152:突然の朗報

文字数 2,087文字

 ルカがスーを連れてサイオンの王城へもどると、すでに王宮医がよばれていた。湖底の遺跡をでて帰途につく頃には、彼女の気分の悪さも晴れたようだ。いつもの溌溂さを取りもどして、スーは隣で生き生きと笑っている。

 ルカも一時的な不調かと思うが、サイオンの遺跡で見た青い光の影響がないとも言いきれない。
 リンもそう考えているのか、医師の診察はルカの予想よりも物々しい手順を踏んでいる。

 スーが大げさだと不平を唱えそうだが、予想に反して彼女は大人しく従っていた。

(やはり、何か気になることがあるのかもしれない)

 抑制機構を逃れても、彼女は遺跡が補足しているサイオンの王女である。ルカの胸の内に、じわりと一筋の影がよぎった。

「ルカ殿下、心配はいりません」

 何とも言えない心持ちでスーの診察が終わるのを待っていると、ユエンがルカの滞在している客間に茶器をもってやって来た。
 ユエンは丁寧に緑茶を淹れてルカにさしだす。

「どうぞ、殿下」

「ありがとう」

 一口含むと、爽やかな甘みが舌先にしみこむ。ルカはほっと息をついた。

「きっと、姫様は――」

 何かを言いかけたユエンの言葉をさえぎるように、「ルカ様!」と室外からスーの声が響いてくる。すぐに客間の扉がひらき、彼女が飛びこんできた。

「ありがとうございます! ルカ様!」

 遺跡での不調が嘘のように、スーが猛烈な勢いで椅子にかけているルカに飛びつく。今まで見たことがないほど、喜色に満ちた顔をしていた。

「スー? いったい、どうしたんだ?」

「ルカ様のおかげでわたしの野望……、いえ、希望が一つ叶いました!」

「スーの希望?」

「はい! ルカ様の御子を授かりました!」

「…………」

 胸を(むしば)む不安とは、まったく真逆の方向から飛んできた突然の朗報である。信じられないと言うには心当たりがありすぎたが、それでもすぐには咀嚼できない。ルカが言葉を失っていると、スーはハッとしたように、背後のユエンを振りかえる。

「ユエン! 言ったとおりだったでしょう! ユエンと次に会う時には、わたしはルカ様との御子を授かって……」

 スーの得意げな声が、不自然に途切れる。ユエンの嗚咽がルカの耳にも響いてきた。

「……っはい、姫様……」

 こたえるユエンの声が濡れている。

「おめでとうございます」

 あまり感情の起伏を見せない侍女の涙を感じて、スーも泣きそうな顔になっている。

「ど、どうしてユエンが泣くの?」

「申し訳ありません、姫様。……でも、ほんとうに嬉しくて」

 目元を抑えて涙を拭うユエンに、スーは完全にもらい泣きの状態になっている。ルカから離れると、彼女はユエンに抱きついて泣きじゃくっている。

「……ユエンが泣くから、わたしまでっ……」

「はい。でも、本当におめでとうございます、姫様」

 スーを抱きしめて、ユエンが涙をこぼしている。ルカはいつか聞かされた彼女の役割を思い出した。

(私が姫様のお傍にお仕えする限り、姫様は殿下との御子を設けることはできません。それが私の役割です)

 天女の呪縛に縛られ、与えられていた残酷な使命。天女となるスーの子を葬るという、ユエンの心を置き去りにした役割。

 スーが身籠ったことを、素直に喜ぶ。
 そんな当たり前のことが、彼女にとっては永く諦めていた夢だったのだ。

「姫様」

 ユエンはすぐに感情の手綱を握りなおして、力強くスーにほほ笑んだ。

「元気な御子を産んで、必ず私にお披露目してください」

「もちろんよ、ユエン」

「ルカ殿下」

 ルカの前まで進みでると、ユエンは深々と頭をさげた。

「この度はおめでとうございます。そして、ありがとうございます」

 ユエンの真意が伝わってくる。その頃になって、ようやくスーを診察した医師が室内に入ってきた。

「おめでとうございます、皇太子殿下。スー王女はご懐妊されておられます。体調が思わしくなかったのは悪阻(つわり)の症状かと」

 晴れやかな顔で語る医師の声に、もうルカが戸惑うことはなかった。懐妊をよろこび、堪えきれずに泣いていた二人の姿が、新たな事実を受け止める余裕を作ってくれたのだ。

 夜が明けるような感動をともなって、胸の奥があたたかくなる。
 ゆっくりと気持ちが(たかぶ)っていくのがわかった。

 喜びに焼かれた心があつい。

 医師に礼を述べると、ルカはスーに声をかけた。事実を受け止めると、彼女に伝えたい言葉があることに気づく。

「スー」

「はい、ルカ様」

「ありがとう。とても嬉しい」

「――はい」

 スーがくしゃりと表情を崩した。美しい顔が泣き笑いになる。

「わたしも、とても嬉しいです」

 白い頬を伝う涙を指先でぬぐい、ルカは彼女の手をとった。慈しむように、そっと唇をよせる。

 与えられた喜びが、緩やかな波紋となり胸の内に広がっていく。風に震える水面(みなも)のように、心をゆりうごかす感動があった。

 それはゆっくりと身の内をたどり、心地の良い想いをもたらす。

「ルカ様」

 スーがふわりとルカに縋りついてきた。小柄な体をささえるように腕をまわして、ルカはやさしく彼女をうけとめる。

「本当にありがとう、スー」

 自然と感謝がこみあげる。彼女が身籠ったことを、心から祝福できた。
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