第六話 背徳への誘惑

文字数 2,859文字

 18ミリア。訪室したカツミをフィーアは微かな笑みすら浮かべて出迎えた。

「そんな顔しないの」
 困り顔の兄が、唇を噛んだままの弟をたしなめる。
 風呂上りなのかフィーアの髪は濡れていた。洗いざらしの真っ白なシャツ。服の好みまで似通っている。

「ジェイのこと知ってたんだね」
 カツミの問いにフィーアが苦笑いを浮かべた。知るどころか脅された相手なのだ。
 ひとつ頷いたフィーアがカツミの隣に腰を下ろす。膝を抱えて顎を乗せると、事実だけを告げた。彼の口調はとても乾いている。語る内容には、まるでそぐわない。
「最初は軍医に呼ばれたんだ。それから、ミューグレー少佐に脅されて麻薬を打たれた。その後のことはよく覚えていない。気づいた時にはもう誰もいなかった」
 絶句したままカツミが目を見張っている。

「能力を使えば逆らえたと思う。でも使わなかった」
「なんで」
「カツミなら分かるよね。下手すると相手を殺すんだから」
「……うん」
 初雪の景色がカツミの脳裏に浮かぶ。身を切るような冷たさ。土の匂いと血の味が。

「本当はもう現実から逃げたかった。やめられなかったんだ」
「さっきのユーリーって人」
「向こうで手を回したんだろうね。すぐ接触してきた」
「誰かに打ち明けようと思わなかったの?」
「そんなこと。ミューグレー家に潰されるだけだよ。あの人に何かを言えるやつなんて特区にはいないから」

 自分もフィーアと同じだとカツミは思った。
 抗いを捨てる。自己の一部である能力を拒む。カツミは能力のほとんどを封印していた。未知数と言われた能力だ。制御できるわけがない。

 ──特殊能力。それは祝福ではなく呪いだ。思念だけで殺人を犯す能力など誰が欲しがるだろう。何かの間違いを起こすと、大切な人すら殺める能力など。

「驚いた?」
「ごめんね、フィーア」
「なんで謝るの? カツミは悪くない。それどころか助けてくれたじゃない」
 フィーアの言葉はカツミの耳に入らなかった。罪悪感で心が苦しくてたまらない。フィーアを苦しめた原因は自分なのだ。大切にしたいと、愛おしいと思ったばかりの相手なのに。
「俺のせいだよ。ジェイは」
「カツミの恋人だよね。好きなの?」
「好きだよ」
 即答が返された。それだけはカツミの真実なのだ。嘘偽りのない真実。何があっても変わらないと思えること。その彼に悲しげな視線が向いていた。

「カツミ。いつもこっちを見てたね。何を考えてたの?」
「似てるなって思ってたんだ。だからその意味を知りたかった」
「自分もカツミのこと見てたんだよ。気づいてた?」
「そうだったの?」

 ──さあ、認めなさい。纏う呪いを清めし者よ。彼に託しなさい。これまでずっと、あなたの祖先がしてきたように。

 フィーアの脳裏に、またあの『声』が響いた。一年前から時おり聞こえる声。フィーアは念動力を持つ特殊能力者だ。他人の思考を聞くことは出来ない。なのに、同じ言葉が何度も繰り返し聞こえるのだ。

 さらにフィーアは不思議な夢も見ていた。砂浜に佇む美しい王女の夢を。彼女はフィーアにこう告げていた。

 『貴方は纏う呪いを清めし者。カツミという鏡の穢れを清める者。しかし貴方の父親はその運命に抗った。私はこの星の意識の底を洗う機会を失った』と。
 その時フィーアは、今度もまた『要らない人間』と言われたように感じた。あの王女に自分の運命を握られているとしたら、自分はカツミのための道具なのだと。機会を失ったということは、もう不要なのだと。

 カツミは自分と同じように辛い子供時代を過ごした。でもなぜこんなに眩しいのだろう。自分が銃口を突き付けた時ですら、カツミは美しかった。毅然と目も逸らさずに、鏡のように自分を『映した』。

 フィーアはカツミが選ばれたわけを知りたかった。自分ではなくカツミが選ばれたわけを。
 今なら分かる。二人は似ているようで根幹が違うのだ。コインの裏が表にはなれないように。カツミは死に手招かれても生きることに縋る。どんなに死に魅了されても最後にはそれを振り切る。

 フィーアは気づいた。カツミだけは生かさなければならない。それが声の意味。『託す』ということだ。

 なぜだか切なかった。胸が苦しかった。目の前にいる美しい人。彼が自分の弟であることが眩しかった。
 それと共にフィーアは自分の本心をカツミという鏡に炙り出されていた。……カツミが欲しい。ただのひと時でも。ほんの一瞬であっても。

 ──青い瞳。夜明け前、ほんのひと時だけ世界を染める色。この星の海原と、ひとつ繋ぎとなる安息に誘う色。波間が揺らぐ。水底に向かう光は、やがて熱を失くして静寂に横たわる。

「ねえ、カツミ。それほど深く愛されるって、どういう気持ちなの?」
 突然の問いにカツミがすっと息を飲んだ。返せる言葉が浮かばない。フィーアがさらに畳みかけた。
「なにを想いながら抱かれるの?」

 ──水底の瞳が深海にいざなう。ざわざわと切なさを湛えて。薄明の瞳が風を送る。さらさらとこころの際を撫でながら。

「フィーア」
「ごめん。羨ましくて。ううん。妬ましくて」
 ──自分もカツミのこと見てたんだよ。気づいてた?
 同じ魂の誘惑だった。鏡であるカツミにフィーアの本心が映し出される。寸分たがわずに、そのままのこころが。
 カツミがフィーアの頬に手を添えた。衝動だった。抑えがたい誘惑だった。

「教えてほしい?」
「……うん」
 春の初めに生まれた小鳥が、冬のただなかに生まれた小鳥にキスをする。羽根が触れるように。無邪気に。

 ──さあ、認めなさい。纏う呪いを清めし者よ。
 フィーア。彼もまた導く者を生かすために捧げられるのだ。この海に、いのちの海に、ひとつの泡となって。

 ◇

 優しいキスだった。こんな安らぎを求めていたとフィーアは思っていた。
「背徳って言うの? これ」
「カツミが後ろめたく思うことないよ」
「うん」
「今だけでいいから、抱き締めて」
 確かに背徳だとフィーアは思う。しかし、湧き上がる気持ちに抗う必要などない。
「好きだよ。カツミ」
「うん。好きだよ」

 これが自分の運命だと、フィーアは既に覚っていた。
 好きな人ができたとたんに手放すことを求められるとは、運命とはなんと残酷なことを強いるのだろうと。
 最後ぐらいは抗いたい。
 フィーアは、そうも思っていた。これまでただの一度も、欲しいものを欲しいと言えなかったのだから。

 フィーアの髪を撫でていたカツミがふいに動きを止めた。立ち上がる彼が色の違う瞳でフィーアを見つめる。生死の狭間にある瞳で。

「シャワー浴びてくる」
「いいの?」
 フィーアが念を押した。二人は兄弟。これは背徳なのだ。だがカツミは迷いのない笑みを浮かべると、さっと背を向けた。

 ジェイはカツミを許しはするだろう。一時の気まぐれと笑うに違いない。自分はその程度の相手なのだ。
 でも、それでいいのか。カツミの心に永遠の印を残したいと願ってはいけないのか。
 シャワーの音が止まった。それを耳にしたフィーアは、着たばかりのシャツのボタンを外していった。
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登場人物紹介

□カツミ・シーバル

主人公。

男性。十九歳~二十歳。少尉~少佐。飛行隊。

眉目秀麗。幼顔で中性的。身長160センチ。華奢で小柄。

右の瞳がトパーズ色、左の瞳がクリムゾン色のオッドアイ(ヘテロクロミア)。

肩まで伸びたやや癖のあるクリーム色の猫っ毛。

最高位の士官学校を首席卒業した優秀な人物。父親は特区の最高責任者。

母親はカツミを産んですぐに死亡。一人っ子。

育児や教育は使用人によって行われ、父親からネグレクトと虐待を受けて育つ。

拒食症で不眠症。体力は特殊能力で保持している。

超A級特殊能力者だが、子供の頃に父親の本音を知るのが怖くなり、能力のほぼ全てをみずから封印した。

ただし戦地では解放している。

口癖は「ごめん」。自虐的で自罰的。逆に天然な面があり、小悪魔的。

無意識に他人の本音を引き出す言動をする。

必要のない人間だと言われることを極度に恐れている。寂しがり。

□ジェイ・ド・ミューグレー

カツミの恋人。

男性。二十八歳~二十九歳。少佐。研究者。

貴族の家柄。家は財閥系の情報企業。長男で弟がひとりいる。

身長180センチ。すらりとした長身。黒髪。淡い茶色の瞳。眼鏡をしている。

幼い頃から天才と騒がれ跡取りとして大事に育てられる。

幼年学校は二年スキップしたにも関わらず、あらゆる資格を取得。

士官学校も一年スキップで卒業する(ラヴィ・シルバー以来の快挙)。

家の跡を継ぐまでの間という約束で長年の夢であった特区入隊を果たすが、事故により飛行隊任務が出来なくなる。婚約も破棄。任務も研究職に変える。家の跡取りは弟に変わる。

カツミにとっては父親的存在。

優しさと狡さ、独占欲と包容力を持つ。

長いスパンで先を見通すため、他人には理解し難く、アンビバレンツな人物に見える。

□シド・レイモンド

ジェイの元恋人。一年前に別れたが、現在も未練を持っている。

男性。二十八歳。少佐。軍医(外科医)。

実家は開業医。父親は外科医。母親はシドが十歳の時に離婚。一人息子。

肩まで伸びた癖のある栗色の髪。栗色の瞳。女性的な印象。

スキップで入学した医大を首席卒業した切れ者。毒舌家で皮肉屋。挫折を知らない世渡り上手。

カツミの恋敵的存在だが、いい人を演じている。

□フィーア・ブルーム

カツミの同僚。ライバル的存在。

男性。十九歳。少尉。飛行隊。

さらりとしたクリーム色の髪。深く青い瞳。A級特殊能力者。

母親から虐待を受けて育つ。士官学校に入る前からアーロン(ジェイの弟)に見出され、支援を受ける。

温厚で控え目な性格を演じているが、他人に本音で接することを恐れている。

□セアラ・ラディアン

カツミの姉的存在。関係は一度だけあるが実質片思い。

女性。十九歳。少尉。管制塔任務。

さらりとした長い黒髪。栗色の瞳。美少女。

天真爛漫。反面、思慮深く母性が強い。

大きな瞳をくるりと上に向けて微笑む癖がある。

□ユーリー・ファント

カツミの同僚。上官。

男性。二十五歳。少佐。飛行隊。

実家は貿易商。サラの幼馴染み。自称情報通。A級特殊能力者。

社会背景や軍の在り方に強い疑問を持っている。

困った時に頭を掻く癖がある。

□ロイ・フィード・シーバル

カツミの父。特区の最高責任者。

男性。四十七歳。中将。

クリーム色の短髪。トパーズ色の瞳。長身。

実力主義の冷酷な人物。カツミのことは所有物と思っている。

A級特殊能力者。

□ルシファー・セルディス

カツミの同僚。後輩。

男性。十八歳。少尉~大尉。飛行隊。カツミのフライトオフィサ。

実家は百貨店経営や貿易を営む名家。兄と姉がおり、末っ子。

さらりとした黒髪。深い緑色の瞳。身長180センチ。長身。

A級特殊能力者。特に『聞く者』の能力に長けている。

他人の心の裏側が聞けることで、子供の頃は人間不信で攻撃的だった。

聞けることが当然で育っているので、シールドが高く聞けないカツミに振り回される。同時に唯一の分からない相手であるカツミに惹かれる。

口が達者だが奥手。頭脳先行型。俯瞰から物事を見るのは得意だが、他人の気持ちは察するよりも読んできたので、思い図ることが苦手。観察者側に自分を置く。

読書が趣味。常に分厚い本を読み漁っている。愛読書は『廃船の記録』。

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