはフィーアが何を思っているのか分からない。ただじっと黙って受け入れていた。

「似てるね。双子みたい」
 口づけの痕に無粋な言葉はなく、代わりに初めて見るような視線が向いた。何も纏わず見つめ合う二人は、双子のようだがまるで違う。似ているようで対極にいた。
 フィーアの視線の先にある、美しいオッドアイ。
 深い赤──クリムゾンは血を連想させ、淡い琥珀──トパーズは黄昏を思い起こさせた。生と死が一対となった瞳だと感じた。

 ──いのちのクリムゾン。死のトパーズ。
 神秘的な瞳は見る者すべての心を奪うだろう。美しさに魅了されるだけではない。生き方を問われる真実を映す鏡。
 だからこそ王女は言った。カツミはこの星の意識の底を洗う鏡だと。

 カツミがフィーアの手を取ると唇を寄せた。触れるように優しく。しかしすぐに抑えが利かなくなる。
 彼には焦らすようなことは出来ない。慣れているようで、それでもやはり幼かった。欲のままについばまれ首筋をくすぐる息に、フィーアが声を上げて笑う。
「好きだよ」
 カツミの背に腕をまわしフィーアが耳元で囁いた。
 彼はカツミの瞳を直視出来なかった。全てを暴かれそうで。恐れていることを突き付けられそうで。その深淵を覗くことなどとても出来ないのだ。

 身体が離れると、うつむいたままのフィーアが願いを告げた。自分の腕に触れながら、切ない願いを。
「カツミと同じ痕をつけて」
 ──刻印を。永遠に消えない証を。
 深紅の瞳が切なげに揺らいだ。だがすぐに顔を伏せると血の滲むほど強く吸い上げる。痛みが陶酔に変わる。切なさが欲望に変化する。
 ただ残されたのは刹那のしるし。明日になれば消えてしまうような儚い花びらだった。

 ◇

 二匹の子猫がじゃれ合う。快楽の坂を上り詰めると、フィーアはあっさりと解放されてしまった。与えられる不思議な浮遊感。未完成なものにある危うさに魅入られる。

 手にした者が離さないわけだと、フィーアはそっと苦笑いをこぼした。
 美しさと危うさ。生命力と儚さ。気まぐれに甘えていたかと思えば、ふっと気を逸らして不安にさせる。我が儘に。無邪気に。思いのままに。

 カツミを独り占めできた一日は、あまりに短かった。ただ、短くて良かったのだとフィーアは思う。示された先が思っていた通りと知った今では。
 自分はコインの裏側なのだ。その事実は決して変えられない。ここにいれば、カツミとの時間が増えれば、更なる苦痛が待っているだけだ。

 踊るように指先が背筋を下る。その行き着く先も、自分のゆくえも、フィーアにはもう分かっていた。
 切なかった。だが彼は幸せも感じていたのだ。一筋の光を見つけたように。やっと安らぎを手にできると。

 ◇

 ほんのわずかだが眠っていたらしい。フィーアが壁の時計を見ると、21ミリアをさしている。バスルームからは水の音。
 身体を起こしたフィーアは痛みに動きを止めたが、腕に残る花びらに気づいて唇を押し当てた。息を止め、込み上げてくるものをじっと堪える。
 浴室のドアが開くとカツミが戻って来た。濡れた髪を無造作に拭きながら問いかける。

「眠ってたね。大丈夫?」
「うん。平気」
 無邪気なキスを受け止めながら、フィーアが目を細めた。初めての経験ではない。五年ものあいだ、とある人物とずっと交流があったのだから。

 直視できず受け止められない現実が目の前にあった。フィーアは自身に問う。ほんの一瞬でもカツミの心を独り占めできたのかと。まばたきほどの間でも。
「また来ていい?」
「好きだよ」
 カツミの問いには頷きだけを返し、フィーアは想いを言葉に乗せる。報われることのない想いを。決して報われることのない想いを。

 涙が溢れて来たのは、カツミが部屋を出た後だった。悲しかった。ただ悲しくて、悲しくて、他の感情を全て忘れてしまったように、悲嘆の海に放り込まれていた。
 ──また来ていい?
 もう会えないよ、カツミ。フィーアは心で呟く。
 もう会ってはいけないのだ。彼は自分とは違う。同じだけのものを与えられたのに、大元がまるで違う。
 願わくは、魂の一部でも自分のものにしたい。記憶を刻みたい。永遠に。そのためには?

 窓の外を偵察機が行き過ぎる。差し込むサーチライトの明かり。それがフィーアの顔を舐めるように照らしては消えた。
 なんだ、簡単なことだ。記憶を刻む方法なんて、単純すぎてめまいがするほどじゃないか。
 小さな笑い声が響く。顔を上げた彼の瞳は、驚くほどに澄んでいた。

 ◇

「してやられたって顔してるね」
 就業時間もとうに過ぎた頃。医務室を訪れたジェイに、シドが皮肉を向けた。
「また、すっぽかされたんだろ? 今度の配属が一緒だっていう話は聞いた?」
 ジェイの顔色がいつ変わるかとシドは思っていたが、彼は疲れたように向かいの椅子に座っただけだった。

「そうやって、奪われていくのを黙って見てるわけ?」
「奪えないよ」
 ふいにジェイが返した。確信のこもった言い切り方で。
「今のままでは奪えない。私が恐れるのは、フィーアがそれに気付いて次の手段に出ることだ」
「次? まさか。もうフィーアにカツミは殺せない」
「そう、殺せない。そして報われない。次はどうするか。そんな気持ちになったことがあるか?」

 シドから溜息が落ちた。ジェイはいつも先読みをするのだ。まわりがついて行けないほどの先を。今回もそれで空回りをしてしまった。あのまま放置していれば、カツミとフィーアは平行線だったろうに。
「考えすぎだよ。ジェイ」
「そうか」
 答えるなりジェイは口を閉ざしてしまった。重苦しい空気を嫌うように、立ち上がったシドが窓を開ける。
 こうして弱みを見せてくるジェイに、シドはいまだに戸惑いを覚えてしまう。

 『それでジェイを裏切らせて、どうしたいんだよ? 元のさやに納まろうってんのか?』
 あの時のカツミの言葉が蘇る。
 きっとそうなのだ。えぐられるような言葉を受け止め続けるのも、立場が危うくなるような事に手を貸してしまうのも、その、いつかのため。
 ……いつか? 身震いをして、シドがまた思考を止めた。視線の先のジェイは疲れたように瞼を閉じ、やつれてさえ見える。

 覚悟していたはずの現実を、シドは認めることが出来ない。彼は思っていた。自分こそ、時の神が奪いに来るのをただ座視しているだけだと。
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登場人物紹介

□カツミ・シーバル

主人公。

男性。十九歳~二十歳。少尉~少佐。飛行隊。

眉目秀麗。幼顔で中性的。身長160センチ。華奢で小柄。

右の瞳がトパーズ色、左の瞳がクリムゾン色のオッドアイ(ヘテロクロミア)。

肩まで伸びたやや癖のあるクリーム色の猫っ毛。

最高位の士官学校を首席卒業した優秀な人物。父親は特区の最高責任者。

母親はカツミを産んですぐに死亡。一人っ子。

育児や教育は使用人によって行われ、父親からネグレクトと虐待を受けて育つ。

拒食症で不眠症。体力は特殊能力で保持している。

超A級特殊能力者だが、子供の頃に父親の本音を知るのが怖くなり、能力のほぼ全てをみずから封印した。

ただし戦地では解放している。

口癖は「ごめん」。自虐的で自罰的。逆に天然な面があり、小悪魔的。

無意識に他人の本音を引き出す言動をする。

必要のない人間だと言われることを極度に恐れている。寂しがり。

□ジェイ・ド・ミューグレー

カツミの恋人。

男性。二十八歳~二十九歳。少佐。研究者。

貴族の家柄。家は財閥系の情報企業。長男で弟がひとりいる。

身長180センチ。すらりとした長身。黒髪。淡い茶色の瞳。眼鏡をしている。

幼い頃から天才と騒がれ跡取りとして大事に育てられる。

幼年学校は二年スキップしたにも関わらず、あらゆる資格を取得。

士官学校も一年スキップで卒業する(ラヴィ・シルバー以来の快挙)。

家の跡を継ぐまでの間という約束で長年の夢であった特区入隊を果たすが、事故により飛行隊任務が出来なくなる。婚約も破棄。任務も研究職に変える。家の跡取りは弟に変わる。

カツミにとっては父親的存在。

優しさと狡さ、独占欲と包容力を持つ。

長いスパンで先を見通すため、他人には理解し難く、アンビバレンツな人物に見える。

□シド・レイモンド

ジェイの元恋人。一年前に別れたが、現在も未練を持っている。

男性。二十八歳。少佐。軍医(外科医)。

実家は開業医。父親は外科医。母親はシドが十歳の時に離婚。一人息子。

肩まで伸びた癖のある栗色の髪。栗色の瞳。女性的な印象。

スキップで入学した医大を首席卒業した切れ者。毒舌家で皮肉屋。挫折を知らない世渡り上手。

カツミの恋敵的存在だが、いい人を演じている。

□フィーア・ブルーム

カツミの同僚。ライバル的存在。

男性。十九歳。少尉。飛行隊。

さらりとしたクリーム色の髪。深く青い瞳。A級特殊能力者。

母親から虐待を受けて育つ。士官学校に入る前からアーロン(ジェイの弟)に見出され、支援を受ける。

温厚で控え目な性格を演じているが、他人に本音で接することを恐れている。

□セアラ・ラディアン

カツミの姉的存在。関係は一度だけあるが実質片思い。

女性。十九歳。少尉。管制塔任務。

さらりとした長い黒髪。栗色の瞳。美少女。

天真爛漫。反面、思慮深く母性が強い。

大きな瞳をくるりと上に向けて微笑む癖がある。

□ユーリー・ファント

カツミの同僚。上官。

男性。二十五歳。少佐。飛行隊。

実家は貿易商。サラの幼馴染み。自称情報通。A級特殊能力者。

社会背景や軍の在り方に強い疑問を持っている。

困った時に頭を掻く癖がある。

□ロイ・フィード・シーバル

カツミの父。特区の最高責任者。

男性。四十七歳。中将。

クリーム色の短髪。トパーズ色の瞳。長身。

実力主義の冷酷な人物。カツミのことは所有物と思っている。

A級特殊能力者。

□ルシファー・セルディス

カツミの同僚。後輩。

男性。十八歳。少尉~大尉。飛行隊。カツミのフライトオフィサ。

実家は百貨店経営や貿易を営む名家。兄と姉がおり、末っ子。

さらりとした黒髪。深い緑色の瞳。身長180センチ。長身。

A級特殊能力者。特に『聞く者』の能力に長けている。

他人の心の裏側が聞けることで、子供の頃は人間不信で攻撃的だった。

聞けることが当然で育っているので、シールドが高く聞けないカツミに振り回される。同時に唯一の分からない相手であるカツミに惹かれる。

口が達者だが奥手。頭脳先行型。俯瞰から物事を見るのは得意だが、他人の気持ちは察するよりも読んできたので、思い図ることが苦手。観察者側に自分を置く。

読書が趣味。常に分厚い本を読み漁っている。愛読書は『廃船の記録』。

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