第八話 貴方の幸せを見届けるくらいは

文字数 3,059文字

 パシンと小さな音をたて、暖炉の薪が一つ爆ぜた。
 赤々と燃える炎は、やがて熾火となる。激しく燃え上がり一瞬で終わる炎と違い、それはずっと長く穏やかに燃え続ける。
 薪が燃えゆくさまは人の生き死にによく似ている。
 すぐに燃え尽きてしまうものも熾火となるものも、どちらも美しく、そして尊い。

 早い時間に夕食を終えた三人は、暖炉の前でお茶をしていた。
 そのうちジェイの隣に座っていたカツミがうたた寝を始め、それを見たシドが過労を気遣った。
「来る途中もこうだったよ。残業続きみたいだけど、寝てないんじゃないかな」
 シドの言葉を聞き流しながら、ジェイの指が膝の上で寝息をたてるカツミの髪に伸びた。癖のある猫っ毛に、細い指が絡んでは梳かれる。

 シドはカツミが重度の不眠症であることしか知らない。だがジェイは不眠の理由を何度も聞かされていた。
 怖い夢を見ると。だから眠るのが怖いのだと。
 視界全てを覆いつくす白一色の世界。まるで砂漠の真ん中に放り出されたような孤独に襲われる。そんな夢を幼い頃から見続けているのだと。

「この1サイクル電話もして来なかった。私なしで何日持つか試したそうだ」
「なにそれ」
 驚いて目を丸くするシドに、ジェイが言い足した。

「当日の夜から駄目だったとさ」
「カツミね。一度泊まりにきたよ。その当日の夜に」
 吹き出しながらシドがばらす。今度はジェイが驚いて目を見開いた。
「カツミが?」
「添い寝してくれってせがまれたよ。怒る?」
 むっとした顔で、ジェイがカツミの頭を小突いた。膝の上のクリーム色の子猫は、知らんふりで眠っている。

「それと、これは言っとかないといけないだろうから」
「なんだ?」
 紅茶のカップを取り、複雑な思いを脇に押しやると、シドがゆっくり口を開いた。
「その日、カツミは自分からロイの所に行ってる」
「自分から?」
「一年前のこと、もちろん覚えてるよね」
「……ああ」
 視線を落としたジェイが、再びカツミの髪を撫でた。癒すように。慈しみをこめて。

「貴方が処分を頼みに行ったことを聞いたらしいよ。それで吹っ切れたんだと思う。もう忘れるって言ってたから。どっちにしろ、ロイの態度は柔軟になってる。カツミが会いに行けるくらいには」
「そうか」
「カツミの変わりようには驚かされるけど、なんて言って洗脳したんだ?」
「ずいぶんだな」
 ジェイはカツミの髪を撫でることをやめない。愛しげに。壊れものに触るように。そのしぐさ。他の誰にも向けない優しいまなざし。シドは息が止まるような切なさに苛まれながらも、目を離せずにいた。

「カツミのことが大事?」
 思わず口をついて出た言葉。吐き出してしまったものは、もう戻せない。シドは顔を上げることが出来なくなった。考えていたことと言うことがまるで違うじゃないか。なにを今さら。こんな分かり切ったことを!
「大事だよ。自分より、一番大事だ」
 ジェイの偽らない告白がシドの心を切り刻む。しかしシドは笑みを浮かべてみせた。ジェイは、自分が与えることの出来なかったものを掴み取ったのだ。最後の最後に手にしたのだ。

「じゃあ、幸せなんだ」
「幸せだよ。とてもね」
 シドは息を飲んだ。こんなに優しい笑みをジェイに向けられたのは、初めてだったからだ。ジェイが静かに己の幸運を讃えた。

「大切な宝石だ。それがいま、ここにあるんだよ」
 その宝石を守ろうとするように、ジェイがカツミの髪を撫で続ける。あどけない寝顔に慈しむような眼差しを向け、残り少ない時間の全てを注ぐ。
 ジェイにはもう、何の迷いもない。想いは決して揺るがず、背中を押そうとする者だけに向いている。

 二人から柔らかな光が溢れている。誰にも入り込めない光が。そう感じたシドが、眩しげに目を細めた。
 人を想うことは、どうしてこんなに底知れぬ力を生み出すのだろう。その力は人を幸福にも不幸にも引き寄せる。途方もない絶望の底に突き落とすかと思えば、届かぬはずの遥か天上にまで引っ張り上げる。
 相手の言葉が生きていく上で大きな意味を持つ。生きる指標となり、支えとなっていく。

「ジェイ。頼みがある」
「なんだ?」
「カツミの髪にキスして。この目で見ていたいんだ」
 シドの頼みに、ジェイがわずかに首を傾げた。眼鏡に反射する暖炉の炎が、当惑したようにゆらりと揺れる。
 だがそれは、光を伴ったまますぐにテーブルに置かれた。ジェイの指がカツミの髪をかきあげる。軽く唇を押し当てると頬を寄せ、今度は耳朶にキスをする。

 シドは瞬きもせずそのしぐさを見つめていた。呼吸することも忘れて。幸せだよと言ったジェイの言葉を噛み締めながら。

 自分がジェイにしてあげられることは? いまジェイに最も必要なことは? すっかり染みついてしまった使い古しの思考回路で、シドは最善の方法を探す。
 そう。いま自分にできる一番のことは。ここから去ること──。

 ──付き合わないか。十年前に切り出したのはジェイの方だった。
 だがシドは返事を保留にした。怖かったのだ。自分を根こそぎ変える相手に出会ってしまったのではと、恐れを抱いていた。
 シドは幼年学校を二年スキップした秀才だった。学生時代にも特区に入ってからも、何ひとつ挫折を知らなかった。だが彼は、全身全霊でなにかを奪い取りたいと思い続けていた。それで自分が変わってしまうことに恐れを抱きながらも、欲望は消し去れなかった。

 手にしたと思ったものは雪のように溶けていく。しかし、その記憶は残されるのだ。冷たく儚い、しかし美しい記憶が。

「ジェイ。カツミを置いて帰ってもいいかな」
 突然の提案だった。予定外だという顔をしたジェイに、シドが言い足す。
「無人車を手配しておくよ。カツミは地図を持ってるし、明日の朝6ミリアに出れば十分だろ?」

 ジェイの視線を遮るように立ち上がったシドが、診察鞄に手を伸ばしながら本心を告げた。
「皮肉を言ってるんじゃないよ。最善の方法だけを選びたいんだ。貴方がカツミを愛するように、自分も貴方のことを愛したいだけだよ」
 シドを見上げたジェイに、切ない願いが重ねられた。
「貴方の幸せを見届けるくらいは、させてもらえるだろう?」
 シドは感情を抑えられなくなっていた。目頭が熱くなる。いつもの苦笑で誤魔化そうとしたが、頬には涙がこぼれ落ちた。切なさを断ち切ろうと向けた背に、ジェイの穏やかな声がふわりと被せられた。
「ありがとう。シド」

 もう、後ろ手にドアを閉めるのが精一杯だった。声を殺して涙を拭うと、何度も言い聞かせる。ジェイに会えて良かった。幸せを確かめられて良かった。自分では与えることの出来ない幸せだったけど。

 確かに心は痛かった。血を流し悲鳴をあげていた。
 まだ小雪が舞っている戸外に一歩足を踏み出したとたん、押し殺していた嗚咽が堰を切って口からどっと溢れた。被り続けてきたペルソナはむしり取られ、切り裂かれた心からは鮮血が滴り落ちる。

 愛する人の幸福は喜びであるはずなのに、それが自分の願いであったはずなのに。なのになぜ、こんなに辛いのだろう。心が絶望を叫ぶのだろう。
 これほどの幸福と苦痛は、二度と味わうことはない。ジェイ以上に想いを募らせる相手は決して現れない。そんなことは自分が許さない。

 ガレージに入ったシドは、ジェイの車のフロントガラスを指でなぞり、そこに映る自分に笑ってみせた。
 情けない顔だ。でもこれが、本当の自分なんだろう。そう思いながら、泣き笑いの顔で目を細めた。こんな顔も悪くないと、心の内で強がりながら。
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登場人物紹介

□カツミ・シーバル

主人公。

男性。十九歳~二十歳。少尉~少佐。飛行隊。

眉目秀麗。幼顔で中性的。身長160センチ。華奢で小柄。

右の瞳がトパーズ色、左の瞳がクリムゾン色のオッドアイ(ヘテロクロミア)。

肩まで伸びたやや癖のあるクリーム色の猫っ毛。

最高位の士官学校を首席卒業した優秀な人物。父親は特区の最高責任者。

母親はカツミを産んですぐに死亡。一人っ子。

育児や教育は使用人によって行われ、父親からネグレクトと虐待を受けて育つ。

拒食症で不眠症。体力は特殊能力で保持している。

超A級特殊能力者だが、子供の頃に父親の本音を知るのが怖くなり、能力のほぼ全てをみずから封印した。

ただし戦地では解放している。

口癖は「ごめん」。自虐的で自罰的。逆に天然な面があり、小悪魔的。

無意識に他人の本音を引き出す言動をする。

必要のない人間だと言われることを極度に恐れている。寂しがり。

□ジェイ・ド・ミューグレー

カツミの恋人。

男性。二十八歳~二十九歳。少佐。研究者。

貴族の家柄。家は財閥系の情報企業。長男で弟がひとりいる。

身長180センチ。すらりとした長身。黒髪。淡い茶色の瞳。眼鏡をしている。

幼い頃から天才と騒がれ跡取りとして大事に育てられる。

幼年学校は二年スキップしたにも関わらず、あらゆる資格を取得。

士官学校も一年スキップで卒業する(ラヴィ・シルバー以来の快挙)。

家の跡を継ぐまでの間という約束で長年の夢であった特区入隊を果たすが、事故により飛行隊任務が出来なくなる。婚約も破棄。任務も研究職に変える。家の跡取りは弟に変わる。

カツミにとっては父親的存在。

優しさと狡さ、独占欲と包容力を持つ。

長いスパンで先を見通すため、他人には理解し難く、アンビバレンツな人物に見える。

□シド・レイモンド

ジェイの元恋人。一年前に別れたが、現在も未練を持っている。

男性。二十八歳。少佐。軍医(外科医)。

実家は開業医。父親は外科医。母親はシドが十歳の時に離婚。一人息子。

肩まで伸びた癖のある栗色の髪。栗色の瞳。女性的な印象。

スキップで入学した医大を首席卒業した切れ者。毒舌家で皮肉屋。挫折を知らない世渡り上手。

カツミの恋敵的存在だが、いい人を演じている。

□フィーア・ブルーム

カツミの同僚。ライバル的存在。

男性。十九歳。少尉。飛行隊。

さらりとしたクリーム色の髪。深く青い瞳。A級特殊能力者。

母親から虐待を受けて育つ。士官学校に入る前からアーロン(ジェイの弟)に見出され、支援を受ける。

温厚で控え目な性格を演じているが、他人に本音で接することを恐れている。

□セアラ・ラディアン

カツミの姉的存在。関係は一度だけあるが実質片思い。

女性。十九歳。少尉。管制塔任務。

さらりとした長い黒髪。栗色の瞳。美少女。

天真爛漫。反面、思慮深く母性が強い。

大きな瞳をくるりと上に向けて微笑む癖がある。

□ユーリー・ファント

カツミの同僚。上官。

男性。二十五歳。少佐。飛行隊。

実家は貿易商。サラの幼馴染み。自称情報通。A級特殊能力者。

社会背景や軍の在り方に強い疑問を持っている。

困った時に頭を掻く癖がある。

□ロイ・フィード・シーバル

カツミの父。特区の最高責任者。

男性。四十七歳。中将。

クリーム色の短髪。トパーズ色の瞳。長身。

実力主義の冷酷な人物。カツミのことは所有物と思っている。

A級特殊能力者。

□ルシファー・セルディス

カツミの同僚。後輩。

男性。十八歳。少尉~大尉。飛行隊。カツミのフライトオフィサ。

実家は百貨店経営や貿易を営む名家。兄と姉がおり、末っ子。

さらりとした黒髪。深い緑色の瞳。身長180センチ。長身。

A級特殊能力者。特に『聞く者』の能力に長けている。

他人の心の裏側が聞けることで、子供の頃は人間不信で攻撃的だった。

聞けることが当然で育っているので、シールドが高く聞けないカツミに振り回される。同時に唯一の分からない相手であるカツミに惹かれる。

口が達者だが奥手。頭脳先行型。俯瞰から物事を見るのは得意だが、他人の気持ちは察するよりも読んできたので、思い図ることが苦手。観察者側に自分を置く。

読書が趣味。常に分厚い本を読み漁っている。愛読書は『廃船の記録』。

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