第六話 もう、解けない

文字数 3,891文字

 医務室に戻ったシドは、少し仮眠を取ろうと書きかけの書類をまとめた。ふと顔を上げて壁際に置かれた薬品戸棚に視線を送る。
 中段にある白い粉末の薬瓶。シドの最後の逃げ場がその劇薬だった。カツミが自室に銃を置いているのと同様に、一年前から同じ場所に置かれたままである。
 向けた視線を動かせず、シドは立ち尽くしていた。

 『自分を好きになれるように』
 カツミの言葉が浮かぶ。
 私は……出来ていたはずだ。そうでなければ、医者などこなせるはずがない。しかし。最後の逃げ道を確保しなければ、もう笑うことすら出来なくなった。
 どこから狂ってしまったのだろう。この道はどこに通じている? 私には確信がある。ジェイを悲しませることだけはしないという確信が。でもその先。ジェイがいなくなってからのことは、今も自信が持てない。いや、カツミが私の手を離れてからと言った方が正しいのかもしれない。

「はは……」
 己を嘲笑うしかない。私はカツミのように『自分を好きになるために』行動したことがあっただろうか。いつも誰かのためではなかったか。そして、『してやっている』という言い訳で、自身の弱さから目を背けてきたのでは?
 この十年で落とした星の数ほどの溜息を、シドはまたひとつ重ねていた。

 ◇

 短い仮眠をとった後、シドはすぐにジェイの往診に出かけた。猛吹雪だった前回とはうって変わり、別荘地の丘には春のような陽射しが降り注いでいた。海も穏やかに灰碧色の波を揺らしている。
 いのちの芽吹く季節。その序奏は始まっていた。全ての生けるものが輝く季節。伸びやかに生命の喜びを謳歌する季節。時だけは決して止まらないのだ。

 海沿いの一般道からジェイの別邸のある緩やかな山道に右折する。そのとたん、針葉樹の森を抜けてくる柔らかな光がフロントガラスの上で踊った。淡い陰影をかたどりながら、ためらい、戸惑い、光と影が絡み合う。
 それはまるでシドの心の陰影だった。光と影を交互に見せながら、ある時は命を照らし、ある時は死を求める。ゆらゆらと、その狭間でシドの心はたゆたう。いま彼を生に繋ぎ止めているのは、たった一人の人物だった。

 ひと気のない静かな林道をゆっくりと縫っていくあいだ、シドは窓を開け放った。冷えた風と樹々の隙間から落ちる陽射しが、肌にじかに触れる。降り落ちる生と死の妖精。それが肌にふわりと触れて命を教え、ざらりと掻いて死へと誘惑した。

 ◇

 シドが屋敷の前に車を停めると、すぐに玄関が開いた。前庭の樹には、もうたくさんの蕾がついている。
「体調はどう?」
 シドの質問に、ジェイが張りのない声でなんとかねと答えた。居間に通されたシドは、出しっぱなしになっている鎮痛剤の箱を目にする。蓋を開けると、きっちり日数分の薬液が減っていた。
「出来れば内服薬から使って欲しいけどね」
「そうしたいところだけど」
「処方は変える。それとまずは点滴だな。横になって」
 シドの指示に微かに笑ったジェイが、ここぞとばかりに医者面しやがってと軽く毒づいた。
「お生憎さま。十年前から医者なんでね」
 ジェイはシドの切り返しに薄く笑みを重ねただけ。いつも見せていた余裕は完全に消え失せていた。

「週末にカツミが来るよ。大丈夫か?」
「見せた方がいいんだよ」
 全く予期していなかった返事に驚き、シドが押し黙った。
「その方がいいんだ」
 念を押すように、もう一度同じセリフが繰り返された。シドはジェイの生命を賭した覚悟に気圧される。
 ジェイにはもう分かっているのだ。カツミが彼の死を乗り越えていくことを。それを糧にして、みずからの足で歩き出すことを。

 点滴の準備をしているシドの目に、柔らかな光が届いた。寝室の隣にある温室から暖かな陽射しが射し込んでいたのだ。
 温室には背丈ほどもある大きな観葉植物がずらりと並んでいる。光を受けて輝くいのち。波打つ葉からこぼれる繊細な陰影。葉脈を透かすステンドグラス。
 それは美しい反面、ひどく切なかった。天からの祝福のような光がジェイを手招きしているようで。

 ◇

 点滴を終え温室の椅子に座ったジェイに、シドが紅茶を手渡した。シドが手にしたガラスの水差しを見て、ジェイが問いたげな視線をした。シドがふっと目を細めてみせる。

「そこの緑にね。水やりも大変だろうから」
「越して来た時、あんまり寒々としてたんでね」
「いいね。今日みたいに天気がいいと、生き生きして見えるよ」

 口をつぐんだ二人が、ひとときの安寧に浸った。
 溶け残った雪が外の光をよりいっそう輝かせている。風は冷たいが、室内は反射光に満たされとても暖かだった。葉に透けて溶けたガラスのような影が、温室の床に美しく広がっている。まるで宝石をちりばめたように。星のリングを映しこんだように。
 その穏やかな陽射しのなか、シドはロイから頼まれていた伝言をようやく口から絞り出した。

「ジェイ。シーバル中将が退官するそうだよ」
 しばらく全ての言葉が閉ざされた。きらきらと緑鉱石を溶かした光のなかで、瞼を閉じたジェイが十年の歳月に思いを馳せる。
 ──最後の生贄。その安息の地。
 ジェイは知らない。ロイの抱える虚無感のわけも。諦念のわけも。ただ、ロイは自分に似ていると思ったのだ。だからこそ、空洞を埋める欠片になろうとした。その変化をずっと待っていた。
 ロイに課せられた運命。その百年の呪いは、誰にも変えることは出来なかったが。
「……そうか」
 一言呟いたジェイは、その後沈黙を守った。ジェイの溜息を聞きつけたシドは、さらりと話題を変える。

「それと、セルディス家の末っ子が入隊してきた。A級の聞く者だよ」
「カツミとなにかあったようだな」
 いつものようにジェイの察しは速かった。だがもう、カツミになにがあっても彼の手は届かない。いのちの火種が消えないように、遠くから風を送ることしか出来ない。ジェイの無念に痛みを覚えながら、シドが答えた。

「フィーアの後輩だよ。その線で衝突したらしい。カツミは軽い怪我をしたけど、もう解決したみたい。どうやって和解したかは知らないけど」
「カツミの様子は?」
「貴方に応えようと必死だよ。でも強いね。毎日驚かされてるよ」

「お前はどうなんだ?」
「えっ?」
 シドは返答に窮した。ジェイが自分のことを訊いてくるとは思ってもいなかったのだ。
「……いつも通りだよ」
 シドの煮え切らない返事にふっと笑みを浮かべたジェイは、そのまま黙した。分かっていても問わない。いや、分かるからこそ問えない。ジェイにはシドの抱える脆さがくっきり見えていた。それに触れないことは、ジェイの優しさでも狡さでもある。

「体調が良くないせいもあるけど、どうも最近は気弱になってるみたいだ」
「どうしても入院したくないなら、使用人くらいつければいいのに」
「もう十年頑張ったからな。家には頼りたくないんだ。お前には、また迷惑をかけそうだけど」
 シドは思う。ジェイは自分だけに弱気な顔を見せる。それは自分に与えられた特権だと。
 だがその権利は苦痛と隣り合わせにあるのだ。一番見たくないものを眼前に突き付けられ、そしてもうどんなにあがいても時間は限られている。

 『俺ね、自分に課題を出してるの』
 カツミの想いの深さは自分を越えるものなのだろう。彼はジェイの最も望むことを知っている。それを掴む強さがあるのだ。自分にはない強さが。

「シド」
 ふいに呼ばれて顔を上げると、あの見透かすような視線とぶつかった。
「死にたそうな顔をしてるぞ」
 柔らかな陽射しのなかでそっと向けられた言葉は、包み込む優しさと棘のような鋭さを併せ持っていた。口を閉ざしたシドにジェイが予言する。

「お前は死なないよ」
 息を飲んだシドに、今度は狡い優しさが重ねられた。
「私が許さないからな」
 わずかに眉を寄せたシドが、苦笑まじりで茶化した。
「貴方は変わらないね。それは暗示か?」
「そう。もう、解けない」

 ──神の啓示のような言葉だった。解放の翼でありながら、呪縛の鎖のような言葉。

「ずるいね」
 愛しい人を見つめ、シドは涙を堪えていた。
 貴方はいつもそうして私を絡めとる。優しさと狡さ。愛情と欲望。安らぎと焦燥。相反するものを向けながらも、見透かすような目をして、私の手を掴んだまま離さない。

「そこがいいんだろう?」
 眼鏡の奥の目は少し意地悪で、しかしこの上なく優しい。シドはジェイにありのままの気持ちを伝えた。最愛の人だけを見つめ、心になにも纏うことなく、ありのままの気持ちを。
「……そうだよ。そこがいい」

 今だけは全てのことに目を瞑ることができる。シドはそう感じていた。身の置きどころのない葛藤も、浮かんでは消える狂気も、血の滲むような慟哭も。なにもかも全てに目を瞑ることができると。
 暖かな午後だった。厳かな光に満ちた春の兆しを感じる午後。そしてこの時が、シドとジェイとの最後の時間になった。

 ◇

 シドが帰ってジェイ一人になった部屋は、夕刻の闇に染まっていた。暖炉の火と落とした照明の灯りがジェイの横顔を照らす。向けた視線の先にあるのは、鳴ることのない電話。

 与えられるものは残り少ない。しかし最後まで踏み止まる。生死を宿すカツミの瞳に、いのちを映すために。
 カツミはこれから、たくさんの死を見ることになる。もっとずっと目を背けたくなる人の最期を見ることに。それが任務であり、最初の出兵が目の前なのだから。

「これは、シミュレーションだよ」
 こぼれ落ちた言葉にジェイはひとり小さく笑う。自分の死をこんなに突き放して見ているのが、なぜだかとてもおかしかった。
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登場人物紹介

□カツミ・シーバル

主人公。

男性。十九歳~二十歳。少尉~少佐。飛行隊。

眉目秀麗。幼顔で中性的。身長160センチ。華奢で小柄。

右の瞳がトパーズ色、左の瞳がクリムゾン色のオッドアイ(ヘテロクロミア)。

肩まで伸びたやや癖のあるクリーム色の猫っ毛。

最高位の士官学校を首席卒業した優秀な人物。父親は特区の最高責任者。

母親はカツミを産んですぐに死亡。一人っ子。

育児や教育は使用人によって行われ、父親からネグレクトと虐待を受けて育つ。

拒食症で不眠症。体力は特殊能力で保持している。

超A級特殊能力者だが、子供の頃に父親の本音を知るのが怖くなり、能力のほぼ全てをみずから封印した。

ただし戦地では解放している。

口癖は「ごめん」。自虐的で自罰的。逆に天然な面があり、小悪魔的。

無意識に他人の本音を引き出す言動をする。

必要のない人間だと言われることを極度に恐れている。寂しがり。

□ジェイ・ド・ミューグレー

カツミの恋人。

男性。二十八歳~二十九歳。少佐。研究者。

貴族の家柄。家は財閥系の情報企業。長男で弟がひとりいる。

身長180センチ。すらりとした長身。黒髪。淡い茶色の瞳。眼鏡をしている。

幼い頃から天才と騒がれ跡取りとして大事に育てられる。

幼年学校は二年スキップしたにも関わらず、あらゆる資格を取得。

士官学校も一年スキップで卒業する(ラヴィ・シルバー以来の快挙)。

家の跡を継ぐまでの間という約束で長年の夢であった特区入隊を果たすが、事故により飛行隊任務が出来なくなる。婚約も破棄。任務も研究職に変える。家の跡取りは弟に変わる。

カツミにとっては父親的存在。

優しさと狡さ、独占欲と包容力を持つ。

長いスパンで先を見通すため、他人には理解し難く、アンビバレンツな人物に見える。

□シド・レイモンド

ジェイの元恋人。一年前に別れたが、現在も未練を持っている。

男性。二十八歳。少佐。軍医(外科医)。

実家は開業医。父親は外科医。母親はシドが十歳の時に離婚。一人息子。

肩まで伸びた癖のある栗色の髪。栗色の瞳。女性的な印象。

スキップで入学した医大を首席卒業した切れ者。毒舌家で皮肉屋。挫折を知らない世渡り上手。

カツミの恋敵的存在だが、いい人を演じている。

□フィーア・ブルーム

カツミの同僚。ライバル的存在。

男性。十九歳。少尉。飛行隊。

さらりとしたクリーム色の髪。深く青い瞳。A級特殊能力者。

母親から虐待を受けて育つ。士官学校に入る前からアーロン(ジェイの弟)に見出され、支援を受ける。

温厚で控え目な性格を演じているが、他人に本音で接することを恐れている。

□セアラ・ラディアン

カツミの姉的存在。関係は一度だけあるが実質片思い。

女性。十九歳。少尉。管制塔任務。

さらりとした長い黒髪。栗色の瞳。美少女。

天真爛漫。反面、思慮深く母性が強い。

大きな瞳をくるりと上に向けて微笑む癖がある。

□ユーリー・ファント

カツミの同僚。上官。

男性。二十五歳。少佐。飛行隊。

実家は貿易商。サラの幼馴染み。自称情報通。A級特殊能力者。

社会背景や軍の在り方に強い疑問を持っている。

困った時に頭を掻く癖がある。

□ロイ・フィード・シーバル

カツミの父。特区の最高責任者。

男性。四十七歳。中将。

クリーム色の短髪。トパーズ色の瞳。長身。

実力主義の冷酷な人物。カツミのことは所有物と思っている。

A級特殊能力者。

□ルシファー・セルディス

カツミの同僚。後輩。

男性。十八歳。少尉~大尉。飛行隊。カツミのフライトオフィサ。

実家は百貨店経営や貿易を営む名家。兄と姉がおり、末っ子。

さらりとした黒髪。深い緑色の瞳。身長180センチ。長身。

A級特殊能力者。特に『聞く者』の能力に長けている。

他人の心の裏側が聞けることで、子供の頃は人間不信で攻撃的だった。

聞けることが当然で育っているので、シールドが高く聞けないカツミに振り回される。同時に唯一の分からない相手であるカツミに惹かれる。

口が達者だが奥手。頭脳先行型。俯瞰から物事を見るのは得意だが、他人の気持ちは察するよりも読んできたので、思い図ることが苦手。観察者側に自分を置く。

読書が趣味。常に分厚い本を読み漁っている。愛読書は『廃船の記録』。

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