85:黒をまとう皇太子
文字数 2,751文字
大規模な港湾のにぎやかな様子が遠くにみえる。さらに向こう側には海が広がっているのがわかった。第三都ガルバの貿易港ともつながり、第二都バルティアにもちかい。スー達を乗せた車は、まっすぐに賑やかな港へと向かわず、海岸線をたどるように作られた道路を走っている。
交通量は極端に減り、前にも後ろにも車の姿がみえない。
時折ルキアが端末で何らかのやりとりをしている。ルカについている護衛からの連絡のようだった。
「スー様は、船酔いはされますか?」
端末から顔をあげると、ルキアがスーに問う。
「船酔いですか?」
「はい。今日は波が穏やかなようですが、酔うようであれば念のため酔いどめを服用しておかれた方がよいかと」
「では、船に乗るのですか?」
スーは一気に目が輝く。
「実はわたしは海に出たことがありません。湖で船酔いをしたことはありませんが、海ではどうなるのかわかりません」
サイオンは山脈に囲まれた王国で、国土が海に面していないのだ。観光名所となっている巨大な湖しか知らない。
初めての海を船で体験できるのは素直に嬉しい。スーの期待に満ちたまなざしに気づいたのか、ルキアがほほ笑む。
「そうでしたか。本日はあまり船内をご案内できないので残念です。もっと楽しい船旅にお連れできれば良かったのですが……」
「いいえ! 大丈夫です! いつかルカ様とご一緒できる時のために勉強にもなりますし」
わくわくと気持ちを高ぶらせるスーとは裏腹に、隣のヘレナが大きくため息をついた。
「殿下は船をご利用になるのですね」
ルキアから酔いどめを受けとって、ヘレナが迷わず服用している。
「ヘレナ様は船酔いされるのですか?」
「はい。わたくしは船がすこし苦手ですわ。戻ってからもしばらく足元がふわふわいたしますし」
憂いを帯びたヘレナの顔も美しい。どんな仕草にも女性らしい色気があるのをうらやましく思いながら、スーも念のため酔いどめをもらった。
海岸線から続く長い桟橋 のまえで、車が一度とまった。石造りの桟橋は広く、一隻の大きな船が停泊している。
立派な客船だった。桟橋にはほかに人気がない。ルカもすでに乗船しているのか姿はなかった。
客船を貸し切っているのか、もともと皇家の専用船なのかスーには判断がつかない。
待機していた者に誘導されて、スー達を乗せた車がゆっくりと車両甲板へと乗り入れる。
ルキアにうながされて車を降りると、ふわりと潮の香りが鼻をつく。湖にはない海の香りを胸いっぱいに吸いこんでひたっていると、ほどなくしてもう一台車両が入ってきた。
少しの距離をとって、スーたちの乗っていた車の隣にとまる。自分達にも護衛の車がついていたことに、スーはそのときになってようやく気づいた。
ルキアに指示をうけて、ふたたび護衛が船内に散開していく。
ルカのあとを追って乗船すると聞いたとき、スーは自分たちの存在に気づかれるのではないかと心配だった。けれど、それは杞憂だったようだ。忙しなく動く護衛を目の当たりにして、スーは改めてルカや自分たちの周りでうごく者の多さを実感した。
(――帝国の皇太子は決して自由ではありませんので)
ヘレナの言葉の意味がよくわかる。両親への弔い。そんな特別な日にもルカは一人ではない。決して一人にはなれないのだ。
(わたしは今までなにを見ていたのだろう)
スーは帝国での日々を窮屈だと感じたことはない。いつも真新しい刺激に満ちていて、周りの者も優しい。ルカがいかに心を砕いてくれていたのかを、あらためてかみしめた。
彼を多忙だと思いはしたものの、皇太子として私的なひとときまで束縛されているとは考えたこともなかった。きっとルカが自分に見せないようにふるまっていたからだ。
(やっぱり、ルカ様はお強い方なのだわ)
ルカの素晴らしい資質を再確認しながら、スーはルキアに案内されて、最上階にある船橋 に設けられた客室へとはいった。まるで小さな城内にある居間のように、弾力のきいた長椅子が迎えてくれる。調度も穏やかに洗練されていた。
ソファにかけて、スーは改めて客室内をみまわす。壁面がガラスばりで明るい。船橋まわりの甲板の様子と海がよくみえた。
客船が動きはじめたのか、船体がゆるやかに回旋をはじめる。桟橋をはなれると、海に白い波をえがきながら船が走りだした。みるみる岸の様子が遠ざかっていく。
「ルカ様が船橋 の甲板においでになると、わたしたちに気づかれるのではありませんか?」
ルカがこの船内のどこにいるのか、スーは知らない。
ガラスばりの客室。こちらからみえるということは、向こう側からもみえるはずだった。ルキアもガラスのまえに立って甲板の様子をたしかめている。いまルカがあらわれると、完全にみつかってしまうだろうと、スーは気が気ではなくなる。海をみわたすだけであれば階下の甲板からでも充分できる。もしかすると船橋 からつながる甲板は立ち入り禁止になっているのだろうか。
でも、ルカのために用意された船である。どう考えても船橋より見晴らしのよい場所はない。
「大丈夫ですよ、スー様。船室は全て半透視ガラスになっておりますので、外からは内側が見えません」
ハラハラしているスーの様子がおかしかったのか、ルキアが笑っていた。
「そうなのですか?」
こんなにもはっきりと甲板の様子や海がみえるのに、ふしぎな仕掛けだった。
「スー様、殿下はあちらの船室にいらっしゃいますわ」
ヘレナにうながされてスーが視線をむけると、ブリッジの甲板をわたった位置に、こちらと対になるような客室があることに気づく。半透視ガラスが鏡のように甲板と海のきらめきを反射していた。
ルキアのいうとおり、客室内の様子をうかがうことはできない。
「あ、ルカ様!」
向こうがわの船室をでて、ルカがブリッジの甲板にあらわれた。
無造作に束ねたゆるく癖のある金髪が、潮風にあおられて広がる。けぶるように光る長い頭髪とは対照的に、いっさいのひかりを飲みこむような漆黒の装いが深い。
にわかに明るい世界に黒点が染みをつくったように、ずんとスーの胸に迫るものがあった。去来した迫力に、知らずに体がこわばる。
喪服といえるような正装ではないのに、それが彼なりの喪服なのだとわかってしまう。甲板の木目と青い海のさなかにあって、ルカの漆黒の衣装は異様なほどに印象的だった。
いまにも魔に魅入られて、どこかへ連れさられてしまいそうな儚さをかんじる。彼が手にしている純白の花束。花弁の白さがまぶしく、痛みをもたらす。美しいのに、この上もなく哀しい絵画のようだ。
ルカが遠くの海を眺めながら甲板を歩いている。ふとこちらの客室へ視線がなげられ、スーはここにいることを見破られたのではないかとぎくりとした。
交通量は極端に減り、前にも後ろにも車の姿がみえない。
時折ルキアが端末で何らかのやりとりをしている。ルカについている護衛からの連絡のようだった。
「スー様は、船酔いはされますか?」
端末から顔をあげると、ルキアがスーに問う。
「船酔いですか?」
「はい。今日は波が穏やかなようですが、酔うようであれば念のため酔いどめを服用しておかれた方がよいかと」
「では、船に乗るのですか?」
スーは一気に目が輝く。
「実はわたしは海に出たことがありません。湖で船酔いをしたことはありませんが、海ではどうなるのかわかりません」
サイオンは山脈に囲まれた王国で、国土が海に面していないのだ。観光名所となっている巨大な湖しか知らない。
初めての海を船で体験できるのは素直に嬉しい。スーの期待に満ちたまなざしに気づいたのか、ルキアがほほ笑む。
「そうでしたか。本日はあまり船内をご案内できないので残念です。もっと楽しい船旅にお連れできれば良かったのですが……」
「いいえ! 大丈夫です! いつかルカ様とご一緒できる時のために勉強にもなりますし」
わくわくと気持ちを高ぶらせるスーとは裏腹に、隣のヘレナが大きくため息をついた。
「殿下は船をご利用になるのですね」
ルキアから酔いどめを受けとって、ヘレナが迷わず服用している。
「ヘレナ様は船酔いされるのですか?」
「はい。わたくしは船がすこし苦手ですわ。戻ってからもしばらく足元がふわふわいたしますし」
憂いを帯びたヘレナの顔も美しい。どんな仕草にも女性らしい色気があるのをうらやましく思いながら、スーも念のため酔いどめをもらった。
海岸線から続く長い
立派な客船だった。桟橋にはほかに人気がない。ルカもすでに乗船しているのか姿はなかった。
客船を貸し切っているのか、もともと皇家の専用船なのかスーには判断がつかない。
待機していた者に誘導されて、スー達を乗せた車がゆっくりと車両甲板へと乗り入れる。
ルキアにうながされて車を降りると、ふわりと潮の香りが鼻をつく。湖にはない海の香りを胸いっぱいに吸いこんでひたっていると、ほどなくしてもう一台車両が入ってきた。
少しの距離をとって、スーたちの乗っていた車の隣にとまる。自分達にも護衛の車がついていたことに、スーはそのときになってようやく気づいた。
ルキアに指示をうけて、ふたたび護衛が船内に散開していく。
ルカのあとを追って乗船すると聞いたとき、スーは自分たちの存在に気づかれるのではないかと心配だった。けれど、それは杞憂だったようだ。忙しなく動く護衛を目の当たりにして、スーは改めてルカや自分たちの周りでうごく者の多さを実感した。
(――帝国の皇太子は決して自由ではありませんので)
ヘレナの言葉の意味がよくわかる。両親への弔い。そんな特別な日にもルカは一人ではない。決して一人にはなれないのだ。
(わたしは今までなにを見ていたのだろう)
スーは帝国での日々を窮屈だと感じたことはない。いつも真新しい刺激に満ちていて、周りの者も優しい。ルカがいかに心を砕いてくれていたのかを、あらためてかみしめた。
彼を多忙だと思いはしたものの、皇太子として私的なひとときまで束縛されているとは考えたこともなかった。きっとルカが自分に見せないようにふるまっていたからだ。
(やっぱり、ルカ様はお強い方なのだわ)
ルカの素晴らしい資質を再確認しながら、スーはルキアに案内されて、最上階にある
ソファにかけて、スーは改めて客室内をみまわす。壁面がガラスばりで明るい。船橋まわりの甲板の様子と海がよくみえた。
客船が動きはじめたのか、船体がゆるやかに回旋をはじめる。桟橋をはなれると、海に白い波をえがきながら船が走りだした。みるみる岸の様子が遠ざかっていく。
「ルカ様が
ルカがこの船内のどこにいるのか、スーは知らない。
ガラスばりの客室。こちらからみえるということは、向こう側からもみえるはずだった。ルキアもガラスのまえに立って甲板の様子をたしかめている。いまルカがあらわれると、完全にみつかってしまうだろうと、スーは気が気ではなくなる。海をみわたすだけであれば階下の甲板からでも充分できる。もしかすると
でも、ルカのために用意された船である。どう考えても船橋より見晴らしのよい場所はない。
「大丈夫ですよ、スー様。船室は全て半透視ガラスになっておりますので、外からは内側が見えません」
ハラハラしているスーの様子がおかしかったのか、ルキアが笑っていた。
「そうなのですか?」
こんなにもはっきりと甲板の様子や海がみえるのに、ふしぎな仕掛けだった。
「スー様、殿下はあちらの船室にいらっしゃいますわ」
ヘレナにうながされてスーが視線をむけると、ブリッジの甲板をわたった位置に、こちらと対になるような客室があることに気づく。半透視ガラスが鏡のように甲板と海のきらめきを反射していた。
ルキアのいうとおり、客室内の様子をうかがうことはできない。
「あ、ルカ様!」
向こうがわの船室をでて、ルカがブリッジの甲板にあらわれた。
無造作に束ねたゆるく癖のある金髪が、潮風にあおられて広がる。けぶるように光る長い頭髪とは対照的に、いっさいのひかりを飲みこむような漆黒の装いが深い。
にわかに明るい世界に黒点が染みをつくったように、ずんとスーの胸に迫るものがあった。去来した迫力に、知らずに体がこわばる。
喪服といえるような正装ではないのに、それが彼なりの喪服なのだとわかってしまう。甲板の木目と青い海のさなかにあって、ルカの漆黒の衣装は異様なほどに印象的だった。
いまにも魔に魅入られて、どこかへ連れさられてしまいそうな儚さをかんじる。彼が手にしている純白の花束。花弁の白さがまぶしく、痛みをもたらす。美しいのに、この上もなく哀しい絵画のようだ。
ルカが遠くの海を眺めながら甲板を歩いている。ふとこちらの客室へ視線がなげられ、スーはここにいることを見破られたのではないかとぎくりとした。