146:王女の支度

文字数 2,031文字

 ルカとの夕食は気もそぞろにはじまったが、彼はスーの気持ちが逸れるように話題を選んでくれたのだろう。

 気がつけば夜への懸念を忘れて、ルカと楽しい晩餐を過ごしていた。

 けれど、夕食を終えてから、オトの手を借りて本格的に夜の支度をはじめると、スーはふたたび頭を抱えたい気持ちになる。

(どうしてルカ様の期待を高めてしまうようなことを言ってしまったの、わたしは!)

 のたうちまわりたいくらいの後悔に苛まれながら、とにかく見た目だけでも理想的な状態になるようにと、完璧に支度をととのえた。

(全力でルカ様を口説くなんて!)

 スーは自分の掘った巨大な墓穴にすっぽりとはまっている。

(何もできない初心者なのに、いったいどうすれば!?)

「スー様、緊張されておられますか? 大丈夫ですか?」

「オト。大丈夫よ。おかげで夜のおめかしは完璧だわ。本当にありがとう!」

 スーは立ちあがって、くるりとその場で一回りする。

 長い黒髪は緩く結いあげてまとめ、夜着の上に揃いの羽織を重ねている。ほとんど透け感のない光沢のある生地は、一見すると上品な装いで大胆さはない。

 けれど、薄手の羽織の下では、肩がでた装いなっており、胸元も浅く隠れるだけの仕様になっている。ルカの前で羽織をぬぐと肩の線があらわになり、大胆に肌を晒すことになるのだ。

 スーはふんだんに薔薇をうかべた湯につかった。入浴後は、不在のユエンにかわって、オトが念入りに肌に香油を塗ってくれた。

 肌はつるつるのぴかぴかになり、うっとりとするような穏やかな花の香りに包まれている。身体から良い匂いがするのが、自分でもわかる。

「準備は万端よ!」

「はい。ですが、スー様はおちつかれないご様子なので」

 心配してくれるオトの気遣いに、スーは、はにかみながら頷いた。

「……正直に打ち明けると、ものすごく緊張しているわ」

「それは無理もありません。ですが、ルカ様もスー様が無垢でいらっしゃることは、心得ておられると思います」

 オトの優しい声を聞いていると、スーはすこし気持ちが落ちついてきた。

「――そう、よね」

 スーがどんなにお色気作戦を練ったところで、たかがしれているのだ。ルカはすでに百も承知だろう。

「ありがとう、オト。すこし落ちついたわ」

 オトがいつもの柔和な笑顔になった。

「では、ルカ様の寝室へ参りましょう。ルカ様はまだ寝室にいらっしゃいませんが、晩酌の準備は整ったようです。スー様はこれまでと同じように、寝室でお待ちになってください」

「ええ!」

 何度も同じ作戦で励んできた。これまでの夜とはちがい、スーはルカと気持ちを通わせているが、それでも油断は大敵だと言いきかせる。

 ルカのために励むことをやめてはいけないのだ。

 オトに案内されて、スーはルカの寝室にはいった。彼女は退出する際に、そっとスーの手をにぎってほほ笑んでくれる。ふくよかな手の温もりが伝わると、なぜかスーの心に、今夜が特別な日になるのだという思いがすとんと馴染んだ。

 スーはすでに見慣れたルカの寝室で、いつもの長椅子にかける。背の低い卓に、晩酌の用意も整えられていた。

(ルカ様は、今夜は何を召しあがるのかしら)

 著名な銘柄と、スーの知らない銘柄と、数本が選んで持ちこまれている。ルカの嗜好が偏っている印象はない。

(不思議。この状況を見慣れているせいか、いまは全然緊張していないわ)

 重厚で静謐なルカの寝室。奥にある天蓋のある寝台を眺めても、気持ちが落ちついている。お色気作戦に挑んでは敗北した記憶が、緊張を和らげているのかもしれない。

 あたたかな光の照明が、穏やかに室内を照らしていた。
 ぼんやりと、はじめてこの部屋に足を踏み入れた日のことを思いだす。

 酩酊したルカに、酔ったいきおいで欲しいといわれた夜。

(そういえば、あの時にも大人の階段をのぼる覚悟を決めたのだったわ)

 未遂に終わったが、スーにとってはお色気作戦にくじけそうになる自分をふるいたたせてくれる体験だった。

(ルカ様は、いつ頃からわたしのことを意識してくださったのかしら)

 彼と過ごした日々を振り返っても、スーにはまるでわからない。
 あれこれと記憶をたどっていると、ぱたりと奥の扉が開く音がした。スーが入ってきた扉とは異なる、ルカの寝室から浴室へとつながる扉。

 スーが弾かれたように顔をあげると、ルカがゆっくりと寝台の向こう側からこちらへと歩み寄ってくる。スーはいつもと同じように立ちあがって声をかけた。

「ルカ様、お邪魔しております」

 静かな部屋に凛と自分の声が響く。以前、繰り返した日々がよみがえったかのように、既視感にも似た懐かしさがあった。ふいにルカとの晩酌がかなう、平穏な夜に戻れた幸運を感じた。

「今夜はどちらを召し上がりますか?」

 卓上で並んでいる瓶に目を向けると、空気の動く気配がした。ふっと背の低い卓に影が落ちる。辺りに放たれる甘く爽やかな香りが濃密になるのを感じて、スーは歩み寄ってきた影をあおいだ。
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