第五話 絶望の縁にいても
文字数 3,554文字
「ちょっと時間あるかな」
招き入れたジェイには、シドの意図が分からない。
「カツミに診断書出したから、1サイクル休ませて」
書類を渡しながら、シドが短く言葉を継いだ。
「感づかれてるよ。ロイのこと」
ジェイの顔がさっと強張った。それを見たシドが感情を抑えて説明を付け足す。
「カツミに俺の親父、知ってる? って、いきなり来られてね。誤魔化したけど、なにかを察した口調だった」
眼鏡を外し片手で瞼を押さえたジェイは、逃げ場を失くし途方に暮れた顔をしていた。
「カツミには追い打ちだけど、ジェイから話した方がいいと思う。でないとますます」
言葉を畳みかけていたシドだったが、ジェイの顔から見る間に血の気が引くのを見て、慌てて口を閉ざす。
「すまない。少し待ってくれ」
洗面所に向かう背を見送りながら、シドは判断の甘さを思い知らされていた。病状の進行が加速しているのだ。病魔は最後の刃を振り下ろそうと、息を潜めて隙をうかがっている。
シドは深く悔やんだ。なぜもっと早く気づけなかったのか。そうしたら。そうしたら? だったらなにができたというのか。
次に何かがあれば終わりだと宣告したのは、他ならぬ自分だ。あれからずいぶんと経っている。もう時間の猶予はないのだ。
自分は見ることになるのだろうか。こんなに行き場のない気持ちを抱えたまま。最も大切な人の最期を──。
蒼白な顔のまま戻って来たジェイに、平静を取り繕うしかないシドが横になるよう促した。
「診察鞄を取ってくるよ。まったく揃いも揃って」
シドが軽く置いた皮肉を苦笑でしか押し返せないジェイ。その口をシドが口づけでふわりと塞いだ。
「隙だらけだよ。ジェイ」
皮肉を付け足すとシドがさっと部屋を出た。突き付けられた定めから逃げ出すように。
◇
「精密検査。受けたほうがいいよ」
シドの忠告を思い出しながら、ジェイがカツミの部屋に向かった。足を踏み入れた室内は薄暗く、しんとしている。時計を見上げると19ミリア。もうすっかり陽は落ちていた。
窓を開け椅子を引き寄せたジェイは、煙草に火をつける。こんな時間にどこへ? 動き回るのもままならないはず。そんなカツミの行き場など──。
外気に連れ去られる紫煙の先で、ナイトフライトから帰投した偵察機が滑走路を走行していた。冷たい霧雨に滲む赤いライト。涙で膜を張る瞳のような。
ジェイは今朝のことを思い出していた。誘っておきながら、うわの空だったカツミのことを。
ロイがカツミにほのめかしたのか? 自分達の過去を? だとしたらもう、カツミは直接訊いてくるだろう。疑問を胸にしまっておけるほど、カツミは大人でも臆病でもない。
でも、なぜだ? ロイは自分とカツミのことを、とっくに知ってたはずだ。その上で黙認していると思っていた。今さら干渉してくる理由が分からない。
自分の行動をロイは制限できないのだ。それを知りながら、ずっと利用してきた。忘れさせないために。自分のことを忘れさせないために。
◇
20ミリアを過ぎてから、ようやくドアが開いた。
カツミは一瞬だけ目を合わせると、そのままバスルームに向かおうとしたが、ジェイが慌てて腕を掴んだ。
「まさか、墓地に行ってたのか?」
カツミは返事をしなかった。黙ったままジェイの手を振りほどこうと身をよじる。ずぶ濡れの髪の先から雨のしずくが宙に舞った。
抵抗し続け、ようやくジェイの手を振りほどいたカツミだったが、今度は腕ごと抱き締められた。諦めて力を抜いたカツミの顔を、ジェイが覗き込む。逸らされた首筋に残る痕に、彼はすぐに気づいた。
「誰にされた?」
ジェイの指が首を取り巻くと、色の違う瞳が見開かれ、投げやりな返事が吐き出された。
「親父だよ。ジェイの昔の恋人。一番初めに、俺にこういうこと教えたやつだ」
ジェイの頬が微かに痙攣するのをカツミは見ていた。彼の唯一とも言える隠し事がこの瞬間消滅した。ジェイを失うことを恐れ、どうしても言えなかった事実。しかし、隠し通す意味はもうない。
関わるなと命ずる父には逆らえない。父の支配から逃れることは出来ない。大切な人は呪縛のフェンスの向こうにいた。眉を寄せ、無言のまま立ち尽くしている。
その指に力を込めて。もう終わらせて。渇望がそのまま言葉となった。
「殺して。ジェイ」
しかし、ジェイは逆に指を放した。カツミの望みは、ジェイの想いから最も遠いところにあったのだ。
「わけを聞かせてくれないか」
ジェイの問いから顔を背けたカツミが、苛立ちを顕わにしながら、脱いだ上着を椅子の上に叩きつけた。
「あいつが考えてることなんて、俺には分からないよ。でも一つだけ分かる。しょせん俺は、あいつの所有物だってことは」
絶望を口にしながらカツミがずぶ濡れの衣服を一枚ずつ脱ぎ捨てる。明るい照明のもとに暴かれる素肌。言葉もなく見つめるジェイの瞳に、無数の痣が映えた。
「どこで犯ったと思う? あいつ」
身にまとう物を全てなくしたカツミが、怒りと自虐の入り混じった瞳でジェイを見据えた。
「墓地だよ。フィーアの墓の上」
「……」
「ジェイに関わるなって。なに様のつもりだろうね。そんなこと言えるような親じゃないのに」
再びカツミを抱いたジェイの耳に、震える声が届く。
「どうしたらいいか分からない。もう、どうでもいい」
黙って抱擁を受け入れていたカツミだったが、やがて顔を上げるとジェイに問うた。
「教えてくれる? ジェイ。親父のこと知りたいんだ」
父とジェイの過去を。父が自分を憎むわけ、支配するわけを。心を縛り、自由を奪い、ようやく手にした温もりすら奪おうとするわけを全て知りたい。──絶望の縁にいても、それでも。
カツミがフィーアと決定的に違うのは、生死の境にいても、必ず光のある方に目を向けることだった。顕わとなったものがどんなに残酷でも、その奥を探ることだった。死に魅入られながらも生にしがみつく。その真ん中に彼はいる。そこにいなければ見えないものがあるのを、知っているかのように。
鏡に映るものによってカツミのなかにある天秤が揺れる。死が映れば死に。命が映れば生に。しかし彼の本能は知っているのだ。その死の中にも生があることを。
◇
カツミがバスルームから出ると部屋の中に甘い匂いが漂っていた。シチューを温めていたジェイが振り返る。
「あれっ?」
「あれじゃない。何日食べてないと思ってるんだ? よく立っていられるな」
いつものジェイの口調だった。ほっとした顔をして、カツミがクローゼットを開ける。そのままぼんやり立っている背中に声がかぶさった。
「パジャマなら右の引き出し。上から二番目」
とうとうカツミが笑い出した。それは彼にとっての、かけがえのない日常だったのだ。
だがすぐにカツミの胸の奥が疼いた。この幸せが途絶えたのは、いつからだったろう。それを招いたのは? 誰でもない、この自分だ。自分が悪いからだ。笑いながらも、こみ上げてくるものを必死に堪える。
何も言わずに許してくれる人。それに甘えて何度も傷つける自分。そして今もまた、ジェイを問いただしている。自分はなにも与えられない。傷をえぐるだけで、なにひとつあげるものがない。
父に従い、もうジェイから去らなければならない? ジェイを知らなかった頃になど戻れる? 震える心を抱え、ただうずくまっていたあの過去に。
カツミはかぶりを振る。そんなのは嫌だ。父がどんなに支配しようとしても、それだけは嫌だ!
何日かぶりに食事をするカツミをジェイはただ見つめていた。食後に紅茶を淹れてから、書類を取り出す。
「診断書だ。1サイクル休めって、ドクターから」
「……大丈夫と思うけど」
能力者部隊の方針が変わったばかりである。いま休むと任務から外される不安があった。
カツミにはもう、周囲からの誹謗中傷はどうでもいい。それより、時間に追われることで忘れたい事がたくさんあった。
「週末入れて実質四日だ。少しは身体のことも考えろ」
押し切られ、ようやく頷いたカツミがむくれ顔になった。それに苦笑いをしていたジェイだったが、急に表情を変える。
「カツミ。熱があるんじゃないか?」
「うん。室温下げようとは思ってた」
ジェイがさっと薬を取ってきた。手際よく食器を片づけながら、話ならするから横になれと促す。
その後ろ姿にカツミは違和感を覚えていた。何がどうとは言えないが。ジェイがジェイではないような。無理をしているような。
仕方ないな。隠し事をしてたのはこっちだし。カツミは自分を責めたが、ジェイのわけは違っていた。立っていられないほど身体が辛く、思うように動けなかったのだ。