79:ヘレナの置き土産

文字数 1,873文字

 ルカが私邸に帰宅できる日は、スーとの晩酌が日課になりつつあった。ルカにとっても楽しいひとときではあるのだが、楽しさと忍耐を秤にかけると、笑えなくなる瞬間がある。

 真っ直ぐに自分に向けられる好意を拒むつもりはないが、忍耐の限界がくるまえに、そろそろ寝室への自由な出入りは禁じた方がよいのかもしれない。

 スーは酒に弱く、すぐに酔いつぶれて眠ってしまう。蠱惑的な彼女との時間がすぐに終了するのは幸いだったが、それでも日を追うごとにルカには耐えがたくなっていた。

 不毛な我慢大会はどうにかしなければならない。
 そんなことを思いはじめていた矢先に、途轍もない爆弾が投入された。

 ルクスの令嬢との顔合わせが意外な形で終了した翌日である。
 ルカが寝室に戻ると、もう習慣となってしまったかのように室内の長椅子にスーが待ちかまえていた。

「お邪魔しております、ルカ様!」

 夜を意識した装いは、上品な女性らしさを強調している。ルカの好みを心得ていると言いたげに、奇抜さや下品さはない。侍従長のオト辺りが助言していそうな気配を感じた。

 軽く会釈するスーの振る舞いは、それだけで端正だった。挨拶だけではなく、ちょっとした仕草、立ち居振る舞いのすべてが、今では皇妃にもひけをとらないほど洗練されている。

(……綺麗だな)

 素直な感想だった。

 今日はルカが不在時の日中に、ヘレナが訪れていたようだ。
 スーが彼女なりに通信網をつかって貴族令嬢との交友関係を築いていることは知っている。ヘレナからは教わることも多く、素直に懐いているらしい。

 夕食時にスーがヘレナの訪問を嬉しそうに話していた。「いろんなお話を伺いました」と語っていたが、ルカは相手があのヘレナであることを失念していた。

 初心(うぶ)なスーに、彼女が何を教えたのかは考えるだけで恐ろしい。
 今夜は警戒しなければいけなかったのだ。

 ルカは寝室の小卓の上に、スーが持参したワインの瓶を見たとたん戦慄した。

(ーーヘレナの置き土産か)

 彼女は要人が利用する隠れ家の女主人でもある。その筋から、表に流通しないような品も取り扱っていた。

 もう色も形も覚えていないかと思っていたが、ルカはワインのラベルを見た途端に、自分の過去の失態がまざまざとよみがえってきた。

「今日はヘレナ様にいただいた品をご用意しました。お二人で晩酌を楽しまれるのであれば、ぜひにと」

 スーの様子からは、そのワインがどんな代物かは知らされていないのだろう。もし知っているなら、無邪気にすすめてくるはずがない。

「ヘレナ様がルカ様にもよろしくと仰っておられました」

 屈託なく笑うスーにほほ笑み返そうとするが、ルカは笑顔がひきつる。

(ヘレナめ、何がよろしくだ……)

 ベリウス姉弟(きょうだい)ーーヘレナとルキアにとっては、ルカはいつまでも弟のようなものなのだろう。彼女たちは情報交換にも余念がないので、ルカよりもスーのことに詳しい時がある。

 自分がスーに全く手をつけない不自然さを、さぞ二人で勘繰っているのだろうと予想がついた。

(そういえば昨日、ルキアは思わせぶりなことを言っていたな)

 昨日、第三都ガルバにあるルクスの邸で、リオとルカの関係を知った時だった。ルキアなりに何か目につけたことがあり、その予想が大きく外れていないことを確信したような口ぶりだった。

 ルカには見当がつかないが、ルキアは侮れない。
 気にはなっているが、今はとにかくヘレナの置き土産を回避することが先決である。

 ルカは思い切って、この機会に彼女の寝室への出入りをたしなめることにした。

「スー、これからは広間で晩酌をしませんか?」

 広間ならば彼女も無防備に肌を見せた装いはできない。寝台が視界に入る危うさも失われるはずだった。

 男女のことに鈍いスーに、ルカの意図は伝わらないだろうと思ったが、みるみるうちに彼女の表情から生き生きとした勢いがなくなった。落ち込んでいるのがわかってしまう。

「ルカ様がそう仰るのであれば、そのようにいたします」

 長椅子に掛けてからも、しょんぼりと肩を落としている。

「わたしの考えがいたらず申し訳ありませんでした」

 ルカも彼女の向かいに座って、小卓に用意されているグラスを二つ手元に並べる。ヘレナの用意した地雷原には絶対に手をつけないように、度の低い果実酒を注いだ。

「いえ。これは私のけじめの問題なので、スーが謝ることはありません」

 ルカからグラスを受け取ってから、スーがじぃっと赤い瞳でルカを見つめている。

「もしかしてわたしは、ルカ様にとって生理的に受け付けないタイプなのでしょうか?」
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