22:王女の目覚め

文字数 2,967文字

――サイオン

 天女の声がする。
 おびただしい数式と言語の群れが目前を流れていく。
 自分がまた夢の深淵にいるのだと、スーは気づいた。
 膨大な情報。心地の良い浮遊感。
 まるでどこにも辿りつかない祈りのように、美しい声が繰り返す。

――(いしずえ)となれ




 目覚めると、いつもの天井の装飾が視界に入った。スーは今日も皇太子妃としての勉学に精を出そうと思いながら、ゆっくりと身を起こす。

 眠気を引きずることもなく、頭がスッキリしている。寝起きは悪くない。

(よし、今日も一日頑張るわ)

 寝台で一日の意欲をたしかめていると、「姫様!」とユエンの叫びが聞こえた。
 穏やかな朝のはじまりの雲行きが怪しい。スーは驚いてユエンの顔を見た。隣には侍従長のオトも並んでいる。
 ただごとではない雰囲気である。

「もしかして、わたし寝坊しちゃった?」

 言いながら時計を見ると、すでに夕刻近い。

「ええ!?」

 スーは愕然とした。

「嘘!? どうして起こしてくれなかったの?」

「姫様。ご気分はいかがですか? どこか具合の悪いところはありませんか?」

「ユエン? 具合ってーー」

 寝台の前で深刻な顔をしている二人を見て、スーは唐突に思い出す。

「……あ、れ?」

 昨日はルカと楽しすぎるデートを満喫していた。自分の意気込みがことごとく空振りして、笑われることもたくさんあったが、名前を呼んでほしいと言われたり、手を繋いで一緒に歩いたりもした。

 ルカは相変わらず他人行儀な微笑みだったが、時折とても楽しそうに笑ってくれたし、幸せな時間を過ごしたと、スーは思う。
 思い出すだけで、顔がにやけてしまう。

(殿下……じゃない、ルカ様の私服、とても素敵だったわ)

 軍服を纏っている時の凛々しさも見惚れるほど素敵だが、昨日のラフな装いもとても良かった。

「姫様?」

 スーがニヤニヤと悦に入っていると、ユエンが不安そうにオトを見る。

「やはり、少しおかしいですね」

「姫様、わたしの名前はおわかりになりますか?」

 脳内のルカから現実に引き戻されながら、スーは不安そうに自分を見ている二人に首をかしげる。

「どうしたの? 二人とも……、あれ?」

 疑問を投げかけつつも、スーにもなにかがおかしいという感覚がこみ上げてきた。

 昨夜は、どんなふうに寝台に入ったのだろうか。
 そもそも、ルカとのデートから戻って来てからは、どうだっただろう。
 帰りの車の中では、何を話していたのか。

 舞い上がっていて覚えていない、というのも違う。
 懸命に昨日の記憶をたどるが、途中から全く思い出せない。

「姫様は、先日のルカ殿下とのお出掛け中に、気を失われたのです」

 ユエンが真面目な顔をしている。
 二人の不安げな様子の正体。

 オトが「医師にお知らせします」と踵を返すと、部屋を出て行った。

「気を失った? わたしが?」

 ユエンは労わるような眼でスーを見つめている。

「殿下とのデートの途中で気絶したの?」

 どんなに昨夜の記憶をこねくり回しても、途中からふつりと失われている。あまりにもいつも通りの寝覚めに思えて、スーは条件反射で普段通りの朝を思い描いていたが、たしかに記憶がつながらない。

 思い出せるのは、ルカと楽しく過ごしたひと時。

 湖岸にある美しい館で昼食を済ませてから、遺跡を見るために移動していたはずである。
 もしかして二人きりの密室状態に舞い上がって、興奮しすぎたのだろうか。

「それで、殿下……ルカ様は? 呆れていなかった?」

「呆れる? まさか! お戻りになった日は、それはもう心配されておられましたよ。姫様は全くお目覚めになりませんし。翌日も丸一日眠ったままで」

「え!?」

 今日が何日なのかユエンに日付をたしかめようとすると、オトと一緒に医師が部屋へ入ってきた。
 どうやら医師はスーのために館に呼ばれ、そのまま常駐していたようだ。

 軽く触診や問診をうけたりしたが、大きな心配はないらしい。帝国に嫁ぎ、環境が変わった疲れが出たのでしょうという診察結果に落ち着いた。

 スーは自分にそんな繊細な一面があったのかと仰天したが、数日はゆっくりと養生するようにと念を押された。
 医師が退出すると、入れ替わるようにしてオトが食事を運んできた。

「大事にならなくて良かったです。とにかくスー様には滋養をとっていただき、ゆっくりなさっていただきましょう」

 消化の良さそうな食事と、綺麗に盛られた果物が見える。

「ユエン様、後はよろしくお願いいたします。何かございましたら、すぐにお申し付け下さい」

「はい、ありがとうございます」

 ユエンが丁寧に頭を下げて、オトから食事の膳を受け取る。オトはスーを見つめて、安堵したといいたげに表情を緩めた。

「スー様、どうかしばらくはごゆっくりなさってください。ルカ様は軍の所用で不在ですが、そのうちお戻りになられると思います」

「わたしはもう元気だけど、色々と心配をかけてごめんなさい」

「スー様が頭を下げることはございません。慣れないクラウディアでの生活について、私どもがもっと気を配っておくべきだったのです」

「そんな! それは考えすぎよ、オト。きっとわたしがルカ様との時間に舞い上がりすぎただけよ!」

 スーは慌てる。自分の振る舞いで、周りの者が反省することを初めて知った。

 戸惑いながら、もっと皇太子妃になるという立場をわきまえなければいけないのだと、心に刻む。焦るスーの様子に、オトがクスッと笑った。

「お目覚めになられて、本当に良かったです。ではスー様、ごゆっくり」

「ありがとう、オト」

 オトが退室すると、ユエンが寝台で食事が取れるように支度をはじめる。

「ユエン、わたしは小卓で食事できるけど」

「いいえ。しばらくは安静にしていただきます。姫様が無理をすると、館の者が責任を問われるのです。それとも、ご自身の立場をまだご理解なさっておられませんか?」

「ーーそれは、いま理解したわ」

 素直に答えると、ユエンが頷いた。

「姫様が聡明で安心いたしました。とはいえ、姫様にそんなに繊細な一面があったなんて、私は正直驚いておりますが」

「でしょ? わたしも自分でびっくりしているわ」

 二人で顔を見合わせて笑ってしまう。

「ですが、姫様が気を失われたことは事実ですので、しばらくは大人しくいたしましょう」

「そうね。でも、きっとルカ様が素敵すぎたのが原因よ」

 寝台で身を起こしたまま、スーは食事に手をつける。口に含むと、途端に空腹を自覚した。

「ルカ殿下とのお出かけは、楽しかったのですか?」

「ええ! とっても!」

 スーは再びうっとりと記憶に浸る。うたた寝してしまうという失態にも、怒ることはなく気づかってくれる優しさ。スーのささやかな希望を叶えて、彼は手をとってくれた。大きな手は想像よりも温かくて、自分の手の冷たさに緊張がにじんでいた。とても恥ずかしくなったが、手をつないで歩くだけのひとときに、胸が苦しくなるほどときめいた。

 ときめいたり、恥じたり、幼稚な自分に落胆したり。あんなに感情が乱高下を繰り返していては、気絶してしまうのも仕方がない気がする。

 人を好きになるということは、きっと大変なことなのだ。

 ユエンにいかにルカとのデートが素晴らしかったのかを語りながら、スーはとにかく元気一杯でいられるようにと、ひとまず目の前の食事を完食した。
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